小さなラウドを、助けることができるか?

 客として一度入っているので、屋敷の構造は分かっている。ロボは意外にあっさりと、第三王子の本拠地へと侵入できた。


 おそらく第三王子は上の部屋で宴会を催しているのであろう、屋敷中に響く笑い声を背に、地下へと向かう。囚われ人の扱いが酷い第三王子のことだから、獅子の痣を利用して陰謀に使う人物すらじめついた地下牢に閉じ込めておくだろう。その予想の許に、ロボは地下牢の頑丈な金属扉の一つ一つに耳を当てた。……いた。扉の一つから、小さな荒い息づかいが確かに、聞こえた。


 逸る気持ちを抑えつつ、扉の下部に付いている食事差し入れ用の小さな上げ扉を上げる。微かに明るい闇の中、既にロボも経験済である、暗い意志を持った靄のようなどす黒い闇が小さくうごめいているのが、ロボの目にもはっきりと映った。おそらく、あれだ!


「ラウド」


 屋敷にいる人々に気付かれないよう、小さな声で呼びかける。だが、闇の塊は微動だにもしない。


「ラウド!」


 今度は、他の人を気に掛けない声で、叫ぶ。すると。黒い靄に覆われた塊が、ごそっと動くのが、見えた。


「……貴方は」


 か細い声が、ロボの耳まで確かに届く。


「ラウド! 動けるか? こっちへ来い!」


 腕しか入らない、小さな隙間から懸命に叫ぶ。ロボのその声に励まされるように、黒い靄が纏わり付いたラウドの小さな身体はゆっくりと、冷たい石床を這ってこちらへと向かって来た。だが、纏わり付いた『悪しきモノ』に体力がかなり削られているのか、小さな身体がロボの腕が届く場所まで来るのに時間が掛かる。今、この瞬間に、誰かが、第三王子の部下達がここへ来てしまったら。焦りが、脳裏に浮かぶ。上がりそうな息を何とか整えると、ロボは左手の皮膚を強く噛み切った。古き国の騎士ならば、見習いでも、その血で『悪しきモノ』を祓うことができる。それは、成長したラウドで証明済み。だから、この小さなラウドに絡み付いている『悪しきモノ』も、ロボの血で祓えるはずだ。左腕に走った痛みを押さえつけると、ロボはやっと扉の近くまで這って来たラウドの華奢な身体に血の流れる左手を押しつけた。


 辺りが暗過ぎて、『悪しきモノ』がちびラウドの身体から離れたかどうかを俄には判別できない。暗闇に目を凝らしてやっと、ラウドの背中に当てているロボの左手部分の闇が薄くなっているのが分かり、ロボはほっと息を吐いた。


「反対を、向いて」


 小さな声で、そう、指示する。ロボの指示通り、ラウドは気怠そうに身体の向きを変えた。その動きで見えた、ラウドの閉じかけた瞳の光に、息が止まる。これは、……『悪しきモノ』だけでも、早く祓ってしまわなくては。急いた気持ちが、蘇る。誰か、ルージャにでも、付いて来て貰えば良かった。いや、ルージャもレイも消えてしまっている。頼れるのは、ロボ自身だけ。泣きそうな気持ちを抱えたまま、ロボは血の止まった左手の皮膚を再び噛み切り、流れた血をラウドの身体に擦り付けた。


 その作業を、どのくらい続けただろうか。やっと、目を凝らさなくとも黒い靄がラウドの周りから消えたと判断できるようになる。


「良かった」


 ロボはほっと息を吐いた。後は、第三王子に再び『悪しきモノ』を押しつけられる前に、ちびラウドをここから脱出させるだけ。兵達の詰所か何処かに、鍵ぐらいあるはずだ。楽観的にロボはそう考え、立ち上がる前に牢の中のラウドに声を掛けた。


「すぐ、戻ってくるからな。待ってろ」


 しかし。ロボの左手に触れるラウドの身体の冷たさに、戦く。


「ラウド?」


 その小さな身体を強く揺すっても、慣性のままに揺れるだけ。……まさか。考えたくない結論に囚われ、ロボは無意識のうちに自分の左手をラウドの身体から離した。


 パタン。小窓の上げ蓋が閉じる音に、我に帰る。ラウドの様子を再び確かめる勇気は、ロボには無かった。


 息が、できない。助けられなかったことに対する自分への怒り。小さな子供が命を落とす理不尽さ。そしてその原因を作った『悪しきモノ』と第三王子に対する怒りが、ロボの全身をわなわなと震わせていた。第三王子には、手出しができない。古き国の者が新しき国の王族を殺してしまうと、互いの国が持つ蟠りが大きくなり、無用な争いが起こることになると、レイは言っていた。だが、他人を自分の為に利用しようとし、頑是無い存在を苦しめる権利は、誰にも無い。だから。


 高く笑う第三王子の声が、再びロボの耳に入ってくる。ロボはゆっくりと立ち上がると、腰の剣を抜き、地上への階段を一気に登った。おそらく皆、第三王子の祝杯のお零れに預かっているのであろう、屋敷内には人の気配は無く、抜き身の剣を持って走るロボを咎める者は誰もいない。


 一度訪れたことのある、第三王子の執務室の扉を開けると、野卑な笑い声が急に大きくなる。突然の侵入者に唖然とする第三王子の無防備な胸に、ロボは手にした鋭い切っ先を叩き込んだ。


 第三王子の手から落ちたグラスが、石の床に落ちて粉々に砕ける音が、遠くに響く。ロボは冷めた目で、床に頽れた第三王子の、刺された胸を押さえてひゅうひゅうと呻く身体がその動きを止める様子を見詰めていた。事の展開に呆然としているのか、第三王子の手下は誰も、主人を殺したロボを捕らえようとしない。ロボ自身も、第三王子の斃れた身体の傍から動けない。


 と。動きを止めたはずの第三王子の身体が、急に勢いを付けて起き上がる。


「なっ」


 ロボが戸惑うより早く、第三王子は素早い動きでロボの首に手を掛け、ロボの首を強く締め上げた。第三王子との体格差で、身体が浮かび上がるのが分かる。意識が急激に遠のく様を、ロボは何故か他人事のように感じていた。次の瞬間。ロボの身体を激痛が走る。床に尻餅をついたことにロボが気付いた時には既に、ロボの足下に第三王子の首が転がっていた。そして、血の付いた剣を手に、ロボの傍らに立っていたのは。


「ラウド?」


 信じられない思いで、その人の名を呼ぶ。ラウドは全てを見通したかのようなその灰色の瞳でロボを優しく見、そして一瞬で、煙のように掻き消えた。

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