雨の日の大島紬
増田朋美
雨の日の大島紬
梅雨の季節らしく雨が降っていた。今日もまた雨かあ、という言葉がアチラコチラで聞こえてくる。まあ確かに雨が降ると、色々不便な事はあるが、恵みの雨という言葉もあり、ある人には、嬉しい話なのかもしれない。
そんな中、蘭のもとに、一人の女性がやってきた。雨が降っているのに、刺青をお願いしに来るのだから、よほどの訳ありなんだろうなと思う。ちゃんと、予約時間も守っているし、丁寧に、刺青の施術料金だけでなく、お菓子まで持ってきてくれたのだから。
「えーと、まずはじめに、お名前を教えて下さい。小田島祥子さんで間違いありませんか?」
と、蘭が聞くと、
「はい、間違いありません。小田島祥子です。よろしくおねがいします。彫たつ先生。」
と、女性は、静かに挨拶した。
「わかりました。では、単刀直入に伺いますが、彫る場所はどこですか?」
と、蘭が聞くと、
「ここなんですけど。」
と、彼女は、左の袖をめくった。そこには、まるで正常な皮膚など無いのではないかと思われるくらい、リストカットのあとが無数に着いていた。まあ確かに、リストカットや、根性焼きなどの自傷行為をやめたいが、どうしてもやめられないので、刺青でなんとかしたいと言ってくる女性は多いのである。そういう女性たちは、相談する相手もいないし、医者などに見せても、厄介な患者として、見捨てられていることが多い。だからこそ、身近に守ってくれるぞんざいがほしいというわけで、観音様とか、不動明王などを入れたいという人も少なくないのである。それは確かにそうなのだが、この小田島祥子さんの場合、酷すぎるくらいリストカットのあとが散らばっていた。正直、彫る側にも大変なものである。でも蘭は、彼女が二度とリストカットに走らないように、彫ってあげたいと思った。
「わかりました、正直、彫る側には難易度の高いものになると思いますが、まずはじめに、何を彫るのか、希望するものはありますか?花や龍などでしょうか。それとも、観音様とか、そういうものかな?」
「はい、私は、家族にも馬鹿にされて、私を守ってくれる人はだれもいないので、観音様を希望します。先生、ぜひ、きれいなお顔の方を彫ってください。」
蘭が聞くと彼女は即答した。
「わかりました。じゃあ、そうしましょう。では、観音様のポーズとか、希望するものはありますか?」
「そんなしつこいこと聞かなくてもいいじゃないですか。例えば、観音様の画像とか、そういうのを見せて頂いてその中から私が選ぶような感じにすれば、いいのではありませんか?」
答えを急ぐ小田島さんに、
「いえいえ、刺青は、消すことができませんから、後悔してはいけないんです。だから、慎重に話を進めないと。ちゃんとお客さんの希望通りに彫ることも刺青師のしごとですからね。今の時代、コストパフォーマンスとか、スピードでとかそういうことが流行っていますけど、刺青の世界には、そのようなことは、通用しないんです。彫るまでには、何十回も、お客さんと打ち合わせしないと。」
と、蘭は穏やかに言うが、
「そんな事言わないでください。私がお願いすることをかなえてくれればそれでいいんですよ。先生、お願いします。早くこのリストカットのあとを消したいんです。もし、またリストカットをしたら、私は自宅で生活できなくなってしまいます。」
小田島さんは、逼迫した様に言った。
「そうですか。そんなに急いでいる、事情があるんですね。ただ、僕の方から言わせて頂いても、半端彫りだけはしたくないですし、変な刺青を彫られて、いい迷惑だとか、そのようなことを言われてしまうのは、困るんです。そのようなことをしないためにも、何回か打ち合わせをしてから、彫り進めたいと思うのですが。」
蘭がそう言うと、
「ええ。それはわかっています。だからこそあたし、早く入れてほしいんです。できれば今日中に。だって、今日家に帰ったら、また、家族に叱られて、リストカットしてしまいたくなってしまいます。そうしたら私は施設に送られてしまうんです。」
小田島さんは、涙をこぼしていった。
「お気持ちはわかりますが、まずはじめに筋彫りをして、観音様の輪郭線を彫り、そして色入れと言って、色を入れていく、という作業をしなければ刺青はできませんよ。特に、和彫りは、一日で完成ということは絶対に無理です。それに僕は、手彫りしかできませんから、機械彫よりも、ずっと時間がかかりますよ。」
蘭がそう言うと、
「わかっています!あたしだって、機械彫は好きじゃありませんよ。それに手彫りに耐えて、家族に対抗したいという気持ちもあるんです。だから、先生みたいな人に彫っていただきたいんです!」
そういう彼女は、情緒もなんだか安定していないようだ。そうなってしまうようでは、もしかしたら、影浦先生のところで治療が必要なのではないかと思った。
「じゃあ、お尋ねします。なぜあなたは、そんなに、施術を急ぐのですか。単に、家族に追い出されるだけでは無いでしょう。それに、手彫りのことを、何も知らない方でもなさそうですし。どうしてそんなに。」
と、蘭がなだめるように聞くと、
「決まってるじゃないですか!私が、何も仕事をしていないからです!仕事をしていないと、家族だけではありません。近所全員に、ここから出て行け出ていけって、毎日怒鳴られて、もう私どうしたらいいか。私は、ちゃんと見ているんですからね。部屋の中で、女の人が、私を見ていて、私をいつも、なにか悪いことしないか監視しているんですよ。それは、私が、お世話になった、高校の先生です。」
と、彼女は答えた。そうなると、もしかしたら、幻聴とか、幻覚とか、そういう症状があるのかなと思われた。それならやっぱり、医療関係者に連絡をしたほうがいいなと、蘭は思った。
「そうですか。でも、あなたのような症状では、仕事というものはまずできないでしょう。あなたは、幻覚の症状もあるようですね。それに、言っていることが、辻褄があってないところもある。そのような、心がもとにない状態では、刺青の希望を正確にお伝えできないでしょう。正気に戻られたとき、あんな事しなければよかったと思わないためにも、また心が落ち着いたら、こちらに来てください。」
「なんで、なんでそんな事言うんですか。先生まで、私を見捨てるとは思いませんでした。なんで私が、こんなにつらい思いをしているのに、誰もわかってくださらないんでしょうか。やっぱり仕事をしていないと、皆私の事を、人間として見てくれなくなるのかな!」
蘭がそう言うと、彼女は声を荒らげて泣き出してしまった。蘭は、刺青師としていけないことをしたと思った。こういう人は、家族にも社会にも味方がいないのだ。だから、せめて刺青師が味方になってやらないと、彼女は永久にリストカットを繰り返してしまうおそれがある。こういう女性に対しては、誰か一人、絶対に裏切らない味方だと誓わなければならない。
「わかりました。わかりましたよ。まずは、落ち着きましょう。お茶でも飲みますか。今入れてきますから。」
と、蘭は彼女をなだめていると、また別の声が聞こえた。
「おーい蘭!もう何回インターフォンを鳴らせば気が済むんだ。時間だよ。買い物に行こう!」
やってきたのは、杉ちゃんだった。杉ちゃんは、泣いている小田島祥子を見て、
「どうしたんだよ。泣かせちゃだめじゃないかよ。」
と、言った。
「ああ、今日刺青を彫りたいと言って来てくれたんだけどね。どうやら、精神疾患の症状があるようだ。仕事をしていないことを、えらく劣等感を持っているようで、それの上に、幻覚の症状もあるらしい。」
蘭が小さい声でそう言うと、
「仕事をしていないねえ。確かに、日本ではそうなっちまうよな。じゃあ、貴重な運を授けよう。今日カールさんのところで、店番をしてくれる人を募集していると貼り紙がしてあったので、そこで働いてもらおうぜ。」
と、杉ちゃんは、でかい声で言った。
「ちょっとまってくれよ。彼女には症状があるんだ。それが消えて、良くなってからでなければ仕事はできないのではないか?だって、頭痛があるときは仕事はできないじゃないか?」
と蘭は言うと、
「いやあ、単に呉服屋の店番をするだけだもん、大丈夫だよ。それに、頭痛と精神障害は違うよ。頭痛は、誰かになんとかしてもらわなければならないこともあるが、精神障害はある程度本人の意思で、大丈夫だぜ。」
と、杉ちゃんは言った。蘭は、このような辻褄のあっていないことをいう女性を、カールさんの呉服屋さんで働かせるのは無理なのではないかと思ったのであるが、
「私、やってみます。」
と、小田島祥子さんが言った。
「でも、無理なことはしないほうが。」
と、蘭が止めると、
「よし、じゃあ、すぐ出かけよう。カールさんは、店番役をとても欲しがっていた。最近、着物の出張買取が多くて、それでその間は、店を閉めなきゃいけないのが、心残りだって。だから、その間に、店番をしてくれる人がほしいと嘱望していたから、こりゃいいや。よし、直ぐにタクシーを呼んでくれ。」
杉ちゃんは、強引に言った。こういう強引なところは、杉ちゃんならではで、誰にも止められないのだと、蘭は思った。仕方ないなと、蘭は、タクシーを呼んだ。三人はワゴンタイプのタクシーに乗り込んで、カールさんのやっている増田呉服店とかかれた店に向かう。到着して、カールさんに小田島祥子さんを紹介すると、カールさんは、今日も買い取りがあるので、すぐに手伝ってくれるとありがたいといった。そういうわけで、小田島祥子さんは、着物の知識もないし、着付けもできないのに、採用されてしまった。まあ、着物の店と言っても、いわゆるリサイクルショップだし、気軽に着物を着てほしいというコンセプトの店なので、洋服で接客しても何も問題はないとカールさんは言った。
「それじゃあ、僕たちは、買い物があるんで、ここで頑張って働いてくれよ。きっと、お前さんにとって、ためになることはなるからな。」
と、杉ちゃんたちは、タクシーに乗り込んで、増田呉服店をあとにした。あとには、小田島祥子さんと、カールさんが残った。少しして、カールさんのスマートフォンがなった。
「はい、もしもし。ああ、わかりました。すぐ行きますので。ええ、よろしくおねがいします。お待ち下さい。」
と、カールさんは電話を切って、出張買取が一時間早まったので、行ってきますと言った。小田島祥子さんに、店番してくれと頼んでカールさんは、店を出ていった。
しばらくは、店に客は誰も来なかった。まあ、たしかに今日は雨だし、着物を買いに来るお客さんも少ないだろう。それにしても、この店はまるで着物の山と言えるくらい、着物が売り棚にこれでもかと置かれていた。これで、カールさんがもし、また買い取って着物を持ってくるのであれば、もう売りだなに収まりきらなくなるのではないかと思われるくらい着物がある。まあ、店番と言っても、何もしないのかなと、祥子さんは思っていたのであるが、店の入口に吊り下げてあった、コシチャイムが、きれいな音を立てたので、驚いてしまった。
「こんにちは、こちらでは、リサイクルきものを扱っているそうですね。」
と、やってきたのは、やっぱり20代くらいの若い女性だった。
「ええ、そうですけど?」
祥子さんがそう言うと、
「じゃあ、お安いんですか?」
と、彼女は聞いた。
「まあ、通常価格よりはかなり、お安いと思いますよ。」
祥子さんが答えると、
「わかりました。あの、実は来週祖母の法事がありまして、私、太っているので、喪服が入らなくなってしまったんです。それで、黒っぽい着物を着ればなんとかなると、家族から言われたものでそれでこちらに買いに来たのですが、どうでしょう、法事に向いている着物というのはどれなのか、教えてくれませんか?」
と、女性はそう聞き始めた。祥子さんにしてみれば、晴天の霹靂のようなものだった。そんな事、何も知らないのである。喪服といえば、テレビドラマなどで、喪主になった人物が着ている真っ黒い着物のことであろうが、真っ黒い着物はどこにも置かれていなかった。黒い着物で、下半身に大きな柄のある着物もあったが、これは、結婚式に着るためのものであるとは、なんとなく祥子さんも覚えていた。なので、黒い着物であれば、まだいいかと思い、黒い着物を探してみた。すると売り台に、黒に白で麻の葉柄を全体に入れた着物が見えた。
「ああ、これなら、黒ですし、法事にも向いているかもしれませんね。じゃあ、その着物をください。」
と、女性はそう言うので、祥子さんは、それを出してみた。黒い着物ではあるが、所々に毛玉のようなコブがある記事だった。地紋と呼ばれている織柄はないが、しっかりと、麻の葉柄が染められている。
「それでは、黒い着物ですから、大丈夫ですよね。お幾らですか?」
と、彼女が言うので、祥子さんは、襟の下に着いている値札を見た。見ると、2000円と書かれていたため、
「2000円で大丈夫です。」
ととりあえず答える。
「ありがとうございます。これをお納めください。」
女性は、千円札を二枚、祥子さんに渡した。
「それで、帯や、帯締めなどは、ご入用ですか?」
祥子さんがそうきくと、
「それは大丈夫です。母が黒い帯を貸してくれると言うので、それを借ります。」
と女性は答えた。
「そうですか。それなら準備万端ですね。おばあさまを喜ばせてあげてください。」
祥子さんは、着物を適当に畳み、紙袋に入れて、彼女に渡した。
「ありがとうございます。喪服が着られないので、困っておりました。そのときに着物があって良かったです。」
と、嬉しそうな顔をして、帰っていく女性を、祥子さんはまずいいことをしたと思いながら、彼女を見送った。コシチャイムが、祥子さんを祝福するようになった。
それからしばらくして、カールさんが戻ってきた。やはり手に持ったランドリーバックに、着物をたくさん入れている。
「いやあ、今日は大収穫だ。こんなたくさん着物を仕入れたよ。やっぱり着物を欲しがる人より、手放す人のほうが多いんだね。全く、日本人の着物離れも相当なものだ。」
と、カールさんは売り台に、買い取った着物を並べ始めた。その中には、いろんな種類の着物があった。振袖と呼ばれる、二十歳のときに着る袖の長い着物もあるし、黒以外の色で、下半身に大きく柄を入れた着物もある。これを、一般的には色留袖というのだが、祥子さんは、それも知らなかった。カールさんの話によると、今回は、結婚したばかりの女性から買い取ったので、色留袖と、振袖を買い取ったということであるが、もう二度と着る機会は無いと断言されてしまったようである。そのようなことは絶対ないと、いい切れるほど、日本人は着物を嫌っているようだ。でも、祥子さんが見た限りでは、すごいきれいな着物ばかりで、美しいと思った。カールさんが、わずかばかりに残った着物の隙間に、色留袖を入れようとしたところ、
「あれ、ここにあった黒大島の着物は?」
と祥子さんに聞いた。
「ああ、店長さんが、買い取りにでかけている間に、お客さんが一人来て、買っていかれました。なんでも、おばあさまの法事で、着用したいんだそうです。」
と、祥子さんが答えると、
「はあ、黒大島は、法事に着るような着物ではありませんね。もしお客さんが、そういうことを言ってきたら、黒大島は、法事や通夜などには着用するべきではないと、しっかり断って、別の着物を渡すべきでした。」
と、カールさんはすぐに答えた。
「そうなんですか?でも、黒だったから、それで良いのではないかと思ってしまいました。それに、商品を買ってくれるお客さんに、断るのはいけないことなのでは?」
と、面食らって、祥子さんが言うと、
「いえ、着物のことはね、日本人は知らなすぎるくらい知らないものですよ。だからちゃんと我々着物屋が教えてやらなくちゃ。たとえそれが、気軽に購入できるリサイクルきものであっても、ちゃんと教えていかなきゃなりません。リサイクルで気軽に入手できるからこそちゃんと教えて行かなくちゃ。いい加減なことは言ってはいけませんよ。」
と、カールさんは言った。
「どうしよう、あたし、お客さんに間違った事を言ってしまうことになりますよね。すぐに彼女に返品してもらうわけにも行かないし。どうしたらいいのでしょう。」
祥子さん自身も、カールさんにそういうことを言われて、びっくりしすぎてしまったようだ。なんだか彼女は、パニックになりそうな感じだった。
「大丈夫です。着物は、知らなくて当たり前ですから、そうなっても仕方ないんです。通販サイトなんか見るとね、使い方や、着物の名称を明記していないサイトは山程ありますよ。例えば、小紋を付下げと書いて販売したり、訪問着を振袖として販売されてしまうとか。」
カールさんはにこやかに言った。
「ここでは、知らなくてあたり前の世界ですから、どうぞ間違えてくれてもいいです。ただ、お客さんの前では、間違いをしないでくださいね。知らなすぎても、仕方ないけど、お客さんの前はしない。それを守ってくれれば、呉服屋の商売は、直ぐにできてしまう時代でもあります。」
「そうなんですか。ごめんなさい。あたし、着物のことを何も知らなすぎました。あたしは、着物というものは、変なものだとか嫌なものとか、そういうことは決して思いません。だから、あたし、頑張って着物のことを覚えます。どうかこちらで仕事させてください。」
祥子さんが手を着いて謝ろうとすると、カールさんは、
「いや、大丈夫です。何も知らないで当たり前の世界ですからね。それよりも、着物を楽しんで販売してくれれば、それが一番だと思います。」
と優しく言った。多分きっと、これは着物に携わる人の数が少なすぎるくらい少ないから、そういうことを言うんだと思うけど、彼女にしてみれば、本当に言ってほしいことでもあった。
外は相変わらず雨だった。でも、雨であっても、増田呉服店は営業を続けていた。
雨の日の大島紬 増田朋美 @masubuchi4996
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