Autumn distant thunder 〜 秋の遠雷 〜

琥珀こはく」開け放った窓の下から、私の名を呼ぶ兄の声がした。「バッティングネット使う?」

「あー、一応出しておいてくれると嬉しい」窓越しに声を張る。


 了解、と鼻歌まじりの兄の声が部屋に届いた。

 この日初めて環が家にやって来る

 濁り混じっていた蝉の声は次第に薄れ、甲高い秋虫の音に変わる。

 夜、吹き込む風はやや冷たい。

 けれど、日中の穏やかな陽差しは身体を動かすには丁度良く、ほどよくかいた汗は清々しい。

 季節は秋に差し掛かっていた。


 あの夏の日以降、私と明日香は、これまで失っていた時間を取り戻すかのように連絡を取り合い、二人の間の溝を埋める事に奔走した。

 と言っても、休日に二人で出かける、練習するといった程度ではあったのだけれど。


 そんな晩夏に環から練習の誘いがあった。

 私としてはかなりの遠出だったのだが、彼女の本拠地である埼玉は春日部まで赴いた。

 そこで私は沖田環の真実を知った。


 浦和翔葉について彼女はやけに詳しいなとは思っていた。

 おそらく念入りに調べたのだろうと、高を括っていたのだけれど、その実、彼女の姉がまさにそこの選手だった。

 それは詳しいだろう。

 身内だ。聞きにくい事も容易に聞ける。得心がいった。斯く言う私も似たような物だからだ。


 埼玉遠征の時もそうだったけれど、夏が終わって以降、私達の目標は先ず硬式球に慣れる事だった。

 これまで環境的な問題で軟式のチームに所属していたので、そこを怠ると、高校入学時の時点でシニア上がりとの差は開いてしまう。

 私としては明日香には慣れておいて欲しかった。

 けれど何分彼女は天才故、すぐに慣れてしまい、私の思いは杞憂となった。


 私はと言えば……。


 部屋のドアがノックされた。

 生返事を返すと、ドアが開き兄が入って来た。


「漸くメインで使う時が来たか」


 兄は、私が丁寧に手入れしている鮮やかな橙色のキャッチャミットに目を落とした。 

 中一の時、当時のプラン通り先を見据えてお年玉を叩いて購入した硬式用のキャッチャミット。

 当時は大きくて苦労したけれど、今はすっかり馴染んでいる。

 酷使してない所為で表面はまだまだ新品の趣が残っているけれど、中はしっかり軟らかくなっている。

 購入したその日から、私はこれを使っていた。


 斑目まだらめ一玖かずひさ


 私の兄であり、昨年の夏の神奈川準優勝高のエース。

 その彼の球を私は自ら志願して受けていた。

 ミットを手に入れた中学一年のその時から。


 無茶な事だとは私も解っていたし、兄も解っていた。

 寧ろ兄は私の練習に付き合ってくれていただけのように思う。


 それでも、強豪シニア上がりの高校球児の球を受けられる機会は、私にとって途轍もない経験を齎らした。


 私は恵まれている。

 良いか悪いかは置いておいて、所謂いわゆる強豪校に所属する兄に教えを乞う事ができる環境だった。

 兄には感謝してもしきれない。

 けれど、その兄は……。


「お兄ちゃん、今日仕事は?」

「え?」兄は不敵に笑った。「公休取りましたよ。お友達が来るんだろ? 見てみたいじゃん。あれだろ、天才なんだろ?」

「まあ、ね」


 兄は県大会準優勝を持って一線から退いた。

 幾つかの大学から誘いは来ていたらしいのだけれど、全て断り、地元のレストランに就職。

 家業も遠因で料理の世界に昔から憧れがあったらしい。

 ただ、野球自体と縁を切った訳ではなく、仕事の傍ら、友人と草野球をしつつ、縁のある少年野球チームに顔を出しつつと、中々に幸せそうな毎日を送っている。


 そしてもう一つ、私が恵まれている要因。

 それは、実家が家業として古くからこの地で農業を営んでおり、無駄に敷地が広い。

 兄という前例がある所為か、祖父母、両親共に協力的で、家の敷地内で練習できる環境が整っていた。

 だから、兄と練習する事が容易に叶い、この日の予定が組まれた訳だ。

 明日香は何度か来ているのだけれど、生憎、兄とはタイミングが合わず、この日が初顔合わせ。妙に張り切っている彼が少し滑稽に映る。


「練習後用にさ、サラダチキンとプロテイン入りのバナナのムース作っといたから」

「おお、ありがたい」


 ニヤリとする兄を見て、これで良かったのだろうと思う。

 読み物やネットの記事で、夏が終わった後も放心状態のまま、立ち直れない球児がいる事を知った。

 全てを捧げた挙句、掲げた目標に辿り着けない辛さは想像に難くない。

 なので、早々に見切りを付けたという言い方は多少の語弊を含むけれど、新たな道を選択をした兄は割と幸せ者の部類にカテゴライズされるのと同時に、私自身も考えるきっかけとなった。


 プロという世界が望めなくなった以上、先は見据えておかなければならない。

 そうなると、兄という前例は、私にとって良い見本ともなる。

 朧げな将来を描きつつも、今はこれから始まる三年間に全てを注ぎ込む。

 兄の姿はそんな私の心持ちを緩りと後押ししてくれる。


 不意に端末が鳴った。

 明日香か環のどちらかだろうと思ったけれど、着くには早すぎる。

 何事かと思い画面を覗くと、やはり環からのメッセージだった。


 ——サプライズ用意した。覚悟しやがれ。


 サプライズなら今言ってはダメだろうに。

 それに何の覚悟だよ、と思いながら、適当に返す。


 時計を見ると、あと三十分ほどで予定の時刻。

 最寄駅、と言ってもバス停だけれども、そこから家までは緩い坂道が続く。

 ウォーミングアップには申し分ないだろう。

 という事で、私も準備に勤しむ事にした。


 予定時刻より十分ほど遅れて彼女達は我が家の門をくぐった。


「やあやあ」先導して来た明日香が手を振りながら言った。


 私もそれに返す。


「コ、コッハー」明日香の背後から出て来た環が肩を上下させながら両手の平を広げた。


 庭でストレッチしながら待っていた私はその動きを止め、冷めた目を環にくれてやる。


「何それ」

「あんたの名前、と、挨拶を、合体させてみた」環は息を整えながら親指を立て不敵に笑った。

「あそう」私は苦笑。「それよりも、このくらいの坂道で息上がるってどうなのさ」

「いやいや」環は膝に左手を付き、右手を振った。「どこかの誰かが、家まで競争、とか、言いやがって」

「のわりに、他は息上がってないけど?」

「投手はスタミナお化けだろうが。私はキャッチャだよ」

「私もだよ……。で?」今日の予定は環と明日香が来るという事だった。けれど、家の庭には私含めて乙女が四名。「ええと、どちらさん?」

「ふふん、これぞサプライズ。紹介しよう」環はどこか見覚えのある乙女の手を引き前に出す。彼女の肩に手を回して口元を上げた。「ウチの元エースだ」

香坂こうさかりょうです。よろしく?」


 栗色の癖っ毛ショートカットの下、薄い顔立ちの中に死んだ魚のような目。

 不思議な雰囲気を持つ乙女は躊躇なく右手を差し出した。


「ああ、斑目琥珀です」名乗りつつ、手を握った。


 握った瞬間、本当に投手の手かと思った。

 流石に指先はマメで硬くなってはいたのだけれど、何とも柔らかい。

 驚き半ばに、死んだ魚のような眼差しを見て、朧げな記憶が輪郭を伴う。

 記憶の中のあの日の投手と、目の前の乙女が重なった。


「いやさ、ウチらもう何回か合同でやってるじゃん」環が言う。「綾もさ、毎回誘ってるんだけど、こいつ面倒臭いってこないの」

「面倒臭いじゃないよ。省エネなんだよ」


 物は言いようだ。


「今回来た理由もさ、海が見たいからだって。基準がよく解らないのよ、この子」環は苦笑しながら綾の背を叩いた。その笑みが不敵な物に変わった。「ただ、投手としては一級品。アンちには見て貰いたかったんだよね」


 私の綾に対しての初印象は、得体が知れない、だった。

 掴み所がないと言うべきか。

 ただ、対戦した時を思い出し、興味が沸いたのは事実。

 少しだけ胸が躍る。


「あのさ」綾は手の平を裏返し、人差し指を私に向けた。「何でアンち?」

「ああ、それはね」何故か明日香が自慢気に補足する。「アンちゃんの名前琥珀じゃない。英語でアンバー。だからアンちゃん」

「そうだったんだ」環が大袈裟に驚く。

「今更?」私は苦笑する。この三人妙な連携を築いている。一々ツッコむとなると、手が足りない、さっさと切り替えるが吉。「まあ、良いや。走ってきたって事はアップは大体オッケか。ストレッチやって、始めようか」

「そだね……」頷きかけた環の顔が急旋回した。先ほどまでとは大違いの俊敏な動きで私に寄る。「誰、あのイケメン」

「は?」私は環の目線を追う。そこでは兄が営業スマイルで手を振っていた。何だかどっと疲れを感じる。「実兄」

「ま、じ、か」環は兄と私を見比べる。「似てねえ」

「そりゃあ、兄妹とは言え男女だからね、似てたらやだよ。というか、さっさと行こうよ」


 環の背中を押し、裏庭に回るように促した。


「どうも、琥珀の兄の一玖です」


 漸く茶番が終わり練習に入るというその時になって、兄の乱入。

 興味津々の乙女二名が兄に吸い寄せられる。

 灯りに群がる羽虫の如く。


「初めまして、中沢です」いの一番に明日香が言った。


 明日香には兄の経歴まで伝えてある。

 同じ投手、聞きたい事が山ほどあるという旨は事前に聞いていた。

 にしても、今かい、と私はぽっと出の疲労感と闘う。


「私、沖田環です。お、お兄さん、もしかして横浜よこはま青藍せいらん出身ですか?」 

「うん、そうだよ」

「名前聞いてもしや、と思ったんです」環は胸の前で手の平を合わせ音を鳴らす。「去年の神奈川ナンバー1投手」

「いやいや、一番はプロに行った木谷きたにだよ」

「ええぇ、そんな事ないですってば」


 茶番じみた盛り上がり。

 私は遠い目で三人の姿を見つめる。

 と、不意に袖を引かれた。


「終わらなそうだから、キャッチボールでもする?」綾が首を傾けながらきいてきた。

「そうだね」


 私は頷き、兄達に先に行ってる旨を伝えた。

 香坂綾とは、試合を除けば初対面。

 僅かな間でも解る程度には口数も少ない模様。

 話が弾む訳もなく、無言で母家と納屋の間を抜ける。


「やっぱり良い所だよね」呟くように綾が言った。

「え?」

「街中と違って空気の匂いが違う。あと家。古き良き日本って感じでさ、私好き」

「良き日本がいらないかな。古いだけだよ」

「そんな事ない」綾は小さく首を振る。「私が住んでるとこは団地だからさ、すごく新鮮」

「まあ、隣の芝は何とやら、じゃない?」


 おお、意外に会話が弾んでるぞ、と驚きを隠せない。

 いや、隠してはいるのだけれど。


 他愛のない会話をしつつ、裏庭に出た。

 先程兄に頼んでおいたバッティングネットが、母屋の勝手口を背に二台並んでいる。

 仮のマウンドの奥は申し訳程度の垣根。

 獣道じみた小道を挟んですぐ後ろは雑木林だ。


 隣家は門前の道の反対側に連なっているので、この裏庭なら多少騒いだところで近所迷惑にはならない。


「じゃ、始めようか」

「マウンド使って良いの?」上着を脱ぎながら綾はきく。

「うん。使いにくいかもだけど」


 綾はくすりと笑ってグラブを抱えて小走りで駆け出した。

 あくまで肩慣らしのキャッチボール。

 綾はプレートより少し前で足元の感触を確かめる。

 彼女の準備が整ったと判断して声を掛ける。


「硬球で大丈夫?」

「良いよ」グラブを嵌めた左手を上げた。

「オッケ」


 私はそう言って、彼女のグラブ目掛けて、少し燻んだ硬球を投げ込んだ。

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