第33話

「──莉央……!?」


直斗の声と零の頬を叩く音が重なった。


「お前……何してんだよ!」


直斗が怒鳴り莉央の腕を掴んだ。


「直斗くん!——俺は大丈夫だから……」


「離してよ!!……なんで直斗なの!?他にいくらでもいるじゃない!!」


莉央の叫び声が英研に響く…。


「莉央!」


直斗が落ち着かせようと名前を呼ぶが莉央の目には零しか見えないかの様に零を睨み続ける。そしてその瞳からは次から次に涙が溢れている。


「なんで…ここに来たのよ!……あんたなんか来なきゃ良かったのに!!」


その言葉が言い終わらないうちに直斗が莉央を抱きしめた。

しばらく腕を振りほどこうと抗っていたが、少しすると莉央は声を上げて泣き出した。そして何度も「直斗を返してよ」と繰り返していた。




「康平…」


少しして静まり返った部屋で直斗が口を開いた。まだ胸に莉央を抱いている。


「───え…あ……なに…?」


呆然と立ち尽くしていた康平がやっと気付いて返事をした。あんなに取り乱した莉央を初めて見た。


「……零…頼める?」


零が顔を上げて直斗見つめるが、直斗の視線は莉央を捉えている。


「え!?………ああ……分かった…」


康平は一瞬零に視線を向けてから返事をした。零の顔が切なそうに歪んでいるのが分かる…。


「ごめん、莉央送ってくるわ」


直斗が零を見ずに言葉だけを向けた。返事をしなければ、と思うのに声が出ない…。莉央を…自分以外を胸に抱いている直斗の姿を見ているだけで胸が締め付けられそうな程苦しくなる…。

直斗が部屋を出ていくのを結局零は黙ったままっ見送った。


「……零ちゃん…大丈夫?」


康平が顔を覗き込む。


「…大丈夫だよ。……森下さん…本気で叩いてなかったし……」


莉央に叩かれた頬を触りながら無理に笑顔を作った。音こそ派手だったが痛みは無かった。


「それもだけどさ……」


康平が言葉を濁した。きっと本人は気付いていないが今にも泣きそうな顔をしている。

すると英検のドアが再び開き水野が入ってきた。


「高野、来てたのか…。お前一人か?珍しいな」


そう言って笑うと零に向き


「紡木先生……森下は帰りましたか?」


首を傾げながら聞いた。


「あ………少し前に……」


「遠藤先生に呼んでいないと言われたんだが……森下の勘違いかな……」


水野は一人でブツブツ言って席に着くとフッと顔上げ


「何かあったのか……?」


部屋の空気の異常さに気付いたのか康平に向けそう聞いたのだった。




直斗は自動販売機に小銭を入れるとミルクティーのボタンを押した。

莉央の好きな飲み物だ。


「ほら」


直斗がベンチに座る莉央に差し出した。学校から莉央の家に向かう途中にある小さな公園だ。公園と言っても遊具は何も無く遊ぶ子どもの姿はない。時々犬の散歩に人が通るくらいだ。

まだふたりが付き合っている頃、時々ここに寄って今みたいにミルクティーを買った。


「……いらない…」


莉央が俯いたまま答えた。


「……そう言うなよ」


そう言って膝の上に置かれた莉央の手にミルクティーを持たせると自分も隣に腰を下ろし、自分用に買ったコーヒーを開け、口にした。

あの後莉央はずっと黙っていた。本当はただ『レイ』の正体を確かめたかっただけだった。例え紡木先生が『レイ』だったとしても、あんなこと言うつもりも、まして殴るつもりなど微塵も無かった。


「……あんなこと……するつもり無かった……」


莉央がぽつりと呟いた。


「…解ってるよ」


直斗がその言葉に答える。


「紡木先生に………ごめんなさいって……」


「ああ…。伝える」


ふたりの座る頭の上で公園に一本だけ植えられている桜の木が濃い緑の葉を風で揺らしている。ちょうどベンチに影を作り夕方でもまだ強い夏の陽射しを遮ってくれていた。


「……なんで……紡木先生なの…?」


俯いたまま莉央が口にした。


「………なんでかな………気が付いたら好きになってたから…」


「…だって……男同士なのに…………」


「…それな」


直斗が苦笑いする。


「………先生から……誘われたの…?」


「まさか……。俺が勝手に好きになっただけ」


「なんでも有りじゃん……」


冗談ぽくそう言うと、やっと莉央が顔を上げた。

目が真っ赤になり痛々しい程腫れている。


「…散々女の子と遊んでたくせに……」


莉央がため息をついた。


「もっとワガママ言えば良かった!………もっと…一緒にいたいって……ちゃんと言えば良かった………。どうせ……他の人のところに行っちゃうんだったら………」


莉央の目に薄らと涙が浮かぶ。

直斗は黙って聞いている。零を好きになって初めて莉央に辛い思いをさせていた事に気付いた。


「……私のことは……嫌いになっちゃったの……?」


莉央がミルクティーを見つめながら小さな声で聞いた。


「お前のこと……一度だって嫌いだと思ったことなんかねぇよ」


直斗も缶コーヒーに視線を落としたまま「ただ…」と続けた。


「零に……嫌われるのが怖いんだ…。零がいなくなったらって思うと……怖くて、どうしようもなくなる」


莉央が手の中のミルクティーを握りしめた。直斗が本心を言ってるいるのが分かる。


「あいつの為なら何だってできるし……してやりたい……」


直斗の静かな声が切なくて……どれほど零を大切に思っているか……莉央にも痛い程伝わってくる。

莉央が大きなため息をつくと


「………バーカ……ホント……大っ嫌い………」


莉央がそう言ってミルクティーの蓋を開けた。




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