第2話
最初に情報を受け取った感覚は嗅覚だった。いつも家に漂っている廃れた畳の匂い。しかしそのなかに時より感じる甘く柔らかい匂い。おそらく俺は家にいるのだろうが、この甘い匂いになじみはなかった。
次に聴覚。コツコツとリズムを刻みながら板の上で何かがぶつかる音。まるでまな板と包丁で食材を切っている音だ。包丁って料理に使う道具だよなぁとしみじみと思った。
「あら、起きたの? 休日だからって起きるの遅いわね」
次に視覚。窓から流れ込む光は俺の目に直接朝を訴える。あれ、俺昨日カーテン閉めてないのか。あと妙に部屋がすっきりしている気がする。
「おはよう。勝手に上がらせてもらっているわ」
最後にラブコメセンサー。いわゆる朝起きたら美少女が料理を作っている図、だ。これは定番すぎて説明はするまい。全男子の夢だ。さて、こんな妄想は止めてさっさと起きないと…。
「ん? 現実?」
目の前では見覚えのある制服を着ている黒髪の女子が台所に立っていた。なんど目をこすってもその景色は変わらない。
「朝ごはんできたわ。机を用意してくれる? この家にあるのか分からないけれど」
「あ、はい。たしか棚の横に折り畳みのが…」
四つの脚が折りたたまれている簡易的なテーブルを取り出す。この机を使うのも友達が遊びに来たくらいの時でほとんど使っていない。設置したテーブルの上を布巾で手際よく吹いて料理を運び込む謎の少女。っていや誰なのかは知ってはいるんだけど。
「ではいただきましょう。お味噌汁は私の自信作よ」
「いやちょっと待てぃ、なんてベタなツッコミは言いたくないんだけどさ。すぐに気づかない俺も悪いんだけどさ。その、おかしくない?」
「そうね、野菜がきんぴらしかない。これでは栄養のバランス悪いわ。昼はちゃんと買い出しに行きましょう」
「いや、そうじゃなくて。俺は一汁三菜とか気にしないから。なんで昨日殺そうとしてきた人が翌日の朝にご飯を作ってるのか、説明がないんだけど?」
目の前にいる少女は紛れもなく昨日の殺人鬼、綾瀬日和だ。昨日俺の家に突然現れて、告白して、殺そうとしてきたトンデモ少女だ。ただその容姿に関しては誰も文句のつけるところがないほど整っており、顔のパーツ一つ一つに魅力が詰まっている。
なぜこんな神の造形物のような人間が昨日の奇行を犯すのか不思議でならないが、今この状況を解説できるのも当の本人だけなので、ちゃんとした会話ができてほしい。
「…俺もしかして殺された? 最近の天国っていうのは家の光景を映し出すのがトレンドなのか?」
「あら、ここが須藤君の天国だとしたら、その中に私がいるのは光栄なことね」
「じゃあ地獄か」
「地獄の果てまで須藤君と一緒に過ごせるなんて光栄なことね」
つまり殺されていないわけだ。昨日の記憶はあいまいだが、確かに刺された覚えはない。しかしそうなると彼女は殺しもせずに俺をここまで運んだということなのか?
「いいわ、知りたそうだから教えてあげる。昨日の夜、私が襲う直前で須藤君は私の愛情にあてられて意識を失ったわ」
「愛情じゃなくて恐怖、脅迫、狂気な」
「流石にちゃんと答えを聞いてないのに殺すわけにもいかなかったから、仕方なく須藤君の家に収容したまでよ。感謝して欲しいわね」
「今のどこに感謝が?」
「それで須藤君が起きるのをただ待つのも暇だから、ご飯を作ってあげようと思って、深夜でスーパーは開いてなかったからコンビニに行ったのよ。最近のコンビニは野菜も売ってるのね、便利だわ」
「いつもお世話になっております」
「それで今に至るということよ。分かったかしら」
彼女は俺の答えを聞くために殺さずに待っていたということか。しかし、それでは辻褄が合わない。何故なら…、
「でもお前、昨日の夜はどちらかと言えば殺しに来てたよな。答えを聞かずともまさしく問答無用で刺そうとしていた」
今綾瀬日和が言ったことが本当ならば、明確な答えを聞かない限り殺しはしないということだ。しかし昨日の彼女は間違いなくそんなことを考えてはいない。つまり、状況が違うのか心境の変化があったのか、それを知らなければ明日の俺の命はない。
「須藤君がどうしても知りたいというのなら教えてあげてもいいわ。でも…、たとえ教えたとしても、私を好きになっては、くれないでしょうね」
そうつぶやく彼女の姿はさっきまでの余裕のある態度から一転、独り物悲しい雰囲気をまとっていた。
「…別に嫌なら言わなくてもいい」
「いいえ、言うわ。須藤君にここまでしてしまったのなら言わないといけない。隠そうとは思ったけど、それはフェアじゃないわ」
意を決した彼女の表情は初めて見る真剣な表情だった。
「私、生まれついた時から強い殺人衝動があるのよ」
「……」
ひ、ひぇ…。恐ろしい。…でも堂々とそんなことを口に出すのは勇気がいる。彼女はそれを加味したうえで殺人衝動なんて強い言葉を使っているのだ。
「人の顔を見ると、なぜか暴れたくなる衝動が生まれるのよ。その人を壊してあげたいってね。今までは何とか抑えてきたわ。あまり人とは関わらないようにしてきたし、衝動を紛らわせるために、勉強や家事に熱中してきたわ。おかげでなんとか人を殺さないで済んだわ」
淡々と語る彼女の眼には今までの苦悩、懊悩が映し出されていた。それは彼女にしか知らない物語があるのだろう。
「でも、ついに昨日で均衡は崩れたわ。須藤君に出会ったが最後、私は私ではなくなった。思考は須藤君のことしか考えられず、行動は須藤君を殺すため、私の中のすべてが須藤君に染められていった。あなたのせいよ? 責任取ってもらうんだから」
重い話の中でボケを入れてくるな。反応しにくいだろ。いや彼女にとってはボケでもないんだろうけど。
「今は少し落ち着いてるわ。倒れた須藤君を見て正気が戻ったと思うけれど、須藤君が起きたことでまたちょっとヤバイ感じね」
「ヤ、ヤバイとは…?」
「背中の後ろに包丁を隠して準備してるくらいには」
「…かなりヤバイやつですねソレ」
普通に話しているつもりでも実はヤバかったのか。やっぱりこいつといるのは身の危険ががっつり伝わってくる。むき出しの殺意は本当に震え上がるほど怖い。
しかし俺は答えを出さなければならない。この綾瀬日和という少女と付き合うのか否か、またはどちらでもないか。
「答えを出す前に質問なんだが、例えば俺がここから逃げたら追いかけるつもりはあるのか?」
「距離によるけれど日本の中なら一日あれば絶対見つけ出すわ」
そう言うことが聞きたいんじゃないだがまあいい。
「例えばお前はいつか俺のことを諦めてくれるか?」
「何とも言えないわ。あなたへの好意が尽きたらもしかしたらあるかもしれないわ。宇宙人を見つけるくらいの確率ね」
ならば彼女から逃げる意味はない。逃げたとして追いかけられるのならば、もし諦めてくれる可能性があるのならば、俺のとる行動は一つ。
「それで、須藤君はどんな答えを聞かせてくれるのかしら?」
「答えは出せない。だが俺はお前の根本的な原因を解決する。簡単なのは俺への好意をつぶすことだ。そうすればお前は俺を襲わない。もしくはお前の殺人衝動を完全に抑える。こっちは出来るか分からないがな」
「……」
言われた黒髪美少女は唖然とした表情としたこちらを見ている。いや、ちょっと格好つけて宣言したのが恥ずかしくなってきた。もう少しなんか反応が欲しい。
「…あの、綾瀬さん?」
「……っっ、……うっっ…」
俯いた彼女からは表情はうかがえないが、胸を時々つまらせながら短い呼吸を繰り返している。それが嗚咽だと分かったと同時に、彼女の座っている畳が水を吸収していく。だが俺にはその水滴の理由は分からない。
「…なんで、そんなこと、言うの?」
かすれた喉からこぼれた言葉。彼女の期待していた言葉とは違ったのだろうか。しかし、俺は俺の安全のために言っただけで、それ以上の理由なんてない。
「もしかしたら、あなたを殺すかもしれない。それなのに、なんで助けようとするの?」
「それは誤解だな。俺は俺のためにそういってるんだ。そもそもお前みたいな殺人鬼に恋愛だのラブコメは向いてねえよ。俺が助けようと思うのはもっと純真無垢でかわいい系のヒロイン…」
「つまり私ね。ありがとう須藤君…」
「…お前拡大解釈が好きなのか? 頬を赤らめてこっち見るな、お前じゃない」
なんだかこいつの話のテンポはどこかズレている。というか自覚あるだろうから余計に面倒くさい。
「ああもうとにかく、お前はお前で殺人衝動を抑えつつ、俺はお前の好感度をガンガン下げまくる。頼むぞ綾瀬、俺も速攻で嫌われるように頑張るから!」
「須藤君は嫌われる自信があるようだけど無駄骨よ? 私の愛情はそう簡単に揺らがないわ。大人しく殺人衝動を抑えるように策を練ったほうがいいわよ」
「いや、今まで生きてきた中でリミッターが外れたのは俺だけなんだろ? なら再びリミッターを掛けるまでだ。お前こそ包丁研いで待ってるんだな」
「ちゃんとした包丁を研ぐには資格がいるわよ。つまり資格を取るまでの間長い時間俺と一緒に居ろ、という遠回しなプロポーズなのね」
ダメだ。こいつはろくに話を続けられない病気にもかかっているのだろうか。それもそのうち治そう。
「まあなんだ。そういうことだから、俺を嫌うまでよろしくな」
「ええ、これからよろしくね。須藤君!」
こうしてヤンデレ殺人鬼の矯正が始まった。
「嬌声はあげないわよ」
「黙ったとけ」
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