負けました

東京は千駄ヶ谷。ここには将棋の聖地である将棋会館という建物がある。そこでは将棋のプロ棋士たちが日々、熱い公式対局を行っている。


一般の人も将棋教室や道場、将棋グッズが売っている売店など、プロ棋士だけでなく将棋ファンが楽しめる場所だ。


そんな将棋会館の1階を、僕は重い足取りで歩いている。幸い今は周りに人がいないから、こんな情けない姿を見られなくて済む。


多分だけどクビ宣告をされたサラリーマンみたいな感じになってるだろう。スーツもずっと着たままだったから、くたびれてるし。


窓を見ると日が落ちはじめている。確か対局が終わったのが午後5時くらいで、その後に感想戦をちょこっとだけやったから、今は午後5時半くらいだろうか。


「はぁ……」


憂鬱な気持ちでため息が出てしまう。


でも落ち込んでしまうのは仕方ないよ。だって、今日の対局に負けてしまったのだ。


これで3連敗。連敗する前は2連勝でいい流れだと気合い入ってたんだけどなぁ……。


しかも今日は昨年の10月に16歳の高校生プロ棋士として四段に昇段してから、1年が経った記念日だ。


「勝ちたかった……」


自玉に詰みを見つけたとき、目の前の盤面がなにも見えなくなった。


なぜこうなってしまったのだろう、どこで局面を悪くしてしまったのだろう。こんな感じでまだ対局が終わってもないのに、勝つことを諦めてしまった。


そして最初から一手一手振り返った時、今となっては悪手だと言える一手を発見した。


次の瞬間には「負けました」と言葉が出ていた。


「はぁ……」


またしてもため息が漏れてしまった。こんなところ見せたら将棋ファンから叩かれるだろうな。


しばらくエゴサはやめておこう、そう考えていると人の気配が感じて視線をあげる。


まずい! ため息が聞かれた!?と焦ったが、入口の前に立っていた彼女を見て安堵した。


長くて綺麗な黒髪に、すらっとしたモデル体型。キリッとした黒目がちな瞳。


間違いない! 愛奈ちゃんだ!


まるでお手本のような姿勢の良さで立ちながら、スマホを片手で持っている愛奈ちゃん。


どうやら僕のため息で存在に気づいたようで、眉を八の字にさせて苦笑いしながら手を控えめに振った。


「うわぁ、大きいため息ね。あなたの人生に幸せがなくなっちゃうわよ?」


「もしかして待っててくれたの?」


「えぇ。だって今日はあなたがプロ棋士になってちょうど1年でしょ? だからお祝いも兼ねて一緒にご飯を食べようと思って」


「愛奈ちゃ~~~~ん!! 嬉しいよ~~~~!!」


「ちょっと! だ、抱きつこうとしてこないで!?」


さっきまで負けて悲しかったのに、その気持ちが一気に吹き飛んだ。


しかも好きな人と2人きりで食事に行けるなんて運が良すぎじゃないか?


だから嬉しくなって抱きつこうとしてしまうのは仕方がないと思う。


愛奈ちゃんは驚きながらも、僕の顔を押し返す。意外と力があって顔が痛い。一体この細い腕のどこに、僕を押し返す力が隠されているのか。


「もう離れなさいよ!」


「えー、わかったよ……」


名残惜しいけど、このまましつこくして嫌われたくないから距離をおいた。


ちょっと調子に乗りすぎたかも。


「ごめん、つい嬉しくて……。嫌だったよね……」


「そんな落ち込まないで。べ、べつに嫌だからそう言ったわけじゃないから……」


「それって!?」


嫌じゃないってことは、僕に少なからず好意があるってことだよね!?


髪をくるくるといじっている愛奈ちゃん。頬がほんのり朱色に染まっているのは、恥ずかしさからなのか。


そしてボソッと声を発した。


「こ、心の準備が……」


「えっと、声が小さくて聞こえないよ?」


「~~~~っ!! 調子に乗るなって言ったのよ!!」


「えーー!! やっぱり怒ってる!?」


恥じらいながら小声でなにか呟いたと思ったら、普通に怒っていた!?


やっぱり愛奈ちゃんの僕に対する評価ってかなり低いんじゃ?


期限を損ねちゃったから今日の食事がなくなっちゃうかも!と絶望していると、その予想に反した声が聞こえてきた。


「ほ、ほら! もう遅い時間になっちゃうから行くわよ!」


「付き合ってくれるの!? てっきり怒っちゃって行ってくれないかと」


「まだ許してないわ。だから今日はあなたの奢りね」


「もちろん!それで愛奈ちゃんが許してくれるならなら僕の財産、ぜんぶ払えるよ!」


「逆にそこまでされたら引くわよ……」


僕から視線を外した愛奈ちゃんは、なにも言わずに将棋会館の出口に向かって歩きはじめる。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


置いてかれないよに、慌てて後ろを追いかけた。


「怒ってるわけじゃないのに……。一緒にご飯に行けて嬉しいのに……。なんで素直になれないのよ、私っ!」


なんか愛奈ちゃんがぶつぶつと1人で喋ってる。後ろにいる僕には愛奈ちゃんの声が聞こえない。


気になって愛奈ちゃんの様子を見たら、夕日のせいなのか耳が真っ赤に染まっていた。

















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