揺れる、夏

なつめのり

第1話

金井 宗介は私のことが好きだったらしい。



なあなあ、とお調子者のクラスメイトが私の肩を叩く。振り向けば彼はニヤニヤとした顔で私を見る。


「こいつお前のこと好きなんだって」

「はあ?」


思わず出てしまった可愛さのカケラもない声に、うわ〜怖え〜なんて言ってクスクスと笑う。私の前に立っているのは2人の男子で、無理やり肩を組まれた方の眼鏡の彼はいつも通り少し困ったような笑顔を浮かべながら、やめてよ、と小さな声で反抗した。そんな小さな声が届くはずもなく。ああもう、こういうの本当に。


「くっだらない。」


そう呟いた声は眼鏡の彼にだけ聞こえてしまったのだろうか。いや別に君に言った訳じゃなくてニヤけ面のクラスメイトに言ったんだけど。なんて弁解は頭の中だけでしながら自分の席へと戻った。「残念!振られちゃったね〜」なんて声がして思わずため息が出てしまう。何も言い返す事はせずヘラヘラと笑っている彼にも、ため息をつきたい。


席についたと同時に、教室のドアが開いて担任が入ってくる。じんわりとした湿っぽい嫌な暑さが続く梅雨の時期。湿気で中々まとまらない髪と対決しながら放課後のホームルームが始まった。ほとんどの人はお喋りに夢中で担任の声はほとんど誰にも届いていなくて、私も例外ではなく。頬杖をついてボーッとただ窓際の席を眺めていた。


1列挟んで3つ前の席。その背中はピン伸びていて、誰一人聞いていないような先生の話を真面目に聞いていた。先ほど無理やり肩を組まれた際に少し着崩れてしまっていた制服はもう既に直されていて、ネクタイもきっちりとしめられている。普段から気崩すことの無い制服、よく名前の載っているテスト順位表、たまーに寝癖が付いていて、ずり落ちてしまいそうな眼鏡は、彼、金井宗介のトレードマークだ。


彼とは、今年から同じクラスになった。今まで関わりは特になくて同じクラスになった今でもほとんど話したことはない。ない、のに。


「芽衣!今日放課後ヒマしてる?」

「してるけど。なんで?」

「駅前に新しいカフェオープンしたんだって!一緒に行こ〜」

「えーーなにそれいいじゃん。」


急に肩を叩かれて振り向けば、そこにいたのは友人の桃だった。日々少し違うカラコンの色は今日はピーチブラウンだそうで、その爪にはカラフルなネイルが光っている。


「ていうかさっきも金井に絡まれてなかった?」

「絡んできたのは圭人だよ。ほんといつもニヤニヤしてムカつく。」

「毎回よく懲りないよねえ。でもさ、芽衣。」


桃が急に声を小さくして私の耳に顔を寄せる。

その顔は、好奇心たっぷりで。


「金井が芽衣を好きなのはまじらしいよ。」

「やめてよ桃まで。」

「いやほんとだから。情報通のももちゃんを舐めないでほしいわね。」


思わず、またため息が出てしまった。


こんな話を聞くのは今学期に入ってからもう何度目だろうか。関わりが特に無いどころかまともに話したこともないはずなのに。どこが出所なのかも分からない噂は明らかに広まっていた。チラリ、と彼の席を見れば丁度カバンをもって立ち上がるところで、雑談するクラスメイトの横を猫背のまますり抜けていく。そんな彼を見ながら、まーアレは無いか、なんて言って桃がクスクスと笑う。


「・・・まあね。」


ぽつりとつぶやいた私の返答を聞いているのかいないのか、ねえはやく行こ!なんて私を急かしながらカバンをもって立ち上がる。元気だなあなんて年寄りみたいな感想を抱きながら気持ち急ぎ目にカバンに教科書を詰め込んだ。





時計を見れば午後18時過ぎ。帰宅部の私にしては珍しく今日は帰りが遅くなってしまった。スクールバッグを肩にかけて教室を出る。


歩きながら、さっきの担任の言葉を思い出していた。先週から始まった進路相談の面談、ほとんどの生徒がもう志望校や就職先を決めている中、未だ進路を決めきれていない私は言われ放題だった。3年の夏、もう色々なことを決めなければいけない事は分かっている。けれど自分のやりたい事なんてまだ全然決められない。一応進学はしようと思っているけど、それはただまだ働きたくないから、なんて情けない理由だ。学びたい事も、就きたい職業も、何も、ない。


夕日に照らされた廊下を歩きながら、声が聞こえてくるグラウンドに目を向ける。野球部、サッカー部、陸上部。汗と砂にまみれながらグラウンドを駆け抜けている。怒鳴り声、笑い声、掛け声、色んな声が聞こえてきて胸がきゅっと締め付けられた。景色が揺れている暑い夏の記憶が甦ってきて、日に照らされた彼らが痛いほど眩しかった。


思わずグラウンドから目を逸らして、薄暗い廊下をゆっくりと歩く。そんな私の視線を奪ったのは、今度は生物室の中にいる人物だった。


「・・・あ。」


私の顔を見て、中にいた彼はなんとも言えない声を出す。私も反応に困ってとりあえず頭だけで会釈をすれば彼は直ぐに目を逸らして、いつものように少し眉を下げて笑った。


「・・・何してるの?」

「えーっと、水、を変えようと思って。」


両手で花瓶を持っていた金井宗介は、そうだけ言っておどおどと目線をさ迷わせる。つり目のうえ声も低くて、愛想が無い事も自覚している。第一印象から悪く怖がられるのも慣れっこだ。


「ふーん。何、当番とか?」

「いや、違うけど。」

「頼まれたの?」

「・・・ううん、頼まれてない。」

「じゃあなんで?」


私の質問にきょとんとした顔をした後、そのまま真剣に考え始める。うーん、とうなった彼はまたいつものように笑った。


「生物の授業中、気になったから。水が少なくて、可哀想だなって。」

「・・・へえ。」


そんなの、気にしたことがなかった。そもそも花なんかあったっけ?

今見れば確かに生物室の壁際には花瓶や植木鉢かいくつか並んでいて、そんな事にも全然気づいていなかった。


「花好きなの?」

「別に、そうでもない、かな。」

「へえ。」


自分から聞いておきながらなんて感じの悪い返答だろう。そうは思っても、じゃあなんて返せばいいのか、会話をどう続けていいのか、どこまで質問をしていいのか、何が正解なのか分からない。私の感じの悪さは、コミュニケーション能力の乏しさから来ていることも気づいている。


なんとなく足を止めて、しばらく彼が水を変えたり植木に水を上げたりするのを眺めていた。そのうち立っているのに疲れて生物室特有の丸椅子に腰かける。そんな私に彼は少しだけ視線を向けて、でもまたすぐに花の方に視線を戻した。普段から俯きがちな彼と、視線が合う事はほとんどない。さっきもすぐ逸らされてしまったし、私は怖がられているんだろう。だからほら、あんな噂はやっぱり嘘だ。


こちらに背を向けたまま、彼が不意に口を開く。



「僕、高橋さんのこと1年生の時から知ってたんだ。」

「・・・なんで?」

「走ってるところ、よく見かけたから。」


グサ、と心臓に何かが突き刺さる音がした。


瞬時に言葉が出せなかった私を彼はどう受けとったのか、急にこちらを振り向いて、あたふたと目を泳がせる。


「あっ、いやっ、ごめん。たまたま見かけて、そ、それですごくかっこいいなって思って・・!!ごめん、気持ち悪いよね!!」

「・・・え、いや、別に。」

「知らない人からそんなこと言われたら怖いよね、ごめん本当に!!」


どうやら私の反応を違う意味で受け取ってしまったようだ。私が否定する間もなく、持っていたじょうろをシンクに戻して彼は足早に教室を出て行った。あ、カバン忘れてる。そう気づいて呼びかける前に、彼は効果音がつきそうなほど綺麗に周り右をして一目散にカバンだけ掴むとすぐにまた教室を出て行った。・・・なんか悪い事しちゃったなあ。少し罪悪感に襲われるけど、こういう時は考えないで忘れるのが吉だ。綺麗な水に浸かっている花たちを少し眺めて、私も教室を後にした。




梅雨が明けてから、しんどいくらい熱い日々が続いていた。移動教室のため蒸している廊下を歩く。歩きながらワイシャツを第二ボタンまで開けてパタパタと仰ぐ桃に注意をすれば、お母さんみたい、と笑われた。あんた可愛いから心配なのよ。

桃とくだらない事でケラケラ笑いながら歩いていると、廊下の隅に何か落し物が見えた。ハンカチだろうか。・・・拾ってあげた方がいいかなあ、でも1回拾っちゃうと面倒なんだよなあ。ああ、もう授業始まるまでに時間もないし。


なんて躊躇ってしまっていた私の横をすり抜けて、彼はなんの躊躇もなくハンカチを拾い上げた。そのままキョロキョロとあたりを見回し、職員室に持っていくのだろうか方向転換して歩いていく。


「芽衣、どうした?」

「・・・いや、何も。」


桃は落とし物の存在にも気づいていなかったのだろう。ただ目指している教室とは別方向に向かう金井宗介の事だけを見つけて、あれえ、と笑った。


「授業間に合わないけどいいのかなあ。」

「・・・どうなんだろうね。」

「まさかサボり?にあわな~」

「ほら桃、このままじゃ私達も遅れるよ。急がなきゃ。」


時計を見ればあと授業開始まで2分。早足で教室へと向かったけれどチャイムに間に合わなくて、少し小言を言われてしまった。少し遅れて彼も教室に入ってきて、特に何か言い訳する訳でもなく謝って席につく。普段が真面目だからだろう彼には先生からの注意が無くて、離れた席の桃が口をとがらせてこちらを見るから笑ってしまった。




その日の最後の授業は英語だった。授業前にはクラスメイト達がそれぞれのグループでノートを見せ合っていて、これは英語の授業前のいつもの光景だ。皆からマダムと呼ばれる英語教師はいつでもでっかい指輪とネックレスを付けていて、何かと生徒を当てたがる。そして答えられなければ皆の前で公開処刑に合うのだ。


当たるな当たるなと心の中で願いながら授業は進んでいく。途中、マダムの標的になってしまったクラスメイトの女の子は、俯いたまま視線をさ迷わせる。


「酒井さん、ここ読んで。」

「えーと、」

「前やったところしっかり復習してきましたか?してれば読めると思いますけど。」


マダムは生徒が何かを答えるまで絶対に解放してくれない。でも数学や国語じゃないんだ、読み方すら分からなかったら答えようがない。見ているだけで心臓が痛くなる、ああ可哀想だなあ。でも自分じゃなくて良かった、そうも思ってしまっている。


聞いているようなフリだけをして、同情だけして、ボーッと何にも心を使わないでいる私の視線の先で、見ていた背中が動いた。


「え、えーと、うぃーいんくるーでぃっと・・・」


拙い口調で彼女の口が動きはじめる。マダムはうんうん、と頷きながら、よく読めましたと満面の笑みで酒井ちゃんを座らせる。この笑顔もまた怖いんだよなあ。


席に着いた酒井ちゃんは小さな声で隣の席の彼に何か囁いた。大きく机からはみ出したノートを戻して、今度は彼の頭がぴょこっと動く。頭を下げたからか大きい眼鏡がズリ落ちそうになっているのが見えて、なんで君が会釈するの?となんだか笑いそうになってしまった。



「ね~今日なんかマダムいつもより機嫌悪くなかった?」

「それ、私も思った。」


放課後のホームルームを終え、私の前の席の椅子に反対向きに腰かけた桃はスマホの画面を使って前髪を直しながら今日の授業への不満を語る。上手くいかない前髪にしびれを切らしたのかああもう、と長めの前髪をかき上げて一つ欠伸をした。


「ねえなんか寄り道して帰ろうよ。」

「いいけど。どっか行きたいところある?」

「カラオケどうよ。」

「かなりあり。」


なんて放課後の予定を決めていれば近くできゃあ、なんて色めきだった声が聞こえた。見れば酒井ちゃんのグループが固まって何やら話し込んでいた。1人の女の子が頬を赤くして何かを話していて、おそらく恋バナだろう。


「あー、大樹くんの話か。」

「2組の?」

「そう。真鍋さんに告ったらしいよ。」

「へえ。」


本当に桃は噂をよく知っている。きゃあきゃあ話している彼女たちに一瞬目をくれてから、桃が笑う。これは、ちょっと嫌な笑顔だ。


「ねえ、アレ男子的に気にならないのかな?」

「何が?」

「日焼けすごくない?毎日スポーツバック持ち歩いてるのもなんか、ねえ。」


コソコソ声でそう言って、桃は小さく笑う。その笑い声が心臓に響いて、小さく息をのんだ。それを気付かれたくなくて、必死に口角を挙げる。

テニス部の真鍋さんは、確かに日に焼けている。いわゆる靴下焼けもあって、水泳の時間には自分でネタにして笑っていた。スクールバックの代わりにエナメルのスポーツバックを持ち歩いていて。でもそんなの、そんなの。


『芽衣には似合わないよね。』

あの日の声が聞こえきた気がして、聞きたくもないセミの大合唱に耳を傾けた。





「お疲れ。」

「あっ、お、お疲れさま。」


一瞬振り向いたけれど、視線は合わないままそうだけ答えて彼はまたすぐに花瓶の方へと向き直る。私も特に何も言わず離れた丸椅子に腰かけて、ボーッと頬杖をついていた。

放課後、帰り際に生物室を覗くのが日課になってた。最近テニス部の彼氏が出来た桃はその彼と一緒に帰っていて、なんとなく放課後を持て余していたのだ。と言っても他の友達と一緒に帰る事もあるし、金井宗介もいつも同じ時間に植物の面倒を見ているわけではないようでこうして見かけるのは週に1.2回程度だった。


「わっ・・・!!」


彼の珍しく大きな声が聞こえて驚いて顔を挙げれば、同時にバシャッと何かが飛び散る音がした。慌てていじっていたスマホを置いて駆け寄る。どうやら、盛大に水をこぼしてしまったようだ。


「ご、ごめん・・・!」

「雑巾あるから。持ってくる。」


入り口の近くにあるロッカーの中からぞうきんを取り出して、屈んで床を拭き始めれば彼は慌てて私の名前を呼んだ。


「ごめん僕がこぼしちゃったんだから僕がふくよ!」

「いいよ別に。」

「手も汚れちゃうし!ほら、爪が!」


彼の言葉に自分の手を見れば、泥の混じった水を拭いたからだろう、爪の間にも泥が入ってしまっていて、水はねしたのかワイシャツにも少ししみがついていた。どどどどうしよう、染み抜きってどうやってればいいのかな!?なんて彼がいつも以上にあたふたと挙動不審になるから、思わず笑ってしまった。そんな私に気づいて、彼がなんだか驚いたように目を開く。


「大丈夫だよ。洗えばいいんだから。」

「でももし落ちなかったら・・・爪だって折角綺麗にしてるのに。」

「そしたらその時考えるからいいよ。爪なんかまた生えてくるし。」


私の言葉に少し安堵したように息を吐く。そのまま目を瞑って深く息を吸って、彼は私の方を見た。


「ありがとう。」


少しだけ、ほんの少しの間だけしっかり目が合った。照れたように笑った彼の後ろには丁度夕日が重なっていて、だからだろう、耳まで真っ赤に染まって見えた。





生暖かい風が窓越しに髪を揺らす。外からは賑やかな声が聞こえてきて、同時に賑やかな母の声も聞こえてきた。返事をしないままでいればドスドスと階段を上る足音が聞こえてきて、あ、まずい。


「芽衣!ほら行くよ!」

「だからいいって。人多いの苦手だし虫刺されるの嫌だし。」

「そんなこと言ってないで!おばちゃん達も来てるんだから。」


母に言われるまましぶしぶ部屋着から着替える。日曜日の夕方、商店街の夏祭りが開かれていた。毎年商店街が中心となって行われるこのお祭りには地元の人が集まり、屋台が出たり、ビンゴ大会が開催されたり。その商店街に自宅が面しているため、今日は朝から家の外がガヤガヤとうるさい。うるさいのはお祭りに参加している人の声だけではなくて、庭から聞こえてくる声も含めてだ。


多少化粧をし直して窓の外を覗けば、庭からもくもくと煙が立ち上っている。このせいで私は暑いのに窓も開けれやしない。はしゃいでいるのはいとこ達で、ビール片手に笑っているのはおじさん達。お祭りの日に合わせて親戚が集まりバーベキューを行うのも、毎年の事だった。


欠伸を噛み殺しながら、これ以上待たせて母の雷が落ちる前にと階段を下った。




当たりもすっかり暗くなって、屋台の灯りが眩しく感じる。おばさん達への挨拶もそこそこに、私は結局その場を抜け出していた。本当は自分の部屋に戻りたいけど、母がそれは許してくれないだろう。


道をはずれて石の階段をゆっくりと上る。次第に喧騒からは遠ざかって行って、眩しかった灯りもなんだか遠い異世界のもののように思える。


階段を登りきれば、小さな神社が見えた。ここは私のお気に入りの場所で小さい時はよく1人で散歩に来ていた。大きくなってからは来ることも少なくなったけれど、毎年花火の日はここに来ている。酔っ払い達からの避難場所。花火も意外と綺麗に見える。


古びた神社の賽銭箱の横にいつものように腰掛けようとして、思わず悲鳴を上げてしまった。いつも誰もいないはずの場所に、今日は先客がいた。


「わ!!!!」

「うわっ!す、すいません!!!」

「びっくりした…って、あれ。」


私の声に同じように驚いた彼の顔は、よく見た事のある顔だった。なんで彼がここに?


驚きと共にズレてしまったメガネを直しながら、金井宗介は慌てて立ち上がる。


「ごごごごめん!!」

「あ、いや、こっちこそ驚かしてごめん。ていうか、え、ここよく来るの?」

「あ、えっと、塾がすぐ近くにあって。たまに塾帰りに寄るんだ。」

「へえ。」


ていうか今日も塾だったんだ、この時間まで。大変だなあ、なんて他人事で考えていれば、彼はいそいそとリュックを背負い直した。


「あ、の、僕もう帰るので!」

「いいよ私が帰るよ。そっちが先にいたんだし。」

「いや!丁度もう帰ろうかなって思ってたところだから。」

「花火見に来たわけじゃないの?」

「花火?」


絵に書いたようなポカンとした顔でそう聞き返す彼に思わず笑ってしまう。そんな私に少し驚いたような顔をして、金井宗介がメガネを直しながらまた私から目を逸らした。


「今日これから花火が上がるの。」

「そうなんだ。お祭りの日なんだなあとは思ったんだけど。」

「知らないってことは家この辺じゃないの?」

「うん。伊瀬の方。」

「え、遠。」


少し距離を開けた位置で、お互い自然と境内に腰掛けた。

家の話、学校の話、彼が飼っている柴犬の話。普段だったら絶対話さないような事を話した。友達みたいに話して、聞いて、気づけば声を上げて笑っていた。


「ここよく来るの?」

「たまに。」

「そっか。僕も、たまに。」


さっき聞いた、そう答える前に爆発音がして光の種が暗闇をすり抜けていく。2人して口を開けたまま、空を見上げる。打ち上がった花火は、なんだか去年よりも色鮮やかに見えた。


またひとつ、またひとつと絶え間なく上がる花火の音に覆われて、私たちはそこから何も話さなかった。ただ座って、首が痛くなるまで夜空を見上げていた。


途中、彼が私の方を見た気がした。気がしたけど、私はそっちを向かなかった。今目を合わせたらこの時間が終わってしまうと思った。答える事が出来ない気持ちなんて本音なんて聞きたくないと思った。光っては消えていく花火だけを視界に写して、聞こえてくる爆発音にだけ耳をすませて、そのうち目を瞑った。彼の気配だけを感じて、目を瞑った。


今日こうやって花火を一緒に見ただなんて、桃には絶対言えない。ほかのクラスメイトにも言えない。でも、言えなくていいと思った。言いたくないと思った。忘れないだろうな、そうも思った。




夏休みも目前となった学校からの帰り道、交差点の近くで金井宗介を見かけた。彼は女の子と一緒に歩いていて、確かあの子は2組の柊さん。目立つタイプではないけど綺麗な黒髪が印象的で、確か彼の幼馴染だと聞いたことがある。


2人はとても仲が良さそうに話していた。金井宗介が何かを言って、柊さんがおかしそうに笑う。彼もまた笑う。その笑顔は、教室で見せる笑顔とは違った。私が見た事のある困ったような笑顔じゃなかった。私には見せることのない顔、ってなにそれ、そんなの当たり前じゃん。私何考えてるんだろう。


「・・・気持ちわる。」


ぽつりと声に出してみる。そうだ、こんな事考えて気持ち悪い。恋人なんかじゃもちろんないし、ましてや友達ですらない。本当にただ同じクラスなだけの人に対して、

こんなこと思うなんてどうかしてる。漫画のヒロインのセリフじゃないんだから、なんて自分を笑ってみるけど、なんだか心の中はすっきりしなかった。





生物室から夕日に照らされる校庭を眺める。最後の大会を迎え、勝ち残れなかった3年生は既に引退し始めているようだ。そこには笛の音と共に必死にトラックを走っている生徒の姿も見えて、心臓がキュっとなった。


特に会話することもなく放課後の生物室での時間は無言で過ぎる。そのため校庭から聞こえる声は風と共にするりと耳に入ってきて、彼もそうなのだろう、時折校庭を見つめていた。


不意に、あのさ、と彼が声を発した。


「どうして、部活辞めちゃったの?」


聞こえてくる校庭からの声が、一層鮮明に聞こえた気がした。


「別に、特に理由なんか。」

「でも、なんか急にやめちゃったみたいだし、」

「似合わなかったの、私には。」


『芽衣には似合わないよね。』

部活終わり、ジャージ姿でタオルを首からかけた私に、桃はそう言って笑った。一緒にいた友達も、つま先から頭の上まで視線を這わせて、小さく笑った。


「似合わないって、どういう事?」

「そのままの意味でしかないでしょ。」

「そんなの誰が決めるの?」

「私だよ。私の事だもん。」

「本当に?」


普段全然喋らないのに、何故か彼は引き下がらなかった。拳を握り締めて、いつもと同じく視線を下げたまま、でもいつものように眉を下げて笑っていなかった。



「本当に自分の意志でやめたの?」

「そうだよ。」

「似合わないって思ったから?それとも、誰かにそう言われたから?」

「・・・別にどっちでもよくない?」

「良くないよ。」


拳をさらに強く握り締めて、震える声で。

彼の瞳が、私を捉えた。


「だってあんなに、綺麗だったのに。」


なんだか、泣きそうになってしまった。

普段全然喋らないくせに、目があったらすぐ逸らすくせに、今、彼は私を逃してくれなかった。メガネの奥に見える瞳をちゃんと見つめるのは初めてで、あ、奥二重なんだな、なんて全然関係ない事を冷静に考えている自分もいた。


「・・・なにそれ。」


俯いたまま自分で自分の手を握る。


高校1年生の春、ドキドキしながら部活見学に行った日の事を思い出した。ありきたりな理由だけど、お正月にやっていた駅伝を見てなんてかっこいいんだろうと思った。短距離も長距離も人並みで、何か運動をやってきたわけでもなかったけど、でも、自分も挑戦してみたいと思った。


もちろん大変なことも多かったけど、でも、でもすごく楽しかった。朝は早いし、汗でベタベタになるし、日焼けするし、怒鳴られることもあるけど、でも、走る事が好きだった。楽しかった。部活が大切だった。


ある日、部活終わりにたまたま桃に会った。その時から桃と行動することは多くて、それで別になにか思ったことはなかった。なかったのに。


真っ赤な顔をして、半袖短パンでタオルを首からかけている私を見て、桃は急に吹き出した。一緒にいたクラスメイトも私をつま先から頭まで視線を上げて見て、小さく笑った。


『いやまって、やっぱり芽衣ジャージ似合わなすぎるんだけど』

『わたし日焼けとか絶対無理だもん』

『ていうか走ってる時の顔人に見られるの耐えられなくね?』


分かる〜と彼女たちがケラケラと笑う。綺麗に巻かれた髪と、膝上のスカート。目元がキラキラと光っていて、香水のいい匂いもする。急に、自分が恥ずかしくなった。


『芽衣には似合わないよね。』


ねえ、と桃が笑いながら同意を求める。こぶしを握り締めて、ゆっくり息を吐いて、私は。


『だよねえ。』


下手くそな笑顔を浮かべる事しかできなかった。


その瞬間、もう部活を続けられないと思った。彼女たちに馬鹿にされたから、とかそうじゃなくて。

否定できなかった自分に、陸上が楽しくて大切だと、恥ずかしくなんてないと口に出せなかった自分に、失望したからだ。こんな自分に走る資格なんてないと思ったからだ。


金井宗介は、私から目を逸らさない。


「あんなに綺麗で、かっこよかったのに。」


そう言った後、彼はいつものように眉を下げて笑った。困ったような笑顔が私に呆れているように見えて、なんだか馬鹿にされている気持ちになった。


「・・・くだらない。」

「・・・高橋さん?」

「くだらないこと言わないでよ。真っ黒で汗と砂まみれで走ってるののどこが綺麗だって言うの?かっこいいって、なにそれ。」

「だってほんとに・・・」

「どうせあんたも馬鹿にしてたんでしょ。今だって掘り返して馬鹿にしてるんでしょ。私になんて似合わないって思ってるんでしょ。」


完全な当てつけだ、八つ当たりだ。分かってる。いまだにずっと消化できていない自分の気持ちが溢れてきて、それをそのままぶつけてしまっているだけだ。分かっているのに、言葉は止まらなかった。


何か言いかけた彼は、結局何も言わず俯いた。見たことの無いとても悲しそうな顔をしていた。そんな彼を視界の端にとらえたまま、カバンをもって教室を出る。出る間際にもう一度彼が口を開いたけれど、立ち止まらないまま歩き続けた。

なんだか苦しそうだった彼の表情が、頭から離れなかった。




「金井くんが、亡くなりました。」


呼吸することをためらってしまうほど静まった教室の中、先生がもう一度同じ言葉を繰り返す。


外ではセミがうるさくないているはずなのに、私の耳には何も入ってこなかった。金井宗介が死んだ。交通事故だった。信号無視した車に突っ込まれた。

あんな善人が、こんなことで死んだ。あっけなく死んだ。悪い奴に殺された。なんだそれ、なんだそれ。


金井宗介は私のことが好きだったらしい。


世界は変わらない。金井宗介のお葬式は家族だけでひっそりと行ったそうだ。ヒソヒソと交わされていた彼の話は、1ヶ月も経てば耳にしなくなった。そのままにしておこうとホームルームで決まったはずの席は、気づけば片付けられていた。彼が死んでも、世界は変わらない。当たり前で残酷だ、私だって残酷だ。涙は1ミリも出なかった。



気付けば夏休みに入って、でも夏期講習のため何日か学校に来ていた。ボーッとしながら先生の話を聞いて、問題を解いて。進路は未だなかなか決まらなくて、何度か先生にも呼び出されてしまった。でも決まらないものは決まらないのだ。誰がいつ死んでしまうか分からないのに、どうして先の事なんて考えられるんだろう。


今日も講習の後に先生に呼び出され、時刻は午後14時頃。照りつける日差しが痛いくらいだ。校門の近くの花壇には向日葵が咲いているけれど、なんだかくすんで見えた。葉っぱも、青く澄んでいるはずの空も、私の目には鮮やかに映らなかった。とぼとぼと校門の近くを歩いていれば、誰かが私の名前を呼ぶ。


振り向いて、一瞬息が止まった。


そこにいたのは柊さんだった。パッツンの前髪が汗ですこし額にくっついていて、もしかして私をまっていたのだろうか。今までろくに話したこともないのに、なんで。

そう思った瞬間に逃げたくなった。そんなの決まってる。私と彼女の共通項は、ひとつしかない。


「急にごめんなさい。私、柊苑子って言います。」


知ってるよ、そう答えたつもりだったのに声が出なかった。私がもう一度声を出そうとする前に、柊さんは私の心臓をつく。


「私、宗介くんの幼なじみで。よくね、宗介くんから高橋さんの話聞いてたんだ。」


宗介くん。やっぱり名前呼びなんだ。なんてどうでもいい事が頭に浮かぶ。「お前のこと好きなんだってよ。」なんてニヤニヤしながら何度も私を捕まえてきたクラスメイトの顔を思い出す。「でもさ、芽衣。」好奇の浮かんだ顔で私に耳打ちした桃の顔を思い出す。


宗介くんはね、

そう柊さんの口が動いた。


なんだって、らしいよ、なんて聞きたくない。もうそんな言葉聞きたくない。なんの意思も気持ちもない本当かも分からない誰かの言葉なんて、なんの責任も持たないペラッペラの言葉なんて、もうコリゴリだ。

私が、私が聞きたいのは。


直前、柊さんがううん、言いかけてた言葉を首を振って打ち消した。

そして手のひらを握りしめて、もう一度私の名前を呼んだ。


あのね。


「高橋さんは、

宗介くんのヒーローだったんだよ。」


世界の音が、

彼女の声以外全て無くなった気がした。


「いつも堂々としてて、自分が嫌な事は嫌だとちゃんと言えて、当たり前のことのようになんて事ないのようにサラッと人を助けてしまう。

何より、走ってる姿が誰よりもかっこよくて綺麗だって。別の世界に住んでる人みたいだって。」


かっこよかったなあ、なんて笑った彼の顔を思い出した。あの日、最後に話した日。私の言葉にとても悲しそうな顔をした彼を、なにか言おうとしてでも苦しそうに口を閉じた彼を、思い出した。


絶対に泣きたくなかった。けれど1粒こぼれてしまった涙はとめどなく溢れてきた。柊さんはそんな私に驚きながらも背中をさすってくれた。なにそれ、なにそれ。どうしようも出来ない真っ黒な感情が体の中で暴れて苦しかった。どうして、どうして彼なの。どうして彼を選んだの。


彼の言葉は一生聞けないままだ。彼の本心は分からない。私の本心も誰にも聞いてもらえない。この気持ちは誰にも伝えられない。でも、でも、この言葉だけは。忘れずに持っておいていいだろうか、大事にしまっておいてもいいだろうか。


わたしは。


わたしは、金井宗介のヒーローだった。



蝉の声がうるさい。倒れてしまいそうなくらい暑くて、汗が肌を流れていくのが分かる。オレンジ色の太陽が眩しくてクラクラする。霞んで見える目の前景色を閉じ込めるようにぎゅっと目を瞑った。

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揺れる、夏 なつめのり @natsu_haru

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