第37話 他人の視線

 言われている言葉の意味がわからない。本人に非のない理由で退職させられる自分に同情して慰めようとしている?慰め方としてはおかしくはないだうか。

「増茂から君の事情は聞いたよ。大変だったんだね。苦労したんだろ。俺で良ければ援助するのもやぶさかじゃない。お手当とか欲しいんじゃないかい?君にその気が有るなら、つきあおうじゃないか。割り切った関係としてね?」

 開いた口が中々塞がらなくて困った。

 つきあう?割り切った関係?お手当が欲しい?

 何いってんだこいつ。

 細野部長は、返答さえ出来ないくらいに驚いている奈々を見て、また笑った。

「なになに?加東とはそういう関係だったのに、俺じゃ不足なワケ?奴からはいくら貰ってたの?奴よりは俺のほうが羽振りがいいよ?」

 例の呼び出し以来、なんとなく事情を知っていると思われる上役の方々。

 その、なんとも言えない微妙な視線の意味が、ようやくわかった。

 どいつもこいつも、奈々の事を、そういう女だと見たわけだ。

 加東と不倫したから退職に追い込まれたとみんな思っている。そういう事なのだろう。事実とは違うのに。

 不倫が違うのなら、辞めないだろう。辞めるのだから事実なのだろう。そういう憶測が定着したらしい。 

 なんか家庭の事情でお金に困ってるらしいから、お手当次第では既婚者相手でも割り切って付き合ってくれる便利な若い女。

 現在の岸塔奈々の立ち位置は、そういうことらしい。

 ゆっくりと、奈々は口角を上げた。

 部長の方を見上げて出来る限りの笑みを作る。これ以上ないというくらいの、営業スマイルを。

「そうですね。都心駅前の3LDKのマンションを税金込で買ってくれるような方だったら理想です♫」

 ふふっと笑い声も付け足して言い切った。

 すると、その贅沢過ぎる要望に相手のほうが言葉を失っている。さすがの取締役も、家族に隠してそこまでのことを愛人相手にしてやることは難しいらしい。

「失礼します。」

 深く頭を下げて細野部長の横を通り過ぎ、応接室に入った。

 バタンと音を立てて閉まる扉に鍵を掛けたら窓という窓にカーテンを閉める。先程の来客の後なのか、紅茶を淹れた食器類がテーブルの上に残されていた。

 応接セットの下に敷かれた絨毯の上にひざまずいて、それらを片付ける。

 渋い茶色と黄色と深緑の絨毯に、ぽたりと雫が落ちた。

「うっ・・・うううー・・・。」

 堪えきれずに、声と涙が溢れたからだ。

 みんな、自分を、馬鹿にして。

 

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