男の料理

登崎萩子

手料理を振る舞う意味

 男が私のところへ来るのは、これで三回目だった。

 

 私は今の生活に充分満足していた。

 手首の装置から点滴で水分と栄養を補給するのは、理に適っている。社会に貢献する時間と自分の余暇を手に入れるためには、これが最善だ。

 だいたい、食事に時間をかけられる人間がこの地上に何人いるのだ。

 効率よく仕事をしないと私は捨てられる。価値ある人間でないと生きていけない。

 

 幼い頃はまだ「食事の文化」が残っていた気がする。

 それも遠い昔だ。環境破壊が進んで、安全な食糧を手に入れるのも一苦労だ。


 私の目の前には男が座っている。真っ白な部屋の中にテーブルと椅子が二脚。

 向かい合って座る私達の間には、食べ物がある。

 男が用意したものだった。

 私の鼻は、私の意志とは関係なしに匂いを嗅ぐ。食べ物の匂いを嗅ぐことを忘れたはずだった。私の胃があるはずの場所は、何かを訴えて動く。


 普段は手首から「栄養食」をとる。とはいえ、完全なものではない。そのため、栄養を補うために錠剤を水で飲み下す。

 錠剤には栄養だけでなく、消化器官を維持するために食物繊維が入っている。さらに口や歯の機能を保つために、ゴムのような物を噛む必要があった。

 一日のうち、合わせて一時間もあれば充分だった。何故か、機械ではなかった。そのうち、もっと便利になるだろう。

 

 

 今の世の中、素顔を晒すことは少ない。画面上の私は、美しく完璧に加工される。ただごくまれに、素顔を晒す必要がある。

 今のように。

 

 私が男に会ったのは偶然だった。友人は「外」の世界の記事を書いていた。友人が言ったのだ。

「君の本当の姿をえらく気に入った人がいてね。ぜひ会って欲しいんだ」

 私は会うつもりなどなかった。

「本当の姿」なんて滅多に見せるものではない。友人は、端末に不正に侵入して手に入れたに違いなかった。

「なぜ、勝手なことをしたの。そんな事許した覚えはない」

 画面上の友人は、笑っているのか怒っているのか分からなかった。

「君がこの世界で仕事を得るためには、仕方がない。その人物に会ってくれれば、人々は話題に困ることはない」

 この世界の仕事は、私にはよく分からなかった。

 情報がふらふらと漂っているだけのようなものだ。友人は仕事についてよく分かっているようで、こうして時折私に依頼してくるのだ。

「会って何をすればいいの」

 結局のところ、私にできるのは友人の依頼を受けることだった。

「会えばいい」


 友人の依頼で男に会っていた。しかも三回も。

 一度目は、男が本当の姿を見た感想を話した。男は一目見て気に入ったと言った。どこが、と聞いても、すべてとしか答えなかった。画像一枚で私に会いたいと思うとは、変な男だ。画像を見たなら、会ったも同然だというのに。

 

 二回目は私の暮らしぶりを尋ねてきた。そのままを答えた。仕事をして、寝て、映画を体験して寝る。その繰り返しだ。今は映画ですべてを体験できる。


「あなたのために食事を用意しました。どうか召し上がっていただけませんか」

 男の声は私の耳に響いた。召し上がるとは、久しぶりに聞いた。いつもは管を手首に挿すのだから、召し上がったりはしない。

 

 男が用意したのはおにぎりと何かだった。生き物の匂いが残る食べ物は、映像では見た。

「梅干し入りのおにぎりと、豚汁です」

そうか、豚か。この匂いの正体は。点滴や錠剤には匂いも味もない。人々が効率を重視した結果だ。

 

 男は日に焼けて、筋肉もある。ただ、私達の世界のように栄養食や機械で鍛えたものではない。服は一昔前の物で、布を縫い合わせていた。ボタンまで付いている。

 この男のことは全く知らないのに、私は素顔を晒して実際に会っている。それなのに、なぜか不安にならなかった。何も手が加えられていない眉や、目尻に浮く小さな皺も気にならなかった。

「あなたの分はないんですか」

 男の作った物が安全か分からないので、同じものを食べてほしかった。

「食糧は貴重なので俺の分はありません」

「そんな貴重なものを、なぜ私に食べさせようとするんですか」

 男は黙って口の端を柔らかく上げた。テーブル越しの笑顔は静かだった。私は諦めた。


 一口食べてみる。口の中に入れた途端、米の食感に驚く。異物を出したくなるが、そんなことはできない。この世界にも不作法はある。

 恐る恐る、奥歯で噛んでみる。ぐにゃっとつぶれる不快を我慢する。いつもは噛まずに飲み下すのだ。でも今だけは味わってみたかった。

 男は私になぜ料理を作ったのか知りたい。

 

 少しずつ口に運ぶと、私よりも体の方が食事を思い出す。口を動かし、食べる。梅干しは痛い。すっぱいどころではない。それでも塩味を思い出すと米をさらに食べる。男は何も言わず微笑んでいた。

 

 豚汁は野菜から食べる。箸ではなくフォークで刺す。透き通った大根、赤い人参、そしてこんにゃく。豚の匂いが辛かったが、やはり後から味がする。肉は噛みきれない。硬かった。いつまでも噛んでいる訳にもいかず、水で流し込む。


 「おいしいですか」

 男が問いかけてきた。私は男を見返すことが出来ず、食器に目を落とした。


 男が用意したのは『私のための食事』だった。


 もう薄くなってしまった記憶の中で母が笑う。確か母も言っていた気がする。「おいしい?」

 

 私がぼんやりしていると男が隣に立っていた。

「俺と外の世界へ来てください」

「なぜ」

「あなたがいれば、俺は幸せだからです」

「ずいぶん勝手ね」


 男は、私を子供を産む道具にしたいのかもしれない。

「外の」世界はそうやって続いてきた。

「あなたは何もしなくて大丈夫ですよ」

 男の言うことは信じられなかった。何もしないのは価値がない。


「俺が嘘をついたときは、ここへ戻ってくればいい」

 そんな簡単にいくだろうか。この世界にいれば快適で何も不自由しない。私には外へ行く理由なんて一つもない。

「何も間違わず、便利な暮らしはつまらない」

 私はどうなのか。

 いくら友人に仕事を依頼されても、断ることだってできたはずだ。


「本当の姿」は他人に見せるものではない。男に会うと決めたのは私自身だった。

「でも毎回食事をとるなんてできない」

 今まで手首から栄養を摂っていたのに、食事を作ることなんてできるのだろうか。

「二人でならできますよ」

 

 男は軽く言って、私の手をとった。私は席を立ち、男と二人で部屋を出た。

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男の料理 登崎萩子 @hagino2791

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