百夜語り
井田いづ
一話
夜。
月が青白く町を照らしている。
ひゅう、どろろ。
その風はお
──そろそろいらっしゃる頃合いね。
お藤はそうっと起きると、月明かりを頼りに
耳を澄ませて、誰の足音もしないことを確認する。
ややあって、その中から、ぬうっと人影が出てくる──立派な
待ち人はすでに来て、蝋燭が灯るのを待っていたらしい。
「まあ、
「来たぞ。これで良いか」
「もう、今
お藤は両手を腰に当てて
若林、と呼ばれた男の影は、文句が多いなと毒づいてから部屋の隅に座った。やってきたその男に身体はなく、影だけが大きく蝋燭の灯りに揺れている。
時は、草木も眠る
こんな時刻に揚々と歩き回り、戸締りされたお
この幽霊、名を
幼少の頃より刀の腕に覚えがあり、
天才と言われたものの、若林は少々他人の心の
そして、彼は立派に幽霊として化けて出た。
しかし、化ける時代をうんと間違えた。
化けて出てきてみれば勝手知ったる村はなく、脅かす相手も見つからない。仕方なしに
遠目に見えたお藤の姿を、かつての
初めてきた晩、男は言った。低く
「
お藤は読書中だった。言われて初めて、影を見つめた。
なるほど、確かに幽霊らしき影がそこにいる。盗人か、押し込みか──そうとも思ったが、いやいやそれならばこんなに悠長にもしていまい。第一影だけの物盗りとは一体なんだ。薄く開いた襖の向こうにも人はいないし、家族は皆とうに寝静まっている。近い未来に
そもそもお藤の部屋は
──要するに人ではないのだろう。
つまりはこの世ならざるものであると、お藤は早くも悟って居住まいを正した。不思議と怖い気は湧いてこなかった。
「ええ。
すん、とすまし顔。それを見るなり、ぐぬぬと情けない声が影から零れる。
「……ええい、なんだ
悲鳴も上げない藤に
しかし、困った。お藤は役者などではない。元より恐がってない以上、やい悲鳴を上げろと言われてあげられるわけがない。とは言え、求められた以上は応えてやるのが人情というものだろう。
「……おお、こわー」
そう返せば、
「心を込めんか!」
やはり怒られる。注文の多い幽霊だった。なんだかおかしくなって、お藤は小さな声で笑うと、そうっと襖の隙間を広げた。
「よもや幽霊を前に笑うとは!」
「まあまあ、このように出会ったのも何かの縁でございましょう? まずはお話をいたしませんか」
「ほう?」
「ささ中へどうぞ。このようにお話ししては、家の者が起きてきてしまいます」
「俺を内に招くか。面白い、気に入った」
ひゅるりと風が吹いて、男の気配が近くに来た。部屋の外にいたのが、内に入り込んだらしいが、やはり怖い感じはしなかった。
お互い興味本位、といったところか。
話してみると、男は確かに幽霊だった。随分と恨みを遺したらしいが、自我を失うほどではなかったのか、随分しゃんとしていた。
「かつて暮らした町が変わっているから人に紛れて歩いてみれば、これまた知らぬ町に出てしまった。そこでかつての妻を見つけたと思えば、これまた人違いの手前さんでよ」
表情は黒塗りで伺えないものの、声には疲れの色が出ていた。
「あぁ、うらめしや、うらめしや……しかし恋しき
「なんと、おいたわしい……」
「この
「まさか他人に
「それもありだな」
「なし、でございます!」
きっぱり、お藤が両断した。
しかし、二人、話してみれば馬が合う。
お藤は貸本屋に本を山ほど借りるくらい
人魚を喰らった
「決めたぞ、俺は手前を怖がらせてやることにした」
そんなことを言い出した。
「何故です」
「それが面白いからよ」
「まあ、いけず」
「これより
「百夜の後は」
「百夜も語れば俺の心も
男は楽しそうに笑った。
+++
その日以来、この男は毎晩のようにお藤を脅かしに来るようになった。何かにつけて、
「もういっそ
そんな事を言う。そうすると、お藤は怖がるどころかころころと笑い声を上げる。
「まァ、若林様。また祟る相手を間違えていらっしゃるわ」
「
相手がいないからと取り敢えず近くにいたお藤を脅かすことにしたのだから、まあ、なんと
けれど、お藤はこの
退屈な日々に流れる、不思議な時間。
幽霊である若林がやってくるのは丑三つ時を少し過ぎた頃から、朝日が顔を出す少し前までの数刻。さらに言えば、蝋燭の火が灯っていないと姿も見えず、言葉も交わせない。
だから毎晩お藤は頃合いを見計らって蝋燭に火を灯す。一晩につきひとつ、男のために火を灯す。蝋燭の小さな光がお藤の心にすうっと差し込む。
「それにしても、手前さんは変わっている」
「そういう若林様も
「変梃結構、しかし手前さんは顔色が悪いがちゃんと寝ているのか?」
「ご心配なく。ちゃんと早めに床に
「なら良いが」
「ほら。見知らぬ人間の世話を焼く幽霊など、私は聞いたことございません」
「それは手前さんが物を知らぬだけよ。世にはさまざまな
「まあ、無知だなんて! そこまで仰るなら、無知な私に新しいお話でも聞かせてくださいな」
「おう、では昨日よりもいっとう恐ろしい話を聞かせようか。手前さんは舟遊びはするかな?
「終いに柄杓を貸したら舟に海水をどんどんと汲み込まれて沈んでしまう……と言う話でしたら、ええ、お聞きしました。けれど私は海には出ませんもの、海に出る妖なんて関係ありません」
「ならば川はどうだ」」
「川には、そうですね。舟遊びに、と言うよりは移動に使うようなものですけれど」
「それでもよい。よく聞け、川にも厄介なやつが住んでいるんだ」
「まあ、舟幽霊は川にも出るのですか」
「いいや、川には
「河太郎……とは
「河太郎とは、人間の尻から
「前置きはともかく、中々に
「だが奴らは曲がりなりにも妖よ、
そのような語りの日もあれば、
「愛した人が実は
そう言って恋の話を語る日もある。
男は毎日一つずつ、あちらこちらから話を拾い集めて披露する。それに対して、お藤が感想を
男は毎夜、語り合えるとお藤に確認する。
「さて、
男は過ぎた夜の数を聞く。
「……残り、────本でございます」
そうすると、お藤は残りの蝋燭の数を伝える。
これを毎日繰り返した。
日付けの感覚が多少抜け落ちたと言う男の代わりに、お藤が箱に百の蝋燭を詰めて,一つずつ使うようにしているのだ。
これが終われば、百夜通いが終わる。
百夜通いが終われば、二人の逢瀬も終わる。
琥太郎は消え、お藤は家の決めた
初めは物珍しさに、早く明日が来ないかとワクワクしていた。
今は、百夜が過ぎないことを願うばかりだった。早く会いたい、しかし会って仕舞えば少ない蝋燭がさらに減る。いっそ、いつもの脅し文句のそのままに祟ってくれたら良いのに──延々と語り続けられればよいのに。幾度となくそう願いもした。
──
お藤が思い出すのはあまりに有名な百夜通いの話。二人の場合、百夜に渡って通い物語るのは幽霊の琥太郎だが、百夜目に死ぬのはむしろ、生きているお藤の方とも言えた。
死ぬのは、蝋燭を吹き消すたびに
この心は、明かすわけにはいかなかった。
そんなお藤の心を知ってか知らずか、時折男は変なことを言う。
「俺も愛というのを知れたら往生できるかも知れねえなあ。お前に祟ることなく、百夜を待つことなく、あの世に帰れるかもしれねえなあ」
「な、な」
「よし、手前さんが教えてくれねえか」
「なっ何を仰います!」
お藤は思わず咳き込んだ。この幽霊、
「……正気ですか?」
「俺は愛に裏切られてンだからなあ、そんで化けて出てきた。それが
「……ふふ、おかしなことを仰る」
お藤は笑顔で誤魔化した。袖口で顔を覆い、肩を震わせる。
「なに。笑うことはないだろう」
意地が悪いぞと男はむっとする。
「おかしくはあるまい」
「若林様のせいです、こんな小娘相手に愛などと仰るからです」
「おや、愛は手前さんには早かったか?」
「早くはございませんけれど」
「遅かったか?」
「それは……」
「遅かったか?」
「いえ、遅くも早くもありませんけれど」
「じゃあ少しくらいは良いだろうに」
「いけません」
「けちだ」
ぷい、と影がそっぽを向いた。それがまるで
愛の言葉を囁くなり、歌に乗せればそれで済む。それで済んでしまえば、若林琥太郎は早々に消えてしまう。済まなくても、百日経てば消えてしまう。
──ええ、私はけちで意地悪な娘ですもの。
──貴方だけ先に成仏なんてさせてあげない。
どうせ結末が同じなら、長くは続かぬこの恋に最後まで付き合っていただきましょう。お藤は
語らう内に空が明らむ。
また朝が来る。
天で橙と紫紺が混ざり合えば、朝日が出てくる合図だ。ふうっと朝の冷たい風が吹き込んで、しゅるりと蝋燭の
「では、また来るぞ」
「では、またお待ちしております」
百日目まで、あと─────。
(了)
百夜語り 井田いづ @Idacksoy
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