第36話 有給消化
「やめてください、余計なこと喋らないで下さいよ。」
いやがおうにも声を潜めざるを得ない。奈々が退職するということさえ、今の時点では公表してはいけないと言われているのに、なんでそんなことを白昼堂々と口に出来るのだ。
「だって、気になるじゃない。」
どういう神経なのだ。
無関係に近い奈々にこれだけ迷惑をかけておきながら、一体どういうつもりでこんなことを会社で口に出来るのだろう。誰かに聞かれたらどうする。
加東は、一見、その爽やかそうに見える外見で飄々としていた。自分には何一つ後ろ暗いところなどないと思っているのか。
「・・・、わたしが何故退職しなくてはいけないのか、ここで大声で発表しましょうか?あなたの奥様の名前を出しますよ。」
半ばやけくそになって脅しとも取れるような返答をしてしまった。
「ああ、そうだ。それも聞きたかったよ。どうして退職するの?」
この野郎、と怒鳴りそうだった。
けれども奈々はそこまで単細胞ではなかったし、逆に言えば臆病でも有ったのだ。
脱兎のごとくその場を去り、守山課長のところへ駆け込んだ。上司である守山は血相を変えた奈々の顔を見て驚いたように目を見開く。
「ど、どうしたのかね・・・?」
「明日から有給休暇を取りたいです!!」
それを言うだけでも、奈々にとっては清水の舞台から飛び降りるような気持ちだった。
例のお局様がこちらを睨んでいる。
ついさっき、加東のところでゴチャゴチャしてたからだ。言い合う内容は聞こえなかっただろうけど、親しげに話しているように見えたのだろう。人の気も知らず、気楽なもんだ。
睨まれても、奈々に言い返す言葉もないし、言うつもりもない。
加東に入れるお茶は、彼女にお願いしよう。もう二度と傍にも寄るまい。残っている有給休暇を消化して、もう最小限しか会社には来ないようにしようと心に誓った。
応接室の片付けを頼まれて廊下に出ると、
「細野部長」
「やあ。岸塔さん、お疲れ。・・・加東くんの件は済まなかったね。さっき守山課長から内線が来たから、有給休暇の件は了承した。」
滅多に顔を合わせることもないはずの上役がそこにいた。
脂ぎったという程ではないが、年齢の割にエネルギッシュな壮年の男である細野部長は、噂ではかなりのやり手なのだと聞いている。奈々のような庶民には、見上げる程度の関わりしか無いくらい、雲の上の人種だ。
「有休を取るなら、俺と温泉でも行かない?いい宿しってるんだよ。」
耳を疑った。
空耳だろうか、もう一度部長の顔を見る。
部長は、声を掛けてきたときと同様に機嫌良さそうに笑っていた。
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