The beginning thunderstorm 〜 始まりの雷雨 〜

 騒つくと表現するのならそれは少し違う。

 ふと湧いた小さな思いが、私の心を揺さぶっている。

 その揺れは未だ治まらず、それで心が落ち着かない。


 野球は個人の技術が物を言うけれども、決して一人では出来ない競技。

 九人以上の個性が集まって、一つのチーム。

 そのうちの一人が入れ替わったら、それだけで別のチームのなるのではないか。

 私はそんな事を思う。


 薄く開けた窓から夜風が流れ込む。

 隣で眠る明日香は静かな寝息を立てている。

 決して寝苦しい夜ではないのだけれど、私は寝付けないでいた。


 頭の中に白い轍が蘇る。

 それはとても新鮮で、今までにないほど、私の心を沸き立たせた。


「じゃあ、行くよ」 


 私の球を受け取った綾は、そう言って左足を踏み出した。

 胸で構えたミットに寸分狂わず綺麗に収まる。


 対戦した当時、香坂綾という投手は、直球も変化球も可もなく不可もなくといった凡庸な印象だった。

 だから、日中に環の言っていた評価を素直に受け取れなかったのは事実。 

 チームが負けたのは、明日香が崩れたのが切っ掛けだと思っていたけれど、こうして再び相対して見ると、そうではなかったのかも、と思う様になった。


 そして、それは直ぐに確信に変わる。


「ちゃんと投げてみる?」私は新たに生まれた疑念を確かめようと、ボールを返しながら綾に問いかける。

「良いよ」グラブに球を収めながら綾は言う。振り返りプレートまで歩き、ボールを弄びながら、地面を慣らした。「投げやすそうだね」


 感触を確かめる綾に、一応の補足を伝える。


「ああ、ここさ、お兄ちゃん用だから」

「ああ、そゆこと」綾は頷く。「大丈夫。普通のマウンドでも投げる機会あったから」

「オッケ。ちょっと待ってね、用意するから」


 私はそう言ってネット脇に置いてあったプロテクタを身につける。

 親戚の叔父さんから貰ったお下がりの年代物だけれど、自主練で使う分には問題ない。寧ろこれがあったからこそ、私は兄の球を受ける事を実践出来た。


「おいおい、早速?」


 斜め後ろからの兄の声に反射的に振り向く。


「後で、私も」明日香が言う。

「自前のプロテクタ持ってるのかよ、良いなあ」

「年季の入った貰い物だけどね」

「それでも羨ましいなあ」言いながらも環の目線は綾に向かった。「ウチの元エースのお披露目だね。アンちにはどう映るかなあ」

「それを確認しようと思ってさ」

刮目かつもくして見たまえよ」

「そうするよ」環にそう言ってから、ミットを構えた。「良いよ」


 綾はこくりと頷いた。

 夏の日と寸分狂わない立ち振る舞い。

 威圧感の正反対にある物。

 悪く言えば彼女には覇気がない。

 けれど、それは裏を返せば、自然体であるという事。

 左足を後ろに。

 両手に包まれる様に左足が上がり。

 浅めのテイクバック。

 力感のないスリークォータから。

 滑らかに、流れる様に、右腕が出る。

 放たれた白球は寸分狂いなく、私の構えたミットに飛び込んだ。


「ナイスボール」


 言いながら投げ返し、腰を落とし再び構える。

 綾は死んだ魚の様な目で、ミットを見つめる。

 僅かに口元が歪んだ。

 微かに首を傾げ、マウンドから少しこちらに寄りながら綾は言った。


「これって練習だよね?」

「え? まあ、一応」

「ならさ、ど真ん中に構えても仕方なくない?」

「なっ」


 香坂綾という乙女を、投手としても、同い年の女の子としても私はよく知らない。

 一緒に練習をするのも初めてなので、肩慣らしの意味合いも含めてのど真ん中。

 そんな意図があったのだけれど、実戦を鑑みれば、確かに彼女の言う事は理解できる。


「ああいう子なの。効率重視っていうかさ」環が苦笑混じりに補足する。「そんな気を使う娘じゃないって」


 なるほど、なら話は早い。

 お言葉に甘えて、とコースを限定して構えた。


 球が飛び込む毎に私の想像が現実になってゆく。


 香坂綾。

 あの夏の日にまみえた、死んだ魚のような目をした乙女。

 直球、変化球問わず、速さも球質も至って普通の、これといった特徴のないフォームで球を投げ込む凡庸な投手は、受ける事で、初めてその本質に触れる事ができる。

 彼女は、その凡庸さを全て覆すほどの寸分違わぬコントロールを持っていた。


 私はマスクを脱いでマウンドに駆け寄る。


「うん?」首を傾げながら綾は怪訝な表情で私を迎えた。

「調子良い?」ほぼ確信していたけれど、敢えてきいた。

「別に普通だけど」

「そっか。変化球は?」

「別に投げても良いけど」

「いや、そうじゃなくて、球種」

「ああ。スライダーとシュート。一応、カーブとシンカーを練習中」

「なるほど。じゃあ、サイン決めよ?」

「……せっかくだし、カーブとかの練習したいんだけど」


 ああ、こういう子だったな、と思い出す。


「解った。好きに投げて」私は定位置へ。途中で振り返る。「ああ、一応投げる前に球種は言ってね」

「おけー」


 綾の球は、本人がまだ練習中と言っていた通り完成度は低かった。

 けれど、持ち球として認識している二つについてはまあ、及第点。

 と言うか、私は考えを改めねばならなかった。


 変化の大きな球は決め球として使い易い。

 けれど、綾のスライダーもシュートも決め球というには変化は乏しい。

 ただ、彼女の場合、変化の始まりが遅いという特徴がある。

 だから、どれもが一見凡庸だけれど、彼女のコントロールを持ってすれば、打者の狙いを外しゴロの山を築ける。


 ウチが負けたのは必然だった訳だ。

 私はちらりと環を見る。


「一級でしょう?」環はニシシと笑った。「捕手冥利に尽きる投手だよね、あの子は」

「……うん」


 捕手の組み立てを寸分狂いなく再現できる投手。

 ヴィデオゲームのような存在。まあ、それは言い過ぎだとしても、彼女はやはりエース足り得る投手だった。


「ウチのエース見せたんだ。今度はそっちのエース、見せてもらおうじゃあねえか」環は片目を瞑り、手の平を裏返し人差し指を向けた。


 もう少し綾の球を受けていたかったのだけれど、まあ仕方ない。時間は限られている。

 プロテクタを環にスイッチして、私と綾は普通のキャッチボールに移った。


「アンちゃん以外に受けてもらうのってすごい新鮮かも」マウンドに向かう明日香は、右手のグラブを開閉しながら言った。


 それに関しては、私も興味がある。

 他の捕手に明日香はどう映るのか。

 私達は、私達の狭い世界の中で自分達を見つめてきた。

 それが、もう少し大きい視野ではどう映るのか。

 母数が増えた客観的な評価は、どうしても気になってしまう。


 キャッチボールをしながら、横目でマウンドで屈伸をする明日香を眺める。


「あの、アンちゃん、さん?」綾が妙な呼び掛け方をした。

「いや、もう、アンちゃんで良いから、香坂さん」苦笑混じりに私は返す。

「私も呼び捨てで良いよ」

「あ、そう」返すのと同時に球を投げる。「で、なあに、香坂」

「そっち? まあ、良いけど」球がグラブに入る乾いた音。力みのないフォームから球が返ってくる。「疲れたんで、見学しませんかね?」


 綾はそう言ってこちらに近づきながら、横の二人を指さした。


「だね」私もじっくり見たかったので快く了承した。


 私と綾が肩を並べて落ち着くと、明日香と言葉を交わしていた環が戻ってきた。


「何話してたの?」私は環にきいた。

「え? ああ、サイン決めてた」

「はあ?」

「いやさ、試合みたいに組み立てしてみようかなって。こんな機会なかったからさ」


 環とは何度か合同で自主トレをしていたけど、本格的な投球練習はした事なかった。出来る環境ではなかった、と言うべきなのだろうけれど。

 どちらにせよ、私は興味深い現場にいる。


「後ろに立って良い?」私は環にきいた。

「良いよん。ただし……」こちらを向いてニヤリと笑う。「私が取り損なって当たっても恨むなよ?」

「そこまで下手じゃないだろ?」

「いや、解らんよ。明日香の球受けるの初めてだし。知ってる? あの日の前半戦、ウチらパーフェクトに抑えれてんのよ、君達に」

「それを言うなら、ウチだって凡打の山だったよ」

「いいや、アンちには、ど頭にセンター前打たれてるよ。ま、あれは出会い頭、ノーカンだとしてもさ、ウチは完全に力負け。手も足も出なかった。そんだけ、明日香の球は凄かったよ。まあ、普段から受けてるアンちには解らんだろうがねえ。ま、当たったら自己責任って事で」環は明日香に顔を向けてミットを叩いた。「始めよ」

「おーっし」明日香は左手を一回しして、腕を上げた。


 環のサインに明日香が頷いた。

 始動は静。

 ゆったりとした動きで右足が上がり。

 後ろに倒れるかのように背筋が反る。

 右足が踏み込み。

 そこを支えに、

 溜めた左腕が弾かれるように真上から。

 這うような白い轍はコースからそれて、左打者の顎付近へ。


「うわっとう」


 環が伸ばしたミットに辛うじて治った。


「あ、ごめーん」明日香がグラブを振る。

「次々、ワンボールね」


 投げ返された球を取り、明日香がモーションに入る。

 弾かれた球は今度はゾーン右の高めギリギリに収まる。


「良いね。ワン、ワン」


 私であれば、直球二球続けたので次は変化球を選択する。

 セオリ通りといえばそうなのだけれど。

 明日香の持ち球はカーブ、スライダーとチェンジアップ。

 打者が、左右のどちらかにもよるのだけれど、右ならカウントを考慮し膝下を掠めるカーブ。

 そんな予想を立てる。

 環の選択は、左打者の膝下にチェンジアップだった。

 まさか……。


「環、あんたもしかして……」

「あ、気付いた?」投げ返しながら環は不敵に笑う。「打者の想定はアンち、君なのだよ」


 やはり。


「明日香使って、私へのリベンジ?」

「別にそう言うのじゃないよ。自分だから解らないかもだけどさ、アンちって結構面倒な打者なんだよね。目は良いし、足も速い。くさいとこはカットするし、ゾーンに来たら、八割ミート。この手の打者の攻略の想定って結構為になるよ」

「買い被り過ぎだよ」  

「んな事ないって。実際ウチらはやられてんだから」


 確かに環の分析は的を射ている。

 ただ、八割ミートは盛り過ぎだ。

 それに私は自分の弱点も解っている。

 環がそれに気付いているのかは解らないけれど、そう仮定するなら次の球は。


 ふと明日香を見れば微妙な表情をしている。

 やはり、と思う。

 私はこういう組み立てはしないから。

 けれど、今組んでいる捕手は環であって私じゃない。

 そこは明日香も理解しているのか、表情だけで要求通りの球を投げ込んだ。


 アウトローに全力のストレート。

 小気味良い音を響かせて明日香の球がミットに収まった。


「はい、三振。もしくは内野ゴロ」環がこちらを向いてニヤリと笑った。

「外れてるって」マウンドでは、明日香がちょこんと舌出している。私は環に顎をしゃくる。「本人もボールだと思ってるよ」

「いやあ、あそこは振るでしょ」


 振らないよ、とは言い切れなかった。

 後ろから見ていたから外れていると解っただけで、打席に立った場合、場の雰囲気、流れってものがある。

 ケースにもよるだろうし。

 何より、さっきのストレートには振らせるだけの力、の様な勢いがあった。


 それにしても、仮想私とは言え、あの組み立ては新鮮だった。

 明日香には伝家の宝刀、スライダーがある。

 だから、どうしても、私はそれを軸に考えてしまいがちだ。

 そこを直球主体で攻めるとは、普段組まない物同士だからこそなり得た事なのだろうけれど、明日香のダメな部分を知っている私には出来ない発想だ。


「ねえねえ、ちょっと」明日香が頬を膨らませてこちらに来た。「なんでスライダー投げさせてくれないの?」

「え?」環が顔をあげた。「アンちにはスライダー打たれるよ。軌道解ってるんだし。それにさ、明日香の場合、もっとストレート磨いた方がいいと思うよ」


 いや、無理。解ってても打てないから、伝家の宝刀なんだってば、というのは何とか呑み込んだ。


 ただ、後者に関しては同意。

 なんだかんだ言いながらも、環はよく見ている。彼女は良い捕手だ。

 

 この捕手に綾の様な投手。

 この二人がいるチームなのだ、軟式という狭い世界だろうが、晴れ舞台で勝ち進めるだろう。


 この時だった。

 この時、私の中で何かが湧き上がった。

 それは、仄かに熱を持ったかけがえのない物。

 私の朧げな未来に輪郭がつき始めているの自覚する。

 思いは沸き上がる程に大きな泡となって顔を出す。

 寝付けない夜。

 夜風が吹き込む。

 喧しい程、秋虫が自分の存在を奏でていた。

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