The goodday departures 〜 旅立ち日和 〜
カーテンが揺れて、少しだけ冷えた夜風が顔に当たる。
四角く切り取られた夜空には円になれない月が浮かんでいる。
例えば、今日が満月だったら、何かが変わっていただろうか。
自分の思う通りに事が進めば、理想には近づくのだろう。
けれど、そんな想定通りに物事が進行する事なんて、世の中にそうある訳ではなく、何かしらの不都合を抱えながら、皆明日に向かって歩んでいる。
昨日までの理想が、今日いきなり変わる事だってある。
私は、私達はまだ何者でもない乙女なのだから。
理由付けをして、沸き上がる思いにラベルを貼ってみる。
それを棚に飾ってみたところで、それ自体がある以上、それは私の一部。
一部であるからには、やはり認めなくてはならないのだと自覚する。
きっと、見て見ぬ振りをすれば後悔する。
私の三年間は、三年間しかないのだから。
窓際から離れ、明日香を起こさないように部屋を出る事にした。
私は何かしらの切り替えを欲す。
水でも飲んでみるかと思った。
そうして、ドアノブに手をかけた時。
「アンちゃん?」思いの外まともな声を明日香は出した。
「起こしちゃった?」ドアノブに手をかけたまま振り向いた。
「なんかね、寝れなくて」
「そっか」私は少し考える。「散歩にでも行く? 少し歩けば寝れるかも」
「……そうだね、そうしよっか」
そう言って明日香は身体を起こして、傍に畳んであったカーディガンを羽織った。
私は長袖のTシャツを着ていたので、そのままの格好で表に出た。
庭の砂利を踏む二人分のサンダルの音。
表の門を出て右側。
市街地の方に向かって緩やかな坂道を下った。
家の敷地の南端の小道に入り、少し進む。
裏庭の奥の小道とぶつかり、そこを左折して少し。
家族用の小さな菜園に出た。
そこの端はちょっとした崖になっていて見晴らしが良い。
眼下に広がる背の低い街並みを、円になれない月が照らしている。
「わあ、絶景絶景」明日香は両手を目の上にかざす「こんなとこあるなら、タマちゃんも綾ちゃんもこっちにいれば良かったのにね」
「香坂はおばあちゃんに会うのが、本来の目的だったみたいだしね。まあ、それもびっくりだったけどさ。まさか同じ町内とは……」
面倒くさがり、基、省エネ信仰と噂される綾が神奈川までやって来た理由は、父方の祖父母に会う為。
本人曰く、偶々私の家がその近くにあったから練習に参加した、との事。
正直なところ、練習と祖父母、どちらにプライオリティが置かれているのかは解らなかったけれど、香坂綾という投手を知れたのは私にとっては大収穫だった。
「なら、タマちゃんはこっちにいても良かったのにね」
「あっちにはあっちで、話したい事があるんだよ、きっと」
「ふうん、みんな色々あるんだねえ」明日香は月が落ちた海を見つめていた。
私は、その姿を後ろから眺めながら、別れ際の環の言葉を
——今、十月でしょ? 願書の締め切り十二月一日だから、そろそろね。
全ては、あの夏の日に始まった。
日を追う毎に、共に練習を重ねる毎に、同じチームであったのなら、という思いは膨れていた。
けれど、神奈川と埼玉。
自分達はまだ中学生であり、自分一人で決められる事は、思いの外少ない。
その他諸々の壁も高く、決断するまでには至らなかった。
行こう、やっぱり辞めようの往復を繰り返し、答えを出せぬまま日々が過ぎた。
行けばきっと私自身のレヴェルも上がる。
より高い次元で野球に打ち込める。
そして一人じゃない。
認められる仲間がいる。
目の前に悠然と聳える、中学生という壁さえ乗り越えられるのであれば、そこはきっと、私にとって好ましい場所となる筈だ。
けれど、私は。
沖田環を知ってしまった。
香坂綾を知ってしまった。
同じグラウンドで相見えてから、
二人を知って、
一緒に練習して、
一緒にご飯を食べて、
一緒に遊んだ。
人となりを知って、仲良くなって、そのプレイスタイルを目の当たりにし、技術を認めた。
私は、彼女達と再び戦いたいと願っている事に、この日、気付いてしまった。
チームメイトとしてではなく、対戦相手であって欲しいと願っている事に気付いてしまった。
私は自分の持てる全ての力を出して、彼女達と再び相見えたい。
だから……。
「明日香」
「なあに、アンちゃん」泣き笑いのような顔が月明かりに照らされている。
「私は。翔葉には行かない。だから……」
「うん。だろうなって思ってたよ」月明かりの所為か、明日香の目は潤んでいるように見える。「アンちゃんは凄い。才能だけでやってきた私に、勝つ為の術を教えてくれた。ギクシャクした二年間はあったけど、それを引いても、私はアンちゃんに会えたから、ここまでのピッチャになる事ができた。だから、これからも、きっと私達は成長できる。けどさ、私も……、もっと楽しい事、やりたい事、見つけちゃったんだよ」
「え? 明日香、なに、言ってんの?」
「だからね」明日香の頬に一筋の雫。今は黒い縁取りはない。「ごめんね、私、この先アンちゃんと一緒には、いられないや」
「なんで?」身体の芯を冷水が駆け抜けるような衝撃。血の気が失せ、身体が冷える。私は明日香の手を取った。「何でそうなるの? 今日だって一緒に練習したじゃん。それをいきなり……」
「いきなり、でもないんだよ」明日香の頬に幾筋もの雫が流れ落ちる。「少し前から思ってたんだ。皆は私の事を凄いと言う。差があり過ぎるから壁ができた。確かに差はあったと思う。けどさ、その差は、きっと私だけではできなかった。私をここまでにしたのは、アンちゃんなんだよ。だからね……」
やめて。
聞きたくない。
漸く、同じ場所で肩を並べる事ができたんじゃないか。
これから先、同じ景色を見るんじゃなかったの?
やめて。
その先は言わないで。
「私、翔葉に行くよ。行ってアンちゃんと戦いたい」明日香は泣きながら笑った。「今度は自分の足で地面を踏んで、自分の左腕で、アンちゃんを打ち取りたい。これまでありがとう。私をここまで支えてくれて。これからは自分の力で歩こうと思います。だから……」
明日香は左手を差し出した。
「これから私達は好敵手。改めてよろしくね、アンちゃん」
出会った頃によく見た、無邪気な笑顔。
いつの間にか作り笑いになっていた、その笑顔が帰ってきた。
明日香の本心、剥き出しの本音。
私は彼女の手を取った。
「泣く位なら、そんな決断すんな、バカ明日香」
「アンちゃんだって泣いてるじゃん」
「うるさいよ」私は鼻を啜る。
手は繋いだまま、私達は、月明かりの下を当てもなく歩く。
これは最後ではなく、新しい始まり。
道は違えども、行き先はきっと同じ。
私達は、この瞬間に新たな道に踏み出した。
環がいて、綾がいて、そこに明日香も加わって。
挑戦するなら申し分ないじゃないか。
私の三年間を賭けてもお釣りがくるほどの大きな壁。
寂しさ、悲しさはあるけれど、それ以上に心が沸き踊っている自分がいる。
握った手の温もりは心地良いものではあるけれど、この手が私を殺しに掛かる。
良いよ、明日香。
とことんやり合おうじゃないか。
突如開いた新たな道。
皮肉にも、かつて描いた物と酷似している。
けれど、それは外枠こそ同じであれ、内包する思いは全く別の物。
私達にとっては、きっと最良の選択なのだろう。
「明日香」私は天才の名を呼んだ。「次会う時は、ホームラン打つからね」
「ええぇ」僅かに目を丸くして、明日香はとびきりの笑顔を向けてきた。「アンちゃんには無理だよう」
私は妙に楽しくなってきた。
挑戦する価値は何物にも変え難い。
壁は高い方が良い。
殻を破った天才からの宣戦布告。
私の弱点を知ってるが故に言い切る豪胆さ。
これだから。
これだから、天才は嫌なんだ。
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