第4話 犬

 私は犬を飼っている。

 お金を無いやつはいくら犬が好きでも飼うべきではないとつくづく思う。犬が可哀そうである。


 その昔飼っていた焦げ茶の犬はとても大人しく、私になれなれしく懐いたりもしなかったが、どこを触られてもなすがままで、滅多なことでは吠えたりもせず、もちろん歯向かたっりすることも一度としてなかった。

 私はこの犬が大好きであった。亡くなって随分と経つ。


 今は2匹飼っている。

 薄茶の犬はインターホンが鳴ると吠えまくり、ブラッシングをしようとすれば、機嫌が悪ければ本気ではないだろうが、噛もうとして歯向かってくるほどである。おまけにいくら洗っても、顔がすぐに雑巾のような匂いがする。毎週にでもトリミングに出せば、匂いもましになるはずだが、そんな金銭的余裕はなく、3、4か月に1度程度である。それも5000円程かかり、私の散髪代よりも遥かに高い。


 黒い犬はあまり懐かず、抱っこするのも嫌がる。こちらは歯周病のため口臭がひどい。老犬になって、歯も殆どなく、柔らかくて値段の高いレトルトの餌しか食べない。百均の店で買う私の酒のつまみよりも高い。


 私が犬を飼い始めた理由は、マンションのベランダが広く、犬でも飼わないと何か勿体ないなと感じたからである。番犬として飼うなら吠えまくられても迷惑だし、それなら毎月5000円程度でホームセキュリティを頼んだ方が確実である。

 ペットショップで焦げ茶の犬を見かけ、この犬種はあまり吠えないからと言われ、15万円で購入した。


 数年が経ち、私が結婚したら、その犬は妻が好きでよく懐いた。

 妻は、共働きだから昼間その犬が一匹なのは寂しいはずと言って、近くのペットショップで黒い犬を購入し、飼い始めた。

 妻の小遣いとはいえ25万円もしたそうだ。2匹を対面させたら、焦げ茶の犬は匂いをさんざん嗅いだあとは子犬と分かったのか、我関せずと、いつものクッションで昼寝をし出したので喧嘩の心配は消えた。

 黒い犬はメスの室内犬だからとリビングで飼うことになったが、焦げ茶の犬はオスで少し大きく、オシッコシートを外して用を足したら困るということで、前と変わらず留守中はベランダで過ごし、妻が帰宅するまでは室内に入れてもらえなかった。結局、室内外で1匹ずつ飼う羽目になった。

 夏は黒い犬のためにエアコンを入れっ放しにする必要があり、その間、毎月1万円は余計に電気代がかかる上、犬の寂しさは埋められなかったはずである。


 焦げ茶の犬が9歳を過ぎたころ、薄茶の犬を飼い始めた。行きつけのトリマー兼ブリーダーの所で売れ残っていた犬で、店主は1万円でいいと言うので妻が喜んで引き取ったからだ。

 そのおかげで1匹しか飼育が認められていないマンションで3匹の犬を飼うことになった。


 それとほぼ同時期、焦げ茶の犬が痩せてきた。動物病院に連れて行き、レントゲン撮影をしたところ、膀胱に腫瘍らしき物があり、ガンの可能性もあるとのことだった。大きな動物病院で手術をするか、ガンなら放射線治療という手もあるが、それで完治するとは限らないし、費用も相当かかると言われた。9歳という年齢も考えて、余生を看取ることにした。

 焦げ茶の犬は痛みがないのか、吠えたりもせず、痩せたことを除けば、普通に餌を食べ、寒い日はベランダで日向ぼっこをよくしていた。

 その日、私は会社に行っていた。仕事が休みだった妻から焦げ茶の犬が死んだと電話があった。最後は部屋をヨロヨロと歩いていたので死期を察知した妻が抱き上げたところ、2、3回痙攣して、吠えもせずに静かに息を引き取ったそうだ。

 10歳であった。


 やせ細った身体から、しんどかったであろうことは容易に想像がつく。それでも介護されることもなく自分で餌を食べ、排尿をし、飼い主に抱かれて看取られる。

 犬ながらあっぱれな死に様であった。


 焦げ茶の犬が死んで約2年が経ち、黒い犬が8歳になったころ、病気になった。昼夜問わず、蹲ってクンクン、キャンキャンと鳴く。

 獣医に診てもらうと、おそらくこの犬種特有のヘルニアが脊椎にあるのだろうとのことだ。治療するには手術可能な動物病院でないと無理のことで紹介状を貰った。

 手術ができる動物病院にそいつを連れて行った。血液検査、レントゲン、CTを撮るなど何度か検査をした。その度に1万円や2万円の費用がかかった。

 獣医はやはり脊椎のヘルニアで、それが神経を圧迫して痛がっている、手術はそんなに難しいものではないので、絶対とは言えないが、多分大丈夫だろうとのことであった。

 人間相手の医師にしろ、動物相手の獣医にしろ、万が一失敗した場合、揚げ足を取られたくないから「絶対に上手くいく」、ましてテレビドラマのように「私、失敗しないから」なんて言うはずもない。

 しかし「多分大丈夫」と言っているので手術を受けることにした。費用を聞くと30万円程度だとのことであった。

 ペット保険には入っていないため全額自腹である。


「30万円・・・。」

 この犬の購入価格よりも高いではないか。ペットショップに行けば30万円でこいつと同じ犬種やトイプードルやチワワ、ミニチュアダックスなど、元気で可愛い子犬が手に入る。しかし、そんなことは妻の前では口が裂けても言えない。

 しかも、こいつは2歳くらいの時に子宮に炎症を起こし、獣医はこのままなら度々炎症を起こして、最悪死ぬかも知れないと言われ、子宮と卵巣を摘出する手術をした。結果的には避妊手術と同じになったが、その際も5万円程度かかっている。

 金のかかる犬だなと私は思った。

 手術は上手くいった。費用は予定どおり30万円である。カードで支払いをした。


 手術から3日経ち、黒い犬は退院した。まだ歩いたりは出来ないが、痛さで鳴くことも無かった。獣医はしばらく酸素室に入れた方がいいと言っていたので、犬用の酸素ケースをレンタルした。初期費用1万円で1か月約1万円である。

 高いな・・・と思ったが、妻に値段は関係なかった。

 手術から3週間が経ち、黒い犬はクンクンと鳴きもせず、走り回ったりはしないものの、以前のように歩き回れるようになった。私はすぐに酸素ケースを解約した。

 それから何年かたち、手術費用の分割払いもようやく終わり、黒い犬はすっかり老犬になった。過去の手術費や検査費を含めれば、こいつには50万円はかかっているはずだ。


 黒い犬が元気になり、しばらくした頃、妻が薄茶の犬の乳首にしこりがあるのを感じた。動物病院に連れて行く。乳腺腫瘍だそうだ。手術で簡単に取れるし、良性か悪性かも調べられるとのことだ。費用は摘出する数によるが4、5万円位とのことだ。来月は自動車税の支払い等があったな思ったが、妻にそんなことは関係なく、3日後に手術をすることになった。

 手術当日にそいつを動物病院に連れて行き、簡単な手術前の検診を行い、体重を測り、このまま麻酔をかけるから抑えて欲しいと言われた。麻酔用のマスクを犬の口に当てると、30秒も経たない内に白目を向き、死んだように眠りについた。麻酔の威力をまざまざと見せつけられた。

 午前中にそいつを預けて、何もなければ夕方に引き取ることになった。クリーニング屋の看板に「朝出して、夕方に仕上がり」と同じだなと思った。

 2時間ほど経った頃、手術が無事に終わったと連絡があった。夕方の診療が開始されると、そいつを引き取りに行った。胴体部分にメッシュの包帯が巻かれて大人しくしている。

 切除した細胞を病理検査に出すが、見た感じではおそらく良性だろうとのことであった。費用は4万5000円である。この動物病院はカードが使えず、私はなけなしの5万円を支払い5000円のお釣りを貰った。

 退院後はインターホンが鳴っても吠えることもせず、殆ど丸まって寝ている状態で大人しかった。1週間後、抜糸のためにそいつを連れて行った。その際に手土産として3000円程の焼き菓子を持参した。病理検査の結果、ガンではなく、良性腫瘍であった。手術から2週間もして、ようやく薄茶の犬は以前のように宅配のインターホンでも吠えるように元気になった。

 薄茶の犬は今も元気で、年老いた黒い犬が寝ているのを邪魔したり、餌やおやつを横取りしている。


 犬を飼うのはお金がかかる。

 お金があればタレントの坂上忍氏みたいに広い庭付きの家を購入して、思う存分走らせることもできるが、マンションや狭い戸建てでは近場の散歩がせいぜいである。吠えれば近所迷惑だが、広い庭なら気にもしない。糞尿を室内ですればフローリングも痛むが、芝生や植木があれば養分になる。

 犬を飼えば観光地には連れて行けないし、ペットホテルやペットシッターも金がかかる。連れて行ったとしても、ペットの泊まれる旅館やホテルは限られるし、別料金が発生する。

 そして老犬になれば介護が必要になり、時間も取られる。それに最後まで面倒を見たからと言って、犬は人間の子供みたいに老後の世話などしてくれない。

 金持ちの家で飼われた犬は人が食べるような牛肉を食べるが、一般家庭ではカラカラのドッグフードである。金持ちの家で飼われた犬は病気になれば惜しみなく治療を受けられるが、一般家庭では家計と相談の上で寿命が決まる。

 人間と同じである。

 子供は親を選べないとはよく言うが、犬も飼い主を選べないのである。

 金持ちの子供はいいものを食べて、小さいときから習い事をし、海外旅行に行けて、家庭教師をつけてマンツーマンで勉強をし、病気になればすぐに医者にかかるが、一般家庭の子供は冷凍食品やインスタントラーメンを当たり前のように食べ、夏休みには安上がりなキャンプで旅行気分を味わい、安い塾に通い、風邪程度なら病院にも行かない。

 同じ犬として生まれて金持ちの家庭で引き取られた犬と、一般家庭で引き取られた犬では前者の犬が幸せだろう。

 そして、人の子なら将来、入社した会社が運よく大きくなって所得が増えたり、結婚相手が金持ちなら、毎日でも美味しいご飯も食べられるが、犬は飼い主の稼ぎが全てである。

 だから私は今の2匹の犬を最後にもう犬は飼わないつもりだ。私が引き取らなければ、その犬はきっと犬好きの金持ちの家庭に引き取られるだろうから。

 今から犬を飼おうと考えている人は、よくよく犬を飼える財力があるのかを考えて欲しい。


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