第5話 笑うな
「下がった方がいいぞ。堅気の前で人は殺したくないからな。今下がれば見逃してやる」
印を結びながら、俺は言った。先も言ったが、集中する時に印を結ぶのは、ガキの頃からの習慣であり、完全に無意識下のことだった。
そんな俺の印を見て、ワーウルフの男がニヤリと笑った。
「その印にあの枝を渡る歩法。確か
沈黙を肯定ととったか、男はゲラゲラと大笑した。
「そうかそうか。お前あの黒曜の人間なのか。川に毒まで流されて、レムナントの人間に、土地も心も女も全てを奪われておきながら、それでもなおレムナントの女を助けるのか。実にお前ら黒曜の人間らしい、愚かな振る舞いだよ。あっはっは」
「……」
「レムナントが覇を掲げ、最後まで手こずったのが黒曜の忍びだと講談師は語るが、笑わせる。俺はそう言ってきたやつらを全てぶっ殺してきたよ。いいか。お前ら黒曜の人間は、最後まで戦わなかっただけだ。ザクソン、レンブラン、ディオカルテ、ベルチ、ド・ルーク。五か国が戦い、時に手を結んでいる間、お前ら黒曜の忍びは何もしなかった。最後まで傍観を決め込み、最後の最後に山の中に引きこもりながら戦い、毒を流され呆気なく滅んだ。お前ら黒曜の人間に同情している国なんてどこもないぞ。そりゃそうだ。自分達さえよければそれでよく、自分達を滅ぼした相手の靴も、いとも簡単に舐めることができる。誇りも何もあったものじゃない。その薄汚い黒髪をいかに銀色に染めようが、お前らの品性は一生変わることなどないのだ」
俺は結んでいた手を、解いた。両手を上向けて、肩をすくめた。思わず口端が持ち上がる。本当にその通りだと思ったからだ。
何度でも言おう。俺は
「お前の言う通りだぜ。あんな国、滅びて当然だ。調練で人を殺し、勝てもしない相手に突撃し、他国では当然である、神との契約さえ許されなかった。ただ己の力で地を駆け、空を舞い、そうして敵を討つのが
「よくわかっているじゃないか。その通りさ。お前らはバカだ。しかしそうだな。お前は少し見どころがあるぞ? どうだ? 今度はレムナントではなく、俺達、ディオカルテ人の靴を舐めないか? 我々は黒曜とは違う。誇り高きワーウルフの一族だ。我々は勝っていた。イースロット三世の、汚い調略のせいで負けたのだ。奴は、国王と、先代国王の娘との間にあった軋轢を見抜き、調略をしかけてきたのだ。それさえなければ我らは勝っていた。いや、負けるはずがない。誇り高きワーウルフである我々が、下劣な人間などに」
「……」
『はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……』
走っている人間が見えた。これは誰だと尋ねるまでもない。俺だ。ガキの頃の、大器晩成が、開花する前の、俺だった。
『兄貴。悪いけど、俺たちの隊から抜けてくれないか? いやその言いづらいんだけど……ハッキリ言って、足手まといなんだよ、兄貴は』
『はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……』
『え? 誰を見てたかって? リンを見てたの。ずっと見てるよ。きっと強くなるよ、リンは。だって、こんなに努力してるんだもの。神様が、見捨てるはずないよ。絶対』
『はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……』
『一万一、一万二、一万三、一万四――一万五百三、一万五百四、一万五百……うぅっ』
刀。思いきり岩に叩きつけた。ガキンと音を立てて、刃が砕ける。
永遠に上がらない能力。何が大器晩成だ。嗤っているだけだろ? 神が俺を肴にして酒を飲む。そのためだけの、天道だ。
殺してくれと思いつつも、死ねない。死にたくないから。死ぬのが怖いから。心残りがあるから。いつかあいつらに、目にもの見せてやるまで、死ねない。そんな日が永遠に来ないことを、心の底で、知っているくせに。
『使えない荷物持ちだな。マジメだけが取り柄ってほんと使えねえんだな。おら面出せ。せめて殴らせろ。それぐらいしか、お前は約に立たないんだよ』
誇りなんてものは、捨てた。
自分には大それたものだと、気が付いたから。
『泥みたいな黒髪だな。染めろ染めろそんな髪。逃げ出して来たんだろ? 黒曜から。今更。お前みたいなものに、誇りも何もあったものじゃないだろ? 捨てろ。奴隷になれ。他の人間が持っている物を捨てることで、お前みたいなゴミクズは、ようやっと真っ当な人間になれるんだよ』
人であることも、やめた。
生にしがみつくことしかできない、ゴミクズであると、気づいたから。
『おいおい、ついに我らが国王陛下が、黒曜に宣戦布告だってよ。とうとう五百年ぶりに六カ国統一か?』
レムナントが黒曜に……。
レンとツァオリンは――いや、考えるまい。
自分に何ができる。
何よりあいつらは、俺を捨てた。
滅べ。全て、滅んでしまえばいいんだ……。
『軍が黒曜の河に毒を流したらしい。これはちょっとやりすぎじゃないのか? あ、ああ、そうだな。このおかげで戦争は終わる。我らの勝利だ。国王が河に毒を流したから、これ以上、無駄な死を出さずに済んだのだ。我らの勝利だ』
ダン!!
壁を殴った。
怒りから? 違う。頬に食い込む唇は、明らかに笑っていた。何人もの人間が死んだだろう。土地も、死んだだろう。女はこれ以上ない地獄を見たかもしれない。黒曜とレムナントが戦うと聞いた時、滅んでしまえと思った。
そして、悪魔の所業と言っていい、凄惨な方法を用いられて、それでも俺は『ざまあみろ』と、一瞬とはいえ、思ってしまった。
この時俺は、自分が
それから数日後、自分の能力を開示して、大器晩成が外れていることを知った。
力を与える。だから自分たちの仇をとれと。
そんなものは、ゴメンだった。
お前らバカどものために、どうして自分がそんなことをしなければならないのか。
俺はこの力で、のんべんだらりと生きる。
お前らとは全く違う道に進むのだ。
人とは全く違う道に進むのだ。
ただ何も生み出すことなく、自堕落に、天命が俺を殺す時が来るまで、ただ生きるのだ。
それが俺なりの、天への復讐なのである。
「くっくっく。あっはっはっは」
顔を押さえて、俺は笑った。
「くくく。あはは」
ワーウルフの男も笑う。
「あっはっはっは!!」
「わはははははははは!!」
「あーっはっはっは!!」
「わーはっはっはっは!!」
「あははははははは!!」
「わはははははははは!!」
「――笑うな」
俺の声が、ピシャリとワーウルフの哄笑を遮った。腰に下げていた剣をスラリと引き抜く。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます