こんな風に産まれたくなかった
海に行きたい。
そんな連絡が来たのは水曜日の朝だった。朝食のパンを食べて一度部屋に戻ったときのことだ。学校に行くまではまだ時間があるけれどリビングにいると、新聞を読む父親を見て思わず恨み言を吐きそうになるし美しいお母さんを見て自己嫌悪に陥ってしまう。今のお母さんを見ているはずなのに、アルバムの中で見たバニーガールのお母さんが脳裏をチラつく。
長めの廊下の一番端に位置している八畳の自室だけが私にとって安らぎの場所だった。両親が仲良くしているところを見ていると、宇佐美くんのことを思い出して少し体調が悪くなる。
誰かの平穏は誰かの犠牲のもとに成り立っている。彼の美しさも、私のような引き立て役が存在して成り立っている。お互い、少しずつ持っているものを交換できたらいいのに。
「海? 放課後に?」
疑問を素直に返せばすぐに違うと返事が来る。
「えっ、今からっ? 何考えてんの……」
テスト前だと言っていたのは彼のほうなのに。なんと返信をすればいいのかしようか考えていると、スマホがぶるぶると震えだした。滅多にそんなことがないものだから、それが電話だと気が付くのに少し時間がかかった。
「も、もももしもしっ」
小声で応答すると、桃がなに? と呆れた声が耳のすぐ近くで聞こえた。
毒だ。これは毒だ。電波を介して耳の穴に悪いものが注入されている。そうでなければこんなに体が熱くなるなんておかしい。
「や、あの、どうしたの?」
「海、行こうよ」
ひどく抑揚のない声だった。
「テスト前だよ?」
「知ってる」
「学校あるんだよ」
「わかってるよ」
「サボったことないし」
「ああ」
「親にバレるかも」
「親のふりして電話してやるよ」
並べる言い訳がなくなって押し黙る。あとは、ええと、それから。
「で、行くの? 行かないの?」
「でも……」
聞き方を変えると言った宇佐美くんは自分の使い方をよく知っている人だった。
「俺と海に行くの、嫌?」
ブンブンと首を振って意思を伝えたあとに、電話では姿が見えないのだと気が付く。何か言わなければと口をパクパク動かしていると宇佐美くんは私の返事を待たずに集合時間を言って一方的に電話を切った。
「な、なんてこと……」
これから私は人生で初めて学校をサボる。しかも男の子と一緒に。もっと言えば美しい人間と一緒に。月とすっぽんというには、宇佐美くんにもすっぽんにも失礼だ。
「チエリ、学校行かなくていいの?」
「い、今から行く!」
廊下から投げかけられたお母さんの言葉で時計を見ると、すでにいつも家を出る時間になっていた。慌てて部屋を飛びだす。いつも通りのセーラー服で当たり前のように家を出た。
表情でバレていないだろうか。私はしっかり学校に行くフリができただろうか。最寄り駅に自転車を止めても、鼓動は早いままだ。
駅のトイレにこもって、同じ学校の生徒がいなくなるのを待つ。何度かセンサー式の電気が消えたから、体をゆらゆらと揺らした。そういえば中学生の時もこうして電気をつけたことが何度もある。昼休みの居場所は人のあまり来ないトイレだったから。
恐る恐るトイレを出て、学校と逆方向の電車に乗り込んだ。
駅員さんに怪しまれないだろうか、知り合いに会ったらどうしよう。お腹が痛くなってきた。あれこれ考えているといつの間にか人はまばらになっていた。
「制服だろうなと思った」
「あ、宇佐美くん……」
声をかけられて真正面に立った彼を見ると黒いスウェット姿だった。
「これ、着とけよ」
「え……?」
手渡されたパーカーとTシャツ姿の彼を交互に見る。首元からのぞく大きな痣は、この前会ったときにはなかったものだ。
「制服はさすがに、ほら」
「あ、そうだよね」
制服の上から彼のパーカーに袖を通す。上まできっちり閉めると、セーラー服は見えなくなった。下に何も履いていないみたいだな、と思ったけれど私ごときのそんな姿で喜ぶ人間もいないだろう。
隣に座った宇佐美くんがいつもより小さく見える。窓の外の景色はどんどんのどかになっていって、現実味が薄れていく。
「ねえ、何かあった?」
「なんで?」
「急に海に行きたいなんて言うから」
今の季節じゃ入れないし、と付け加える。
「別に、泳ぐ気ないし」
「そうなの?」
一瞬強張った宇佐美くんの表情に気が付かないふりをして会話を続ける。こういうときは追及してはいけない。何も知らないふり、気が付かないふりが一番いい。
「お前、泳げないだろ」
「え、なんでわかるの?」
「見ればわかる」
「そんなあ」
「間抜け面だな」
宇佐美くんが声を出して笑う。誰もいない車両に彼の声が響いた。可愛らしい顔に似つかわしくない、少し低くてハスキーな声だ。
電車が停車する感覚が徐々に広くなる。山を抜けて、海沿いを走り始めた。外を見ていた宇佐美くんが、俺ってさあと口を開く。
「可愛いんだよな」
「知ってるよ」
「きれいじゃん」
「それも知ってる」
「こんな風に生まれたくなかった」
そう言いながらも、宇佐美くんが自分の顔面を武器にしていることも私は知っている。可愛くてきれいで、中身は少し粗暴だけれどそれもギャップだ愛嬌だともてはやされている。
母親に似ていると自称する彼の顔は、少し整いすぎている。人類が得るにはまだ早すぎる美しさだ。
その武器が彼自身を傷付けているということもよく知っていた。突然帰ってきた彼の父親から隠れるために押し入れに入った日のことは、昨日のことのように鮮明に覚えている。人間とはここまで醜くなれるものなのかと、美しい天使を汚す愚かな姿に安心した。私は最底辺ではないのだと。
それから少し、羨ましくも思った。これは絶対に、彼には言えないけれど。
「そっか」
ようやく絞り出した相槌を最後に車内に沈黙が流れる。
結局宇佐美くんは終点につくまで黙ったままだった。
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