第3話 公園

 それから一週間ほど、私は普段通りの自分を心がけながら生活を続けた。


 初めはすごく辛かったけれど、段々と演じることにも慣れてきた。そもそも演技は、半分ほどで済んでいるのかもしれなかった。塁人と茜音と過ごす時間はやっぱり幸福で、自然と笑顔になっていることも多かったからだ。


 あれからアマノは、一度たりとも姿を現さなかった。彼は、私の言葉を尊重してくれたのかもしれなかった。


 あの日のことが全て悪い夢だったら良いのにな、と時折思った。

 そう思うたびに、私はスマートフォンの灯りをつけて、一つの記事を検索する。あの交通事故について取り上げた、ネットニュース。日付、場所、人名――一つの死を記号化してしまうような文面を見るたびに、私は虚ろな気持ちになった。


 自分の精神が摩耗していくのがよくわかって、怖かった。


 *


 日曜日、私たち家族は近くの公園に遊びに来ていた。舗装された道を、三人でゆっくりと歩く。小さなカンカン帽を被った茜音は、少し遠くにいる鳥たちを指差して微笑う。


「おかあさん、おとうさん、みてみて、とりさんー!」

「本当だ、可愛いわね。すずめかな?」

「すずめさん!」


 茜音はすずめの群れに、両腕を伸ばしながらとたとたと駆け寄った。すずめたちは驚いたように空へと飛び立って、茜音は残念そうに「あららー」と言う。その様子に、私と塁人はくすくすと笑ってしまう。


「いっちゃった、すずめさん……」

「しょうがないわよ。きっとどこかにお出掛けするんだと思うよ」

「そうだな。僕たちですずめたちの旅立ちを祝おうじゃあないか」

「わかった、いわう!」


 茜音はこくこく頷いて、空を眺め始める。青く澄んだ秋晴れの空が、どこまでも広がっている。


「あっ、あかね、ブランコにのる!」

「お、そうか! じゃあお父さんが背中を押してあげよう」

「ほんとー? やったあ!」


 ぴょんぴょんと跳ねている茜音の手を取って、塁人は近くにあるブランコの遊具へと歩き出す。私はそんな二人の様子を、ぼんやりと見守っている。


 茜音がブランコを漕ぎ出して、塁人が優しくその背中を押す。きゃあーと楽しそうに茜音が笑う。まだまだ行くぞーと塁人が言う。


 二人の命が、きれいに輝いているように思った。多分彼らは、これからも長い間生きていくんだろう。自分もずっと、そうだと信じて疑わなかったのに。


 風を切るように、茜音はブランコを漕いでいる。きゃはは、という甲高い娘の声が愛おしい。愛おしくて、堪らない。

 私は微かに首を横に振って、ブランコに近付いていく。


「塁人」

「ん、どうした?」

「腕、疲れるでしょ。代わるわよ」

「ああ、本当? じゃあお言葉に甘えるとするか」


 私は塁人と、場所を入れ替える。茜音の小さな背中を、ゆっくりと押した。


「わーい!」


 茜音は楽しそうにはしゃいでいる。何度も、背中を押す。そうしていると段々と心地よくなってきて、私はその家族という幸福に浸ることにする。


 *


 すべり台を、茜音は何度も楽しそうに滑っている。上っては滑って、そうしてまた上ってを繰り返している。

 私と塁人は近くに立って、そんな茜音の様子を眺めていた。


 ちらりと、塁人のことを見る。その横顔は出会った頃の面影を残しながら、少しばかり変化している心地がした。彼も私と同じで、歳を取ったのだろう。


「あのさ」

 塁人に声を掛けられて、私は首を傾げる。

「どうかした?」

 彼は柔らかく微笑って、また口を開いた。


「なんか、悩みとかあるのか? 別に、話したくなかったらいいんだけど」

 私はほのかに、目を見張った。


「……どうして?」

「前さ、加耶、夕ご飯のとき泣き出したじゃん。だから、なんか悩んでんのかなと思ったんだ。平日は仕事が忙しくて中々聞けなかった、ごめん」

「……謝らなくていいわよ。別に、何でもないから」

「本当に?」


 茜音の姿を見ながら、私たちは会話をする。塁人のこういうところが、私は好きだった。大雑把に見えて、意外と細やかな優しいところがある。

 だからこそ、話すことはできないな、と思った。


「うん。気にしてくれてありがとう。でも本当に、大したことじゃなかったの」

「まあ、それならいいんだけどな」


 私は頷いて、でも一つだけ質問をしてみようと思う。


「……塁人って、死にたいとか思ったこと、あるの?」

「え、いきなりどうしたんだ?」

「少し気になったのよ。貴方って私の前では、いつも元気そうだから」

「まあ僕は元々、元気寄りの人間なんで」


 そう言ってから、塁人は懐かしむように目の形を細めた。


「すごく落ち込んだとき、僕が死んだら世界はどうなるんだろう、って考えたことはある。そのとき、思った。多分、仲良い人たちはすごく悲しんでくれるだろうなって」


 そこで一拍置いて、塁人はきれいに微笑んだ。


「そのあとで、思った。でも僕が生きていれば、仲良い人たちを笑顔にできるって。悲しませるんじゃなくて、笑顔にしたいって思った」


 ――笑顔にしたい。

 私はその思いを、とても尊いことだと感じた。

 やっぱりこの人は素敵な人だな、と素直に思うことができた。


「へえ。すごく美しい考え方だと思う」

「はは、ありがとな」


 塁人が感謝を述べたのとほぼ同時に、茜音がとたとたと戻ってくる。


「ねえねえ、あかね、おすなばいきたい!」

「おっ、いいぞいいぞ! 皆で行こう!」

「うんー!」


 二人の笑顔を見ながら、私は思う。

 私もずっと、この人たちに、笑っていてほしい。


 それは多分、とても難しい願い事なのだろうと、わかっていた。


 *


 深夜、塁人と茜音が寝静まったあとで、私はベランダに出る。

 遠くの空に、月が浮かんでいる。ほんのりと淡く白いそれを、私は暫くの間見つめていた。

 やがて私は、口を開く。


「……アマノ」


 そっと、彼の名前を呼ぶ。


「いるんでしょ」


 どうしてか私は、確信していた。

 背後から、こつり、こつりという足音が響いてくる。

 私はゆっくりと振り返る。

 漆黒の髪。夜の濃さを混ぜ合わせた、淡い紫色の瞳。



「……また会いたがってくださるなんて、嬉しいです」



 アマノはそう言って、冷たく微笑う。

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