獅子の思惑 1

 微かな振動に、はっとして目を開く。次の瞬間、視界に入ってきた人物に、ラウドの身体は本能的に起き上がり、逃げの体勢に入った。だが。全身を駆け巡る痛みと痺れに、ラウドの身体は力無く、先程まで倒れていた固いベッドの上に頽れる。


「起きたか」


 ラウドの目の前にいた人物、獅子王レーヴェがその黄金の髪を揺らして不敵に嘲笑するのが、気に障る。身体の怠さを押し鎮め、ラウドはレーヴェを何とか睨んだ。


「最初に言っておくが、逃げようとは思わないことだな」


 そのラウドの睨みを全く気にしていないかのように、レーヴェが言葉を紡ぐ。


「此所は船の上だ。逃げたところで海しか無い」


 勝ち誇ったように聞こえるレーヴェの言葉に、ラウドは唇を噛んだ。古き国の騎士達は、自分達が暮らす大陸しか知らない。ルージャもライラも、船で海を渡るあるいは渡ったことは、おそらく無いだろう。海の上では、『飛ぶ』ことは不可能。泳ぐことはできるが、水中では一瞬の対処の誤りが致命的であることを、ラウドは本からの知識と、リュング師匠から聞いた知識で知っていた。陸の方向が分からない限り、溺れることは必至。今は、逃げられない。そう判断したラウドの身体は一瞬で弛緩した。船ならば、いつか陸に着く。逃げるのは、それからだ。ラウドはゆっくりと、レーヴェから目を逸らした。しかし何故、ラウドはレーヴェと共に船の上に居るのだろうか?


「今度、隣国から嫁を迎えることにした」


 ラウドの疑問に答えるかのように、大人しくなったラウドを確認するようにじろりと見詰めたレーヴェが口を開く。この船は、普段は交易品を運ぶ為に使っているが、今回は、隣国の姫を迎えに行き連れ帰る為に、貢納品を乗せて隣国へと向かっているところであるらしい。新しき国と大陸の北西部で陸続きである隣国とが、新しき国に産出する宝石で隣国の穀物を買うという交易をしていることは、ラウドも勿論知っている。だがその交易に船を使っていることを、ラウドはレーヴェの話で初めて知った。しかし、その船に何故、ラウドを乗せる必要がある? ラウドのその疑問は、レーヴェの次の言葉で解けた。


「姫君を迎えるのだから、当然、こちらからも人質を出さねばならない。その人質として、ラウド、お前を隣国へ引き渡す」


 思わず、右手を左肩に当てる。そのラウドの手を、レーヴェは無造作に撥ね除け、ラウドが着ていた褪せた赤色のチュニックを縦に引き裂いた。左肩に冷たい風が当たるのが、分かる。その場所にある痣を隠そうとしたラウドの右手は、再び、レーヴェによって阻まれた。ラウドの左肩にあるのは、獅子王の血を引く者の証である、獅子の横顔に見える痣。ラウドがレーヴェの異母弟である、証拠。その獅子の痣を、レーヴェが凝視する、その視線が痛い。ラウドは思わずレーヴェから顔を背けた。レーヴェには、この傲岸な人物にだけは、自分の出自を知られたくは、なかった。


「何時から、気付いていた?」


 顔を背けたまま、感情を出さないように尋ねる。


「さあな」


 レーヴェの答えは、あくまで傲岸で、しかし何処か悲しみの感情に満ちているように、ラウドには感じられた。そして。不意に、レーヴェの指がラウドの左こめかみに触れる。その場所にある、かつてレーヴェが刻みつけた古い傷を、レーヴェの指がなぞる。その指の熱さを、ラウドは戦慄と共に感じていた。


「弟だと気付いたきっかけは、痣ではない。この、……傷だ」


 幼い頃、些細なことでレーヴェに歯向かったラウドに激怒したレーヴェが模擬武器でラウドの頭を殴りつけてできた傷。そして母がラウドを連れて王宮を去るきっかけとなった傷が、ラウドの出自を特定するとは、皮肉としか言いようがない。そう思い、ラウドは思わず目を閉じた。


 と。


「お前を隣国に連れて行く理由は、もう一つある」


 ラウドから少しだけ身を離したレーヴェの、思いがけない言葉に、ぴくりと身を震わせる。


「お前を、古き国から引き離したい。それが、理由だ」


「何故!」


 再び、ベッドから飛び起きる。しかしやはり全身を駆け抜けた痛みに、ラウドは呻いてベッドの上に頽れた。それでも。ラウドの身体を押さえたレーヴェを、鋭く睨む。そのラウドを睨み返し、レーヴェはラウドの気分を逆撫でる言葉を言い放った。


「古き国のやり方では、悪しきモノは人への攻撃を止めない。事態は悪化するだけだ」


「嘘だ!」


 思わず、叫ぶ。悪しきモノと戦い、命を落とした騎士達のことが、妹であるリディアのことが、脳裏を過ぎる。全身の痛みに構わずラウドは飛ぶように起き上がり、レーヴェの襟を右手で強く掴んだ。


「本当のことだ」


 そのラウドの右手に、レーヴェの熱い左手が重なる。息が上がったのと、レーヴェの冷静な態度に、ラウドはゆっくりと、レーヴェから右手を離した。それでも、睨むのだけは、止めない。


「新しき国が誕生したきっかけは、知らないな」


 ラウドの視界に、レーヴェの深い青色の瞳が映る。


「新しき国と古き国が、対立するようになった、きっかけも」


 元々は女王に仕える辺境伯の一員であった獅子辺境伯が、『新しき国』として古き国と対峙するようになった理由は、悪しきモノに対する認識の違いの為。古き国を創設した女王リオンと彼女に仕える騎士達によって倒された暴君『闇の王』の成れの果てである、『悪しきモノ』と呼ばれる黒い靄も、かつては、時折人間の領域に現れることもあるが、闇の王が身に着けていた鎧に付いていた板を模した『記録片』を見せるとその板を飲み込んで立ち去る、害の無いモノであった。勿論、その靄が、かつて自分を倒した女王と騎士、そして彼らの子孫である辺境伯とその血を受け継ぐ古き国の騎士達のことを憎悪している気配は、確かに有った。だが、それでもやはり、『記録片』を渡しさえすれば大過無く靄は消える。かつての悪しきモノはそのような存在であったと、新しき国の歴史には記録されている。そして、歴史に記録されているところによれば、新しき国が生まれるきっかけとなったのは、一つの誤解。悪しきモノに妹を奪われたと思い込んだ古き国の女王ラヴィニスが悪しきモノの討伐を命じたことが、きっかけ。その女王の妹であり、自身の婚約者でもあった女性セシリアを目の前で失った、獅子辺境伯リュカの親友ロルは自分の身が衰弱するのも構わず積極的に悪しきモノを討伐したが、彼女が『消えた』理由が悪しきモノではないことと、セシリアを誘惑した鷲辺境伯が自身の保身の為に彼女を殺したことを知り、そのことを暴いた獅子辺境伯リュカを殺そうとした鷲辺境伯からリュカを庇って命を落とした。そして。一度攻撃された悪しきモノは自分の身を守る為に力を付け、現在では、古き国の騎士でも時には手が付けられないほどの凶暴さを身に付けてしまった。


「私は、新しき国の王として、古き国の間違いを正す必要がある」


 だから代々の獅子王は、古き国の女王が発する呪いを恐れることなく、古き国を、対立の原因となった女王を滅ぼすことに心血を注いできた。古き国を滅ぼした現在、獅子王レーヴェに残された義務は、悪しきモノに害を加え、その行為の故に悪しきモノに力を蓄えさせてしまう古き国の騎士達の行為を、止めさせること。その為に、古き国の騎士の中で一番の頭脳と剣技を持つラウドを古き国から引き離すことは、レーヴェにとっては最良の策の一つ。ラウドさえ、古き国から引き離せば、残りの騎士は有象無象。傲慢にもレーヴェはそう言い放ち、古き国の騎士達を罵った。ラウドが居なければ、自分の命を賭してまで、悪しきモノを積極的に退治しようとする者は居ないだろう、とも。


「だからラウド、私はお前を隣国に送る。これ以上、悲劇を繰り返させない為に」


 あくまで淡々とした、それでいて強い力を持ったレーヴェの言葉を、ラウドは絶望と共に聞いていた。


〈そんな、こと……〉


 リディアの笑顔が、脳裏を過ぎる。レーヴェの言葉が正しければ、ラウドは、古き国の騎士達は、自身の命を賭して、無駄で無益なことを行っていることになる。そんな、ことが、……あるはずがない。


 涙が頬を伝って落ちていくのを感じる。脱力したラウドの身体を、レーヴェが意外に優しくベッドに横たえてくれる、その腕の熱さが、今のラウドには厭わしく、しかしどこか必要なものであるとも感じられた。


 そっと、瞳を閉じる。温かい闇に、ラウドは身を委ねた。

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