第6話 病気
私の今の生活が苦しいのは、勤務先の業績が悪化したことによって、ここ7、8年給料も上がらず、冬の賞与は減り、夏の賞与に至っては3年も出ていないのが理由である。ピーク時の年収から150万円はダウンしている。
それに加えて、結婚当初は共働きで、妻は正社員で年収400万円ほどあったが、病気により退職し、0円となり、その後、障害年金が2か月に1度受給できることになったものの、微々たる額でしかなかったことも原因である。
妻の病気は所謂「うつ」である。
所謂「うつ」としたのは、うつ病ではなく、神経症のうつ症候群と言われるもので、神経症にもパニック障害や不安障害など色々あって、その症状がうつ病の人と同じ症状を出現させているから「神経症うつ症候群」なのである。本来は神経症と言うべきであるが、説明も面倒なので身内には単に「うつ」と説明している。
妻は物事を白か黒か、人を好きか嫌いか、敵か味方かと捉えており、私のようにグレーな事が当たり前、物事に妥協点を見つけて解決する、長いものには巻かれる、人とは付かず離れず適当に付き合うということは許されない性格であった。
職場でも人の僅かな言動や些細な行動を気にし、対人関係にもよく悩んでいた。
妻が30代の後半のことであった。
朝起きると身体が動かない。
頭痛がする。
眩暈がする。
冬なのに暑がったり、夏なのに寒がったりする。
些細なことで気が狂ったように怒る。
過去のことを思い出して泣きじゃくる。
夜眠れない。
寝ても眠りが浅く、すぐ起きる。
眠れないから昼間はボーっとする。
朝起きられないから遅刻や休むことが度々あった。
更年期障害には早いが、自律神経の問題と思い、総合病院の内科や神経科で診察や検査をしてもらったが、器質的に異常は見られず、心療内科の紹介状を貰った。
心療内科ならどこでもいいとのことである。その病院もそうだが、別の総合病院にも心療内科はなく、車で30分ほどの「心のクリニック」と看板が掲げてある心療内科に連れて行った。
町の開業医が手に負えなくなって、総合病院を紹介するのなら分かるが、総合病院からの紹介状で町の開業医に診て貰うのも変な話しである。
心療内科は紹介状を見て、問診をした。医師は私よりも10歳程年上に見えた。
最初に診て貰った総合病院の話しになった際に、総合病院は外科と内科と緊急外来が主で診療内科があるところは少ないこと、以前はこの近くの総合病院で勤務していたことを聞いた。
医師は向精神薬と睡眠導入剤、睡眠薬、頭痛薬、眩暈を抑える薬、胃薬を処方して様子を見るとのことであった。
処方された向精神薬は気持ちを落ち着ける作用のある薬で、さらに頓服で意欲を沸かす作用の薬と、相反するもののようだ。
妻は睡眠導入剤や睡眠薬の効果で夜は眠れるようになった。それに頭痛薬も市販のものよりは良く効いたようだ。眩暈の症状も緩和された。
それでも感情の起伏をコントロール出来ないこともしばしばあって、妻は「消えたい」、「死にたい」、「死んでやる」、嫌いな奴らの名前を挙げて、包丁を手に取り、「そいつらを殺して私も首を括って死ぬ」と、何度も他殺と自殺をほのめかした。
向精神薬は脳内物質の分泌を安定させ、リラックスさせるようなものであるから、日中も睡魔が襲い、とても仕事が出来るような状態ではなかったようだ。朝が起きられず、遅刻をする。仕事も集中出来ない。診療内科に通院しても職場に迷惑をかけていることに変わりはなかった。
それに食後に毎回4錠ずつ薬を飲み、眠る前にもそれとは別に睡眠導入剤や睡眠薬を飲んでいる。冬になると妻は風邪をひいたら職場に迷惑がかかると言い、少し風邪気味になれば市販の風邪薬もよく飲んでいた。副作用が心配になる。
診療内科に通院をしても、症状は一進一退であった。月に1度の通院で問診をし、薬を変えたりもした。
4、5年通院しても症状が改善しないため、医師は妻に入院するか、仕事を辞めるか、休職することを勧めた。
入院は内科などではなく精神病患者を扱う精神科になり、妻はそこまで酷くないからと入院は拒んだ。休職なら病気が良くなれば復職も出来るし、休んでいる間は休業手当も出るし、有給休暇もあるからと言って、妻は半年間、休職することを選択した。
休職期間中、妻は昼間の殆どをタブレットのゲームをし、テレビかYouTubeを見て過ごし、眠たくなったら寝るという子供のような日々を送った。
それでも感情の起伏がコントロールできないことも多々あり、仕事中に携帯電話に泣きながら、「すぐに帰ってきて欲しい」と懇願されることもあれば、激しい口調で「今すぐ帰ってこい!」と怒鳴り散らすこともあった。その都度、私は席を外し、人目のつかないところで、出来るだけ早く帰るとなだめた。
妻は自分自身が喚き散らしたことは覚えており、それにより近所の人達は「私のことを頭のおかしい人と思って避けている」、「隣の部屋の住人も、下の階の住人も、私を変な人のように見ている」と被害妄想も激しくなった。
喚き散らしているのであるから近所の住人が妻を変な人と見るのも仕方がないことだと思う。私も隣の住人が喚き散らして、それが「殺す」だの「死ぬ」だの言っていたら迷惑だし、警察を呼ぶかもしれない。今まで警察が来たことも、マンションからのクレームも無かったことから、近所の人はむしろ我慢してくれているのだと思った。
休職期間もそろそろ終盤になったが、妻の症状は変わらず、一進一退であった。
休職中は休業手当が出るものの、給与の満額ではないし、賞与ももちろんカットされたが、貯蓄もあり、復職するまでのことだと思い、収入の減少は気にもかけなかった。
予定の半年が経ち、妻は復職したが、やはり睡魔、眩暈、頭痛、感情の起伏があった。仕事中はそれらを我慢して何とか耐えていたが、その分、仕事から帰ってきたら、感情が爆発することが増えた。
慣れというのは恐ろしく、最初、妻が死にたいと言ったときは、私が仕事から帰ってくると妻が縊死しているかと不安で仕方なかったが、もう何十回とそのことを聞いていると、今では妻の口癖と思えるようになった。それに包丁を持って殺すと言っても、(また剣の舞いが始まるのか・・・。)と思うようにもなった。
私は子供が居ないことや、妻が働けば家計が楽になること、40歳を過ぎた年齢からも次に正社員で就職することが難しい事から、再度、休職をして、症状が改善したら今の職場に復職するのが最善かと考えていたが、たに半狂乱になる妻の症状、これ以上職場に迷惑をかけられないことともあり、私は退職することを勧め、妻は20年近く働いた職場を去ることを決意した。
退職後は失業保険を受給し、それが終われば障害年金を受給した。妻は仕事を辞めてから、外に余り出なくなったが、障害年金は自分の稼ぎ分であるからと言って、ネットやテレビ通販で買い物をした。私が妻に買い過ぎだと注意しても「私のお金だから」と散財した。妻が通勤で使っていた車も古くなったからと買い替え、退職金も貯蓄も退職後、5年程で底を尽きた。
その当時の私は、まだ夏と冬の賞与もあり、妻が専業主婦になっても何とか生活できると考えていた。
しかしながら、私の会社が業績不振となり、多くの同僚がリストラや早期退職を余儀なくされた。その間、私はずっと宝くじを買っているが、家計の足しになるような額は全く当たらず、赤字はカードのキャッシングで補填している。
ここ3、4年はさらに生活が厳しくなり、たまにする妻との外食も減った。以前は年に1度は温泉旅行に行っていたが、それも無くなり、妻は「あんたの稼ぎが悪いから、病気が治らないのよ!」とよく罵る。たしかに気分転換の旅行や繁華街、ショッピングモールにも連れて行くことはなくなった。
よく、「うつは心が風邪を引いたようなもの、いつかは治る」と言うが、うつ病なら当てはまるのだろうが、元々の本人の性格が原因となった神経症には当てはまらない。
それに、こういった病気はインフルエンザに効くタミフルやリレンザみたいに薬を飲めば治るというものではなく、糖尿病や腎不全と同じで、おそらく一生治らない。
妻が病気になったのは性格が起因しているが、几帳面で融通が効かない人でも病気にならない人は沢山いる。
その人達と妻とは何が違うのだろうか。
妻は思春期に親のお金をくすねて遊び惚けたり、昔飼っていた犬や猫を最期まで面倒をみずに家を出たことを後悔している。それが天罰として病気になったのか。それなら未成年の犯罪者やペットの飼育放棄をした人はみんな病気になるはずだ。
「神様は試練を乗り越えられる人に試練を与える・・・。」馬鹿なことを言うな。日本では毎年3万人も自殺者が居て、借金、病気、失恋、失業、その人たちは試練を乗り越えられていないのだから、神が試練を与えているのなら、与える数が多すぎるだろう。
ころから先、私には薔薇色の人生は待っているのだろうか。会社をリストラになって退職金が入ったら、妻はそれを全部貰って離婚するそうだ。それについては私も同意している。ここ何年も妻に旅行や服や食事など、全くいい思いをさせて上げなかったからだ。
50歳を超えて独身で無職、住宅ローンとカードローンの借金を抱える生活なんて、試練以外の何ものでもない。
神は試練を与える人を間違えている。
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