第2話 夜の公園で秘密の約束を交わそう

あの雨の日から、私と樋口さんは少しだけ仲良くなった。

…なったと思う。私はそう思った。彼女もそうだったらいいなと思う。

とにかく、私たちはあの日から、たまに一緒に帰ったり、

休みの日に会って一緒に過ごすようになっていた。


最初に誘ってくれたのは樋口さんで

「日曜、図書館行かない?」

そんな風に、ちょっとそっけないような言葉だった。

それでも私は、凄く凄く嬉しくて、かぶりぎみに「行く!!!」って返しちゃって、

「声が大きいよ」って笑われちゃって恥ずかしかった。

(でも、樋口さんの笑顔を見られたから、全然いいやとも思ってしまった。)


デートみたい!!!?なんて私が浮かれているのを、

樋口さんはどう思っていたんだろう。

「表情がころころ変わって早川さんは面白いね」

そんな風に言ってくれたから、嫌われては居ないと思う。そうだといいなって思う。

図書館では、難しそうな本を何冊も手にとって、樋口さんは凄いな~なんて思っていたら、それを横に重ねてテーブルで居眠りしだしちゃったのには本当にびっくりした。

「寝ちゃうの?」

「ここ静かで丁度良いでしょ?早川さんは読んでいていいよ」

「えぇ…?」

大人っぽいと思っていた樋口さんは実はちょっと変わり者だったのか…なんて思ったりしたけれど、彼女の寝顔を独り占めできるのは悪くないかな なんて思ってしまったので、私は大して興味もない歴史の本を開いている横目で、彼女の長い睫や形の良い鼻や唇をじっくり眺めて堪能してしまった。

こんなことを本人に言ったら気持ち悪がられそうだから絶対にいえないけれど。

一緒に勉強をしようと思って本をチョイスしたけど、勉強はちっともはかどらなかった。けど、幸せだった。


樋口さんと私は教室では今までどおり、殆ど会話をするわけではなかった。

私は私でいつもの地味グループでそっちの友達と過ごしていたし、

樋口さんはいつも通り一匹狼みたいにクールでカッコよく、群れない女のまま。

それでも、一緒に帰ろうって言うときは、樋口さんが軽くアイコンタクトを送ってきてくれて、いつもは物憂げでつまらなさそうな表情を少しだけ柔らかくして微笑んでくれるから、放課後私は、まるでしつけられたわんこみたいに尻尾を振って、

校門の外・バス停で私を待つ樋口さんの元へ向かって走って行くことになる。

"教室では話しをしない"なんてルールがあった訳ではないのだけれど、

私たちはいつもそんな風に教室の外で内緒みたいに逢瀬を繰り返した。

まるで"秘密の関係"みたいでドキドキして、私はその関係が嫌いではなかった。


二度目の図書館デート?では、樋口さんは居眠りをしなかった。

「どんな本が好きなの?」って私の読む本を覗き込んできたものだから、

顔が近いと慌ててしまった私に、樋口さんは、

騒ぐと追い出されちゃうよなんて耳元で意地悪に笑った。


何処にも行かないで、近所の公園のフェンスに寄りかかって二人、

日が暮れるまでお喋りをすることも何度もあった。

カラオケやファミレスに行くとお金が掛かっちゃうし、

私も樋口さんもあんまり人が多いところは好きじゃなかったから…というのが理由のような気もするし、私個人の意見を言うのなら、彼女と一緒なら何処でも良かったから…というのもあった。


普段は少し大人っぽい彼女が、私に意地悪を言うときだけは小さな子供みたいに無邪気に笑うこととか、ふざけて私に触れてくる、か細くて長いきれいな指先だとか、

私は気がつけばいつも彼女のことばかり考えてしまうようになっていた。

もっと彼女のことを見ていたいといつでも思っていたし、彼女に触れて欲しい。

彼女に触れていたいと思うようになっていた。

女の子同士なのにおかしいのかな?そんな風に考えなかったわけでもないけれど、

そんなことどうでもいいとも思った。

それくらいに、私はあの子だけが欲しかった。



樋口さんの様子がおかしいと気がついたのは、夏の始まりの頃。

二人で会った日の夕方、別れ際、いつも彼女は悲しそうな?不安そうな?顔をしているのだ。最初は、私と別れるのを惜しんでくれているのかな?なんて能天気に考えていたのだけれど、どうやらそういう訳ではないようだと気がついたのは、樋口さんの身体に目に見えて傷や怪我が増えていったからだった。

どうしたの?と聞けば、転んでしまっただとか、ボーっとしていてぶつけてしまったと決まり悪げに笑うけれど、それ以上聞いて欲しくないという拒絶的な雰囲気が、逆に「それだけではない」と言っているように感じたのだ。

そんな風に頑なに何か秘密を隠そうとする樋口さんと、それを問い詰めようとする私は何となく気まずくなってしまって、数日口をきかない日が続いていた。

私は、寂しかったし、何より彼女の怪我の理由が心配で仕方がなかったけれど、こんなに仲良くなったと思っているのに、理由を話してくれない彼女に苛立つような気持ちもあった。

そんな風にモヤモヤした時間を過ごしていたのだけれど、その日、樋口さんは学校を休んだ。

風邪だと先生は言っていたけど… 彼女の腕や足にあった擦り傷や絆創膏のことを思い出すと、私はまたひどく不安な気持ちになってしまった。

そして、そんな私の感情に呼応するみたいに、その日は大雨になった。

本当はわかっている。別に天気は私の感情や都合で変わったりしていない。

今日は朝から、午後に雨が降るという予想が出ていたし、だから私は今回は傘を持ってきたし。


(…あの時は、樋口さんが来てくれて、一緒に帰ったっけ)


昇降口で空を見上げながら、傘を広げつつ そんな風に思いを馳せた。

いくら感傷に耽っても、今日は樋口さんは学校に来ていないのだから、

いくらここで待っていても彼女がきてくれることはない。

そんなことは分かっているのに。


傘のおかげで雨に濡れることはないけれど、重たい足取りでバス停への道を歩く。

家に帰ったら樋口さんにメールでも送ろう…なんて考えながら、バス停の方へ視線を向けた。


「…!!」


バス停の前に、いつか雨宿りしたトタンの屋根の下に

ずぶぬれの女の子が立っている。

長い黒髪に細身の体型のきれいな女の子が。

見間違えるわけがない。

あれは樋口さんだ。


私は、持っていた傘も鞄も放り投げて駆け出してしまった。


「樋口さん!!どうしたの!?」


ずぶ濡れの彼女は雨のせいだけじゃない水滴で顔をぐちゃぐちゃにしていた。

彼女は泣いていて、濡れた身体も、いつからここに居たのだろうか分からないくらい、すっかり冷たく冷え切っていた。いつも私が見とれていた顔は殴られたような痛ましい痣があり、唇は切れて血が滲んでいた。


「はや、かわさ… 私…」

「怪我、手当てしなきゃ…服も乾かさないと…こんなに濡れて…」

「うっ…ううっ…私、私…」


樋口さんは私にしがみ付いて子供みたいに泣いてしまった。

私は、どうすることも出来ないまま、ただその冷えた身体を温めてあげたくて、

その身体を強く強く抱きしめた。

そうすることしか出来なかった。それがどうしようもなく歯がゆくて、苦しかった。



家に帰りたくない。

そう話す樋口さんを無理やり家に帰すことなんて出来なくて、

私と樋口さんは公園の遊具の中に潜って雨宿りをした。

本来は小さな子供達が潜って遊ぶ為の、動物型の滑り台の下に空いているトンネルみたいな穴だ。

当然、どちらかというともう大人サイズの私たち二人では狭い。

…とはいえ、こんな雨の中なら誰も来ないし、誰にも気がつかれずに雨宿りをする…という意味では丁度良かった。

私たち二人はそのトンネルに背中合わせに座って、雨音と一緒に

ぽつり、ぽつりと自分のことを話しだす樋口さんの言葉を聞いた。



彼女の家が母子家庭であるということ。

彼女の母親は樋口さんをあまり良く思っていないらしく、普段から暴言を良く吐かれていたこと。

最近、その母親が恋人だといって若い男を家に連れ込むようになったこと。

そしてその男が、母親の不在時にも家に入り浸るようになり、ついには自分にまで手を出そうとしてきたのだという。

樋口さんは当然それを拒み、助けを求めようと母親に言いつけたところ、母親から返ってきたのは「お前がたぶらかしたんだろう」という罵倒と暴力だった。

樋口さんは、もう家に居られないと飛び出してきてしまったのだと話してくれた。

私は、怒りとも悲しみとも言えない感情で言葉を失ってしまった。


実の母親に酷いことを言われ続け、助けて貰えない悲しみと孤独感を

見ず知らずの男に汚い欲望をぶつけられそうになった恐怖を

どんな言葉で慰めたらいい?

どんな言葉をかけたら彼女は楽になる?

わからない。

私は何もわからない。


背中合わせの彼女は震えている。

きっと、その理由は寒さだけじゃない。


「もうあんな家に帰りたくないよ」

「…うん」

「お母さんに殴られたくないよ…あの男に触れられたくなんてないよ…」

「…うん」

「いやだよ、…怖いよ…助けてよ…」

「…うん…」


私は身体の向きを変えて、背中から樋口さんの身体を抱きしめた。

その身体は小さくびくりと跳ね上がったけれど、私は腕を緩めなかった。


「……二人で逃げちゃおうか…」

「…え?」

「嫌なお母さんも、嫌な男の人も…誰も居ないところに、二人で逃げちゃおうよ」

「…早川さん…それは…」

「私はいいよ。お父さんもお母さんも要らない。樋口さんだけ居てくれたらいいよ」

「……早川さん…」

「…樋口さんを傷つけるものなんて要らないよ」

「…うん… うん… 嬉しい…」



私たちは身体こそ大人に近くなっているけれど

世間的にはまだまだ子供で

出来ることより出来ないことのほうが多くって

親の庇護を飛び出して 本当に生きていけるかなんて全然分からなくて

だけど

それでも この瞬間 私は確かに他の何よりも彼女のことが大事で

彼女を安心させてあげられるのなら

彼女を救うことができるのなら

他の何を失ってもいいって

本気で思ったんだ。





すっかり日が落ちて真っ暗になった夜の公園で

二人だけの秘密の逃避行の計画を立てる。

寒いねって肌を寄せ合って、くすぐったいって笑いながら何度も唇を重ねた。

私の濡れた頬を彼女の細い指が、這うように撫でるのが気持ちよくて、

何度もそれをねだった。

凄く凄くドキドキして、夢みたいに幸せだった。





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