超えない五線譜(score)三


ピアノを学ぶ中で短い作曲や編曲の課題をしたことはあった。


それは、授業の一環としての曲作りなので無難に、有名な曲には似すぎないよう無個性な点数稼ぎの記憶にも残らない曲。


作曲には作曲のプロがいるから私は楽譜通りに完璧に弾くだけ。


ずっとそうしてきたわ。


それが、十年も経ってから体調不良と変わった男性のおかげで音を合わせながら楽譜に音符を書き込むなんてわからないものね。


私が演奏出来なくても作曲したというなら結婚式で助力したことになる、そんな情けない気持ちで彼と作り始めたの。



「もの悲しい曲は嫌だわ。何か、目が覚めるような…初めは気持ちが落ち着いて、徐々に元気の出る曲が良いわね」


「賛成」


防音室でずっと閉じられていた、私の持ってきたグランドピアノが嬉しそうに音を奏でている。この人、なんて楽しそうに弾くのかしら。


…婚約が決まり、引っ越してきてからすぐに弾けなくなった私のピアノ。


もうじき調律もしなきゃいけないと思っていたからそのチェックも兼ねて。



「…とはいっても激しい曲調は結婚式に合わないわ。ゆったり聞けてふわりと踊れるくらいが良いかしら」


「うん。ならハネるのは最後の小節かな。僕は最初にベースのリズムを持ってきてフェイクで砕けた感じにしたいと思う。こうだね」


「それは崩しすぎ!」


「試してみないとわからないだろ?音楽くらいは好きに弾く」


「もう」



日に日に、私は彼の弾くピアノの音でピアノへの愛しさを思い出していった。



「良いわね…子供でも弾きやすいように半音を無しにも出来そう」


「ハ長調の曲は優しい。僕もこれは好きだよ」


彼はバイオリンも弾けるので、ある日自分のものを持参して私が演奏してくれるとすごく助かると言った。

偉そうに口出ししてるだけなのもつまらなくなっていた私は、すっと手を鍵盤に伸ばした。


具合が悪くなったらやめればいいんだもの。



……

……

………大丈夫。


大丈夫だわ。

弾ける。バイオリンの音が聴ける。

この人だから?


「一人で家にいるなら、暇だろう?練習しておいてね」


言い方は相変わらずね。

婚約者とは違う人との秘密のアンサンブル。

私にも何処かで「やってやったわ」という気持ちがあったのは確かね。



「…ピアノは鍵盤の白と黒が逆だったなんて想像がつかないわよね。黒い鍵盤は楽譜を見ながらだと弾くのが難儀でしょうね」


「オーダーしたらきっと作れるよ。鍵盤が黒いピアノなんて家にあったら大抵の人は驚くだろうな、どうしてわざわざ弾きにくい色にするんだ?ってね」


「慣れるのね、きっと」


彼は私の家に毎日昼頃来て、1週間で曲を作り上げた。


私の希望通りの曲調、彼の手書きの楽譜。

それを、私の手で弾くことが出来た。

数ヶ月のブランクが嘘みたいに、演奏は楽しかった。



「うん、これでいいね。伴奏は完成だ」


「ええ。私はもう言うことが無いわ。あとはあの人に結婚式で使って良いか確認するだけね。明日帰国するから一緒に…」



彼は帽子を被っておもむろに立ち上がり、唯一の荷物である鞄を手にする。


「結婚式で使ったらいけないと言われたら、それは君が持っていてくれ。気が向いたら弾いてくれると嬉しい。僕も一人になった時、たまに弾くよ。結婚式にはどちらにしても僕達夫婦は行けないんだ。分かるだろう」


「…それって…」


「ああ。もうここには来ないよ。外で会っても話さない。お互いの為にね」


どう言うのが正しいのかわからなかったわ。


「そうね」


「楽しかった。君のピアノが聴けて良かった」


「ええ。ありがとう」



たった一週間だった。

曲を一つ完成させて私達は、別れた。



私は時間が有り余っていたから一人でピアノのリハビリも兼ねて作ったのだ、と婚約者に少し嘘の混ざった報告をしたわ。


二人きりで家にいたのを知られるのは、「なんだ、君もじゃないか」と婚約者に思われるのがとても嫌だったから。


婚約者はその曲をとても気に入ってくれた。


曲の題名は何にするという話になり、私は題名を決めないままこの曲を作ってくれた彼の連絡先も聞いてない事に気付いた。


曲名を保留にし、私は婚約者に彼の連絡先を聞くことは出来ず探し出したわ。



でも、こちらから連絡は出来なかった。

会いに行くわけにも行かなかったわ。


あちらには妻子がいて、私には婚約者がいる。

それが全ての答えだった。


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