ネリネの足跡

汐海有真(白木犀)

第1話 邂逅

 家の鍵を閉めて歩道に出ると、見慣れない男性が立っていた。


 歳の頃は二十代前半くらいに見える。怖いくらい、端正な顔立ちをした人だった。さらりと伸びた黒い髪に、どこか現実離れした淡い紫色の瞳。

 耳には幾つもの銀色のピアスが付けられ、黒いシャツの隙間からはきれいな鎖骨が覗いている。グレーのスラックスは、すらりとした足を包んでいる。


 男性はガードフェンスにもたれかかって、腕を組みながら私のことを見ていた。目が合うと、彼は夜明けのようなうっすらとした微笑みを見せた。そして、口を開いた。


「こんにちは、染谷加耶そめやかやさん」


 冬の水のような冷たい声音で、彼は私の名前を口にした。

 驚いて、瞬きを繰り返した。私はこの人のことを、知らないはずだった。でも向こうは、私の名前を知っていた。


 どこかで会ったことがあるだろうか、と思う。でも、こんな珍しい目の色をした人に見覚えはなかった。私は考えを巡らせる。けれどその思考は、長く続かなかった。彼がまた、話し始めたからだ。


「突然で申し訳ありませんが、一つ残念なお知らせです」


 男性は口角を上げて、柔らかな声音で私に告げた。



「今からちょうど、一ヶ月後。……その日に、貴方は死にます」



 私はその言葉をすぐに理解できなくて、ただゆっくりと呼吸を繰り返す。

 少し遠くを走っている車の音だけが、世界に響いていた。


 *


 七年前、私が二十四歳だった頃。

 二つ歳上の塁人るいとと結婚して、私は彼と家族になった。

 それから一年ほど経って、一人の娘――茜音あかねが生まれる。


 幸福な三人家族だった。たまにすれ違ってしまうこともあったけれど、それでも私たちは、上手くやってきたと思う。

 順風満帆だと思っていた。

 このまま全てが、丁寧に優しく移ろっていくものだと、そう信じて疑わなかった。


 *


「……質の悪い冗談は、やめてください」


 私は目の前に立っている男性を睨みながら、そう伝えた。

 男性はうっすらと笑って、ガードフェンスから身を離す。それから少しずつ、私の方に歩み寄ってきた。


「俺が嘘をついていると思っているんですか?」


 淡い紫色の双眸に見つめられて、私は視線を彷徨わせる。彼はにやりと笑って、それじゃあ、と言った。


「ちょっと付いてきてください。いいもの、見せてあげますよ」


 男性はそう言って、すたすたと歩き出す。私はどうしようかと躊躇った。知らない人に付いていくのは、少し怖かった。

 でもそれよりも、知りたいという気持ちが強かった。会ったことなどないはずなのに、彼は私の名前を知っていた。その違和感が、中々拭えなかった。


 私は遠ざかっていく彼の背中を、小走りになって追いかけた。男性はそっと振り向いて、にこやかに微笑んだ。


「アマノ」

 その三文字を、彼は告げた。

「俺の名前です」

 私は恐る恐る、頷いた。


「……アマノ、さん」

「さん、は付けなくていいですよ。アマノって呼んでください。敬語も使わなくて結構です……まあ俺は使いますけれど」


 彼――アマノはそう言って、再び前を向いて歩き出した。


 *


 駅前の広場は、人でごった返していた。アマノは煉瓦でできた花壇に腰を下ろして、足を組みながら人の往来を眺めていた。私は彼の近くに立ちながら、その様子を見ていた。


「……ねえ、アマノ」

「何でしょう?」

「いつまで、この場所にいるの?」

「目的の人が見つかるまでです」


 アマノは私を見上げながら、うっすらと笑った。その美しい顔立ちが見せる笑顔は、どこか夜を想わせるような昏さを含んでいた。


 私とアマノは、それから暫くの間話さずにいた。喧騒の中で、私たちの静寂はどこか際立っていた。


「あ、あの人なんてちょうどいいですね」


 アマノは突然そう言うと、すっと立ち上がって歩き出した。私は驚きながら、彼に付いていく。アマノはすっと前方を指さした。


「あちらに、小太りの男性がいるでしょう? 髪は短めで、紺色のスーツ姿の」

「うん、いるけど」


 頷いた私に、アマノはどこか楽しそうに微笑んだ。



「あの男性、一時間後に死ぬみたいですよ」



 世間話をするかのように告げられて、私は少しの間、息をするのを忘れてしまう。

 少しして、私は首を横に振った。


「……そんな訳、あるはずないでしょ」

「そう思うのなら、一時間ほど彼を追いかけてみましょうよ。そうすれば、俺の言葉が真実だってことがわかると思いますよ」


 そう言って、アマノは私に笑いかける。その軽薄な笑顔が、私の心を波打たせる。


 私は前を見る。男性は私たちに気付いた様子もなく、すたすたと歩いている。彼は間違いなく生きているのだと、見るだけでわかる。


 もし本当に、あの男性が死んでしまったら……


 その未来がもたらすであろう残酷な結果を想いながら、私は歯を噛みしめて、アマノと横並びになって歩いた。


 *


 腕時計を確認する。もうすぐ、一時間ほどの時間が経とうとしていた。


 男性は交差点に立っている。私とアマノはその十数メートル後ろで、彼のことを見守っていた。

 男性の様子に、少しもおかしなところはない。ゆっくりと上下する肩が見えた。それは、彼が普通に生きている証だった。証に、違いなかった。


「……アマノ」

「何ですか?」


 私は、アマノの淡い紫色の双眸を見据えた。


「やっぱり、悪戯だったんでしょう? 歳上の女性をからかって楽しかった? そういうの、やめた方がいいと思うわよ」


 アマノは涼しげな微笑を湛えて、口を開いた。


「いいですか、加耶さん? 貴方は、二つ間違えています」


 その微笑みを見つめているだけで、底冷えしていく心地がした。


「……まず一つ目は、俺は貴方より歳下ではないということ。そもそも俺は人間ではありませんし、年齢は百を越えた辺りから数えるのが面倒になりました」


 世界の歯車が段々と、狂っていくような気がする。


「そして、二つ目」


 視界の向こうで、大きなトラックが、見えた。


「俺は貴方に悪戯をしているつもりなんて、ありませんよ……」


 アマノは美しく、嗤った。

 それと同時に、トラックが速度を落とさずに歩道に突っ込んでいった。


 あちこちから悲鳴が上がる。真っ赤な血が車輪の下に飛び散っている。さっきまで交差点に立っていた男性の姿はもう、見えなかった。私は目を見開いて、その光景を呆然と見つめていた。


「ほら――」


 アマノは子どもをあやすように、私へと笑いかけた。



「――本当に、死んだでしょう?」



 私はへたりと座り込んだ。交差点からは、今も人の叫び声が聞こえてくる。


 泣き出しそうになりながら、私はただ地面を見つめて、そんな壊れかけの世界がつくる音だけを聞いていた。

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