#幼なじみ、カテキョ、お姉ちゃんの彼氏

月波結

好きにならずにいられない

「まーたお前、こんなのに引っかかって!」

「仕方ないじゃん。はいはい、勉強すればいいんでしょ。つか、教え方が悪いんじゃないの?」

 タカフミは分厚い三千円もしたという参考書を片手に持って、無言でページをめくり始めた。

 机に着いているわたしからはなんにも見えない。でもきっと模試でわたしが間違えてきた因数分解のページを見ているに違いない。


 目を凝らして真剣に問題を探している。

 教える時は例題の選び方が肝心なんだとタカフミは言っていた。

 わたしは彼がその問題を見つけるまで、いたずら書きもせずにシャーペンを軽く握りしめて待っていた。


 タカフミはわたしの家庭教師カテキョだ。高校二年生。中三のわたしの受験勉強を見てくれている。

 中学に入ったら気の合う友だちがいっぱいできて、部活は演劇部で発声やったり楽しくて、入学した時に買ってもらったスマホでみるYouTubeは楽しいこと、知らないことたくさんで、気がついたら受験生。夏休み手前。

 後悔先に立たず。死亡フラグが!


 タカフミはわたしの頭が決して悪いわけじゃないと言う。「惜しい!」と言う。

 小学生だったわたしはいつも図鑑ばかり見ていて、「これどうしてだと思う?」を繰り返す『どうしてちゃん』だったらしい。

 タカフミにはちんぷんかんぷんの宇宙の話題が多くて、ブラックホールやダークマターについての本を面白そうに読んでいたらしい。

 わたしにとってそれは遊び半分で、ただ知りたいからYouTubeをみるのと感覚は変わらないのだけど。


 つまり、サエは『やればできる子』になれる確率が高いと言うのだ。


 そんなことをうちに夕飯を食べに来た時にテーブルでまくし立てるから、暫定的にタカフミはわたしのカテキョに任命されてしまったのだ!

 悔しいことにダークマターについては素人のくせに、タカフミは特に数学がよくできるらしい。それでわたしの顔を見てにっこり笑う。ドキッとするくらいの満面の笑顔で「数学は自然と対話する時の言語だよ」って。知るか。「物理やるには数学ができないとねー」と軽やかに言う。

 誰が物理やると言った!


 ――はい、休憩終わり。


 ところでどうしてタカフミがうちで夕飯を一緒に食べてたのかと言うと、それはお隣さんだからだ。

 わたしが生まれた時にはタカフミの家は隣にあったので、生まれながらの幼なじみ。誰も否定しようがない。

 タカフミはうちのお姉ちゃんと付き合っているので、帰りが遅くなるとうちで夕飯を食べることが多い。

 タカフミの両親は共働きで、ひとりっ子。うちで面倒見てあげた方が合理的、というのがうちの母の言い分。ずっと小さい頃から変わらない。


 そう、ずっと小さい頃から一緒にいたら、好きにならないのがおかしい。

『I can’t help fallin’ love.』ってやつ。

 これ習った時ちょっと感動して、英語だって地に落ちるほど苦手なのについ覚えてしまった。

 好きにならずにいられない。

 この法則に則って、タカフミは順調にお姉ちゃんを好きになり、わたしも順調にタカフミを好きになった。

 お姉ちゃんは異星人だったらしく、「好き」とかそういうのとは無縁に生きてきたらしい。ムダにかわいいくせに。


 そんなお姉ちゃんがタカフミの告白に「いいよー」と言ったのはどんな心境の変化があったのかはわからない。

 でも多分、一緒にいて一番気楽で素のままでいられるのはタカフミだって、お姉ちゃんも気づいたんだと思う。暗くなるまでふたりが帰ってこない時、そっと隠れるように玄関に面した階段の中途の段で座っている。

 そんな時の自分の気持ちはよくわからない。

「ただいま」って幸せそうに帰ってくるふたりの笑顔が見たいのか、それとも見たくないのか。

 早く帰ってくればいいのにと思いつつ、帰ってからおっきな声で「今日さー」とか楽しそうに語り始めるのはアウトだ。


 お姉ちゃんに幸せでいてほしいとは別に思わない。お姉ちゃんには他の男がきっとできるだろう。そういう人だ。

 どっちかが、どっちをフッてもわたしは一向に構わない。

 吹き飛べ、リア充。

 そしてそのリア充になりたいと思ってるわたしはほんと、ブラックホールに吸われた方がいいと思う。――最低だ。


 最低だなーと思いながら、タカフミが参考書のページをめくる指先を見ている。

 男の人の指。

 特に爪の形がわたしたちとは違う。

 誰を守るためにあんなに丈夫そうな手をしているんだろう······?

 勉強時間なのに切なくなる。恋に落ちるのが止められないんだから、切なさも止まらない。胸の奥が出てこないため息でいっぱいになる。いま深呼吸したら、きっと全部伝わっちゃうに違いない。

 だって、こんなに近い。


 こんなに近いのになんで伝わらないんだろう? 目力が足りないから? それとも女子中学生には不可能な色気が漂ってないから?

 大体、色気ってなんなんだろう?

 タカフミはお姉ちゃんに色気を感じてるんだろうか――? どんな風に? どんな時に?

 色気を感じたら······例えば手を繋ぎたいとか、キスしたいとか思うんだろうか?

 あ、ダメ。この先は自虐ネタにしかならない。


 ぼーっと持ってるプラスチックのシャーペンが段々重さを増していく。わたしは延々とタカフミを見ている。

 お姉ちゃんのいない世界は存在しない。

 でもわたしのいない世界はあるかもしれない。

 もしそうなったらタカフミは。


「どうした? あ、待ちくたびれたか」

 タカフミのシャツの袖口を掴んだ。迷いに迷ったけど、これくらいならの範疇に入るかなって。甘えたふり。

 ちょっと触ってみたかった。子供の頃とは違ったタカフミの温度。

「どうした? おい、ちょっと具合悪いんじゃないの? おばさん呼んでくるよ」

「行かないで」は、声にならなかった。ただ本人にも訳のわからない涙がぽろぽろ、とどまることなくこぼれ落ちた。

 情緒というものを理解しないタカフミは「おばさん、サエ、熱あるみたい」と階下に向かって、特に焦る様子もなく大きな声を出した。


 これもまた幼なじみならでは。


 お母さんなんて呼ばないで、大丈夫かって青い顔をして、お姫様抱っこでベッドに······はやり過ぎかもしれない。

 でも、ふたりきりで心配してくれたら、もっとたくさん涙が溢れて心の中の澱んだ想いを全部洗い流すことができるかもしれない。


 そうしたら。もしそうしたら。


 このままタカフミに「好き」って言わないまま、大人になれるかもしれない。この気持ちを隠したまま、例えお姉ちゃんと結婚する日が来たとしても「良かったね」って言ってあげられるかもしれないのに。


「おばさーん!」

「タカフミッ!」

 わたしは彼の腕にがしっとしがみついた。今日のわたしは少し変。ここは夢の中なのかも。

「大丈夫かよ、無理すんなよ」

 タカフミは情けない声になって、わたしの頭を撫でた。いつもはわたしのものじゃない、その大きな手で······。

「知恵熱だな、きっと」

「······なぁにその、テキトーな」

「因数分解の前に展開の復習やろうなぁ」

「やりたくない」

「お、なんで俺が勉強教えてるか忘れたの?」

 タカフミはわたしの目をのぞきこんだ。なんでって言われても······。


 戸惑うわたしを見て、タカフミはふっと笑った。

「同じ高校にどうしても行きたいって、三者面談で言っちゃったんでしょう?」

「な、なんでそれを!」

「なんだって筒抜けだよー。シホが難しい顔して言ってた。あの子が勉強してるとこ、見たことないのにって」

 そうだよ、じゃなきゃ勉強なんてしないよ。学区で一番下の高校だって、タカフミがいなきゃ構わないんだ。

「あのさ」

 すごい、顔、近い······。

「俺だってサエと同じ高校に行きたいから、勉強教えに来てるんだろう、わざわざ」

「だってお姉ちゃんが――」


 タカフミの顔がはてなになった。

「お姉ちゃんといたくてうちに来るんじゃないの······? わたしなんてついででしょう?」

「なんだ、そういう風に思ってたんだ。シホとは付き合い始めて一ヶ月で別れたよ、残念でした! ここだけの話、付き合ってみたらやっぱり幼なじみは幼なじみだった。お互い、日常と全然変わらないんだもん。もう家族みたいなものなんだねって」

 ああ、そう。そういうこともあるんだ。

 中学生には考えるに及ばす······。

 やっぱりわたし如きにはまだ恋は早いのかもしれない。にこっと笑ったタカフミの目もそう言ったように見えた。まぁそれはそうか。受験もあるんだし。


 恋は嫌でもきっとわたしを追いかけてくる。なんてったって『好きにならずにいられない』んだから。

 だから、そう、自然のままでもいいのかもしれない。

 そのうちわたしは高校生になって、そうしたらタカフミもわたしに何かを感じる日が来るかもしれない。ただの妹じゃないサエ。


「言っておくけどサエだっていつ家族枠から外れるかわかんねぇぞ。だから、とにかく勉強しとけ。な」

 今日はもうお終いだけどな。

 タカフミは振り向かずに階段を呑気な足音を立てて下りていってしまった。


 ――バレてる!?


 またお姉ちゃんが余計なことを言ったのかもしれない。

 でもわたしだって進化するわけだから、タカフミはわたしの家族枠に戻されるかもしれないんだぞ。

 早くきれいなお姉さんになってやる!

 その前にこの目の前の数字たちを片付けるから、ちょっと待ってて。


(了)

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