第2話 家族

 家への道を辿りながら、私はちらりと少し後ろにいるアマノの方を見る。彼は視線に気付いたようで、うっすらと微笑んだ。


「……アマノの」


 小さな声は彼の耳に届かなかったようで、アマノは「何ですか?」と言って首を傾げた。私は立ち止まって、アマノの方を向く。


「アマノの言葉は、本当なのかもしれないわ。私の命はあと、一ヶ月なのかもしれない」

「わかって頂けたようで、何よりです」

「でも」


 私はアマノを睨むように見た。そんな私の目付きを、アマノは涼しげな顔をしながら眺めていた。


「貴方は私にそれを言って、どうするつもりなのよ……!」


 両手を握りしめながら、私は彼に言った。皮膚に爪が食い込んで、少しだけ痛かった。

 アマノは困ったように微笑んだ。


「別に、どうするつもりもありませんよ。俺が伝えたかったから、伝えただけです」


 苛立ちと絶望が自分の中に混ざり合って、よくわからなくなっていく。私は震えた声で、アマノへと尋ねた。


「もしかして……嫌がらせ?」


 アマノは何も答えない。肯定も否定もせずに、私のことを見つめている。

 その沈黙を、認めているのだと解釈した。この気持ちを何かにぶつけたくて、近くにあった小石を蹴る。からんからんと音を立てて、転がっていった。


「ひどい」


 自分の声が掠れていたから、傷付いているんだとわかった。


「ひどいよ……」


 アマノは私から視線を逸らす。彼の真っ黒な髪が、吹いた風にさらさらと揺られている。

 私は彼に背中を向けて、呟くように口にする。


「もう、私の前に姿を見せないで」


 そのまま、歩き始める。少し経って、結局振り返ってしまう。でももうそこには、最初から存在などしていなかったかのように、アマノの姿は消えていた。

 私は暗い気持ちのまま、再び歩き出した。


 *


 居間のテーブルに突っ伏しながら、ぼうっとしていた。

 たまに顔を上げて、壁に掛けられているカレンダーを見る。九月二十七日。心はそのまま、一ヶ月後の日付けを導く。十月二十七日。その日に、私は――


 やがてインターホンの軽やかな音楽が、部屋の中に鳴り響く。私はむくりと起き上がって、扉の方へ向かう。


 扉を開けると、そこには茜音の姿がある。黄色い通学帽子の下で、二つのお団子にされた焦げ茶色の髪が覗いている。くりっとした丸い瞳が、私のことを見ていた。

 茜音はへらっと笑って、小さな体躯でぎゅっと私のことを抱きしめた。


「ただいまー、おかあさん!」

「……おかえりなさい、茜音。学校は楽しかった?」

「うん、すごくたのしかった! あのね、きょうね、せんせいがね、」


 茜音は舌足らずな口調で、満面の笑顔を浮かべながら話し始める。小学一年生の茜音は、学校のことが大好きだ。先生のことが、友達のことが、大好きだ。


「あかねのこと、ほめてくれたの! あかね、じゅぎょーでちゃんとてをあげるんだけど、それがね、えらいって!」


 そんな日常の話を聞いているだけで、私の目には涙が浮かんでくる。私は茜音の背中にそっと手を回す。温かくて柔らかな、娘の身体。


「……おかあさん?」


 茜音の声がする。私が何も言わないから、きっと心配になったのだろう。だから私は、哀情を振り払って口を開く。


「そうだったんだね。よかったね、すごいよ、茜音」

「えへへー」


 私は茜音のことを抱きしめながら、ゆっくりと呼吸を繰り返して、涙を心のどこかに仕舞い込んだ。


 *


 居間で料理をしていると、がちゃりと鍵の音が響く。スケッチブックにお絵描きをしていた茜音は、その音に気付くと、とたとたと玄関の方に向かっていく。


「おかえりなさいー、おとうさん!」

「おお、ただいま、茜音。今日も元気いっぱいそうで何よりだ」

「うん、あかね、げんきだよー!」


 廊下から足音がして、居間の扉が開く。茜音のあとで、塁人が入ってくる。

 スーツに包まれている、背の高い身体。真ん中分けにされた、短めのつんつんした黒髪。細いフレームの眼鏡は、いつ見てもよく似合っている。

 塁人は私を見て、微笑んで口を開いた。


「ただいま、加耶。今日も一日、お疲れさま」

「ありがとう、塁人。貴方こそ、お仕事お疲れさま」

「恐縮です」


 塁人は笑ってそう言うと、洗面所の方に歩き出す。茜音はそんな彼のことを、「おとうさん、まってー」と言いながら追いかける。やがて洗面所の方から、二人の笑い声が聞こえてくる。


 私は食卓に、色とりどりのおかずと三つのオムライスを並べる。やがて着替え終わった塁人と茜音が戻ってきて、夕ご飯の時間になる。

 塁人はオムライスを食べると、顔を綻ばせる。


「美味しい。やっぱり加耶は、料理が上手だよな」

「そうかしら? どうもありがとう」

「あかねも、おかあさんのオムライス、すきー!」

「流石茜音、この美味しさがわかるようでお父さんは嬉しいぞ」

「えへへ」


 ああ、幸せだ、と思った。

 ……幸せだと、思ったはずなのに。


 今日出会ったアマノの言葉が、死への予測が、冷たい笑顔が、頭の中でいっぱいに主張して、離れてくれない。忘れたいと願えば願うほど、忘れられなくなっていく。



 その日に、貴方は死にます――



 その一言が纏わり付いて、初めは嘘だと願ったそれは、きっと変えようもない真実で。

 滲んでしまった視界は、もう元に戻ることがなくて。


「……加耶?」


 塁人の声がして、泣いちゃだめだと思えば思うほど、涙は溢れてしまう。さっき、仕舞い込んだはずなのに。私は口角を歪める。


「どうしたんだ、加耶? 何かあったのか?」

「おかあさん、どうしたの……?」


 二人の優しい声がする。私は嗚咽を漏らしながら、精いっぱいの笑顔を貼り付けた。


「何でもない。本当に、何でもないの……」


 塁人と茜音は、心配そうな面持ちを浮かべて、私のことを見ていた。


「ちょっと、疲れちゃってるみたい。だからそんなに、心配しないで……」


 私はそう言いながら、洗面所の方に向かった。


 *


 流水で涙を洗い流して、私は顔を上げた。

 鏡に自分の姿が映っている。染めていないけれど元から茶色がかっている、長い髪。つり気味の目は、泣いてしまったためか赤く腫れぼったい。


 こんなんじゃだめ、と私は思う。私がこんな調子でいたら、塁人と茜音だって沈んだ気持ちになってしまう。

 今日の出来事を、二人に話そうとは思えなかった。信じてもらえるかもわからないし、何より不安にさせてしまう。


 だから、隠し通そうと思った。


 全て大丈夫なふりをして、過ごしていこう。私はひとまず、そう決断した。

 私はゆっくりと頷いて、洗面所をあとにした。

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