狼の困惑

 薄く、目を開ける。暗い天井の微かな凸凹が、ラウドの記憶を刺激した。


 此所は、確か。首を僅かに動かしながら、記憶を、探る。暗めの石造りの壁に囲まれた、ベッドとその傍の腰棚のみが置かれた狭く簡素な部屋。新しき国の王都にある王宮の、王の近衛騎士達が寝泊まりする一室だ。前に獅子王レーヴェに捕らえられた時も、この場所でしばらく暮らしていた。その時の、あまり面白くない気持ちを思い出し、ラウドは大きく息を吐いた。


 痺れが残る身体を、ベッドの上に起こす。ベッドの傍らの腰棚の上に載っている水差しと、固そうなパンに、ラウドは今度は鼻を鳴らし、痛む両腕を揺らした。足に嵌められている足枷が鳴らす金属音と、手首に掛かる手枷と皮膚が擦れる音が、暗い空間に重く揺れる。この状態で飲食ができると、レーヴェ並びにラウドを此所に閉じ込めた輩は本気で思っているのだろうか? 不満が、ラウドの唇を歪ませた。まあ、あいつらの考えることだから。ラウドは諦めるように息を吐くと、手枷の位置を調整し、自身の魔法を用いてあまり手間を掛けること無く重い手枷を外した。手枷さえ外すことができれば、後は簡単。ラウドは一呼吸で足枷を外すと、身体の痺れに構わず立ち上がった。無造作に床にうち捨てられていた黒いマントから、椿の留め金と狼の留め金を外して腰のベルトに配したポーチに仕舞う。厚手のマントは、脱出する時に邪魔になるかもしれない。だが二つの留め金は、ラウドにとって絶対に必要な物。武器が無いことが不安材料だが、まあそれは何とかなるだろう。勿論、毒を警戒して、水差しの中の水にもパンにも手を付けない。三歩ほど歩いて扉に辿り着き、外の気配を確認すると、ラウドは音を立てないように魔法で鍵を外し、するりと外へ出た。レーヴェはラウドを自分の部下にしようと躍起になっているが、ラウドはあくまでも、古き国の騎士。何度捕まろうとも、レーヴェに仕えるなど、願い下げだ。


 部屋の外も、星明かりすらない所為で殆ど視界が無いことを除けば、ラウドの記憶の通りだった。謁見の間、執務室、王族を葬る墓地、修練場、そして近衛騎士達の宿舎が、中庭を真ん中に回廊でぐるりと繋がっている。中庭の端に、手入れのされていない低木があることも、記憶の通り。無意識のうちに、ラウドの左手は左こめかみの古い傷をなぞっていた。


「どうして黙って出て行ったの!」


 低木の枝に衣服が引っかかり、身動きが取れなくなっていた前の王妃を助けた時、ラウドを母のルチアと見間違えた前の王妃が口走った言葉が、ラウドの脳裏に閃く。ラウドは、新しき国の獅子王の血を受けた、レーヴェの異母弟。そして母は、ラウドを守る為に自らこの場所を去った。


「レーヴェがラウドに大怪我を負わせたこと、悪かったと思っているわ。でも誰にも何も言わずに出て行くなんて」


 母が、この場所を出て行くという選択をしなかったら、ラウドはこの場所で、屈託無くレーヴェに仕えていたかもしれない。あるいは、レーヴェの身代わりとして、古き国の女王が持つ呪詛に晒されていたか。いや、ラウドが止めなくても、リュスは呪いを使って誰かを殺すという選択はしなかっただろう。そこまで考えて、ラウドは首を横に振った。それを考えても、詮無きこと。今は、とにかく、……ここから脱出するのみ。


 だが。王が住まう王宮に人影が全く無いのを不気味に思い、無意識に背中が震える。次の瞬間。空に走った赤い帯に、ラウドは息を止めた。四角い中庭の上方、王都に属する街がある方向の空が、赤く染まっている。火事か? しかし何故いきなり。そこまで考えたラウドの視界に、赤い帯を背景にした小さく暗い人影が入ってくる。謁見の間と近衛騎士達の宿舎を繋ぐ回廊の上の歩廊に、誰か居るのか? そう考える間も無く、ラウドの足は回廊の屋上へ続く階段を上っていた。


 幾許も無く、屋上へ出る。ラウドの左手側、王都の街の方が赤く染まっていることが、屋上からだと更にはっきりと見えた。先程までは無かったはずの炎の熱さも、確かに感じられる。そして、ラウドの前方、屋上の歩廊に設えられた胸高の石塀から街の方を見て、微笑んでいるように見える人影は。


「女王陛下?」


 新しき国の王宮という、この場所に相応しく無い人物の名を、呟く。ラウドの目の前に居るのは確かに、炎が作る風を受けて靡く白金色の髪を豊かに垂らし、同じ風に緩やかに揺れる緋色のローブと黒色のマントを纏った人物。ラウドが居るこの場所からでは首飾りは判別できないが、リュスと同じ形の王冠と、リュスが持っているのと同じ木剣を佩いた人物は、ラウドの知る限り一人しか居ない。


 ラウドの戸惑いの言葉が聞こえていたかのように、目の前の人物がラウドの方に身体を向け、にこりと笑う。


「そなたは」


 女性にしては低い声が、重い空間を震わせる。


「そうか、そなたは確か『飛ぶ』ことができるのだったな」


 次の瞬間。女王から発せられた黒い靄が、ラウドに素早く飛びかかる。『悪しきモノ』! そう、ラウドが認識するより早く、黒灰色の靄はラウドの右足と左腕をその鋭い風で切り裂いた。何故、女王の身体から悪しきモノが? 混乱が、ラウドの全身を支配する。だが、古き国の騎士としての本分が、ラウドの身体を女王の方へと向かわせた。悪しきモノは、祓い、封じなければならない。女王に取り憑いているのなら、女王が悪しきモノに深く魅入られているのなら、尚更。だが。ラウドの前進は、突然現れた赤い上着の騎士の剣に阻まれた。


「レギナ様の邪魔は、させない」


 飛び下がるラウドに肉薄する騎士の刃が、ラウドの左肩を削ぐ。バランスを崩し、ラウドは石畳に尻餅をついてしまった。だが、これで終わるラウドではない。好機とばかりにラウドの方へ剣を突き立てた騎士の攻撃を躱すなり、ラウドは騎士の、剣を持った方の手首を掴んで強く捻り、騎士の手から石畳へと落ちた剣を一瞬で拾うとまだ呻いている騎士の首筋にその切っ先を突きつけた。だが、次の瞬間。


「リューン、下がれ!」


 低い声が耳を打つと同時に、ラウドの視界が赤く染まる。炎だ。熱さを感じる前に、ラウドの身体は石畳を転がった。幸い、ラウドを囲んだ炎はすぐに消える。だが、全身を襲う痛みと怠さに、ラウドは思わず呻いた。ラウドが取り落とした剣を拾いこちらへやってくる騎士の、怒りに満ちた瞳が、ラウドの視界に入ってきた。


 石畳の上で呻くラウドを一瞥した騎士が、表情を変えずラウドの身体に剣の切っ先を突きつける。


「待て、リューン」


 その切っ先を留めたのは、意外なことに女王だった。しかし。


「この者は、私が倒さなければならない定めの者」


 動けないラウドの傍らに立った女王が、右手に握った短剣を軽く振る。あの黒色の短剣は、何処かで見たことがある。ラウドがそう思うより先に、短剣は長剣となった。


 長剣となった短剣の、黒色の切っ先がゆっくりと、ラウドの身体に降りてくる。痛みは、感じない。感じたのは、薄ら寒い冷たさと、全ての感覚が急速に失われる脱力感。




「ラウド!」


 耳が割れそうなほどの大音声と、身体を酷く揺さぶられる感覚に、物憂げに目蓋を上げる。


「大丈夫か!」


 薄く青くなっている空と、何故か顔色を蒼くしているレーヴェの姿が、ラウドの瞳にはっきりと、映った。


 とにかく、生きている。そのことに関しては、ラウドは心からほっとしていた。しかし、昨夜見た光景は、何だったのだろう? 疑問が、ラウドの心をごちゃごちゃにしていた。女王リュスに似た、あの女性は? そしてその女性が纏っていたのは、悪しきモノではなかったか? そして。


「怪我は、ともかく、……何故、火傷まで」


 背中に感じる石畳の床の冷たさと、ラウドの全身を調べるレーヴェの指の熱さが、ちぐはぐで不快だ。そのレーヴェの熱い腕に抱き上げられて顔を顰めるより早く、ラウドの意識は再び闇に呑まれた。

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