2-「呪術探偵」

2 呪術探偵


 路地裏は換気扇の排気音がうるさい。それでも、人通りの多い表通りを歩くよりはマシだ。彼がそう考える理由は両手が、Mサイズのブラックコーヒーと、もう片方は妙なデコレーションが施されたドリンクで塞がれているからだ。透明なドーム状の中に、クリームがやや緩く揺れている。


 良質なコーヒーが安価で飲めるチェーン店、ステラバックスで買った、流行り廃りの早い現代では物珍しくもないカスタムコーヒーだが、型崩れをしているとあのクソガキは不機嫌になる。人混みの中で潰れては、買い直しを要求されるだろう。全く面倒でならない。


 高いビル群の隙間から見える青空は花粉で霞んでいる。「都会は空気が埃っぽい」などと同居人の言葉を思い出し、田舎者め、とブラックコーヒーを啜る。

 裏口が開いた。ゴミを捨てに出たのであろう飲食店の店員は、歩く男の様子を無意識に目で追った。

 黒髪の男は、喪服と見間違う真っ黒なスーツを着こんでいた。一人で歩いている際に愛想がいいのもないが、それにしたって警戒を張り巡らす睨めつける黒炭のような瞳は、おおよそ一般的とは思えない。それに両手にコーヒーを持ちわざわざ路地裏を歩く上背のある男はどうにも怪しかった。

 男は店員に一瞥をくれた。気づかれた店員はギョッとして、慌てて引っ込み、裏口の扉を閉めた。


 縄分乃至なわけないしは立ち止まり、しばらくジッとその扉を、深夜の密猟者のような仏頂面で睨んだ。それから片顔を不快そうに潰し、踵を返す。

 足早に路地を歩き、マンションの階段を登る。「221」と書かれた自宅の扉を乱雑に開き、強くコーヒーをテーブルに置いた。


「おい、呪い屋、、、


 縄分は不機嫌さを隠さない低い声で呼んだ。

 入りたての新居のように何もない部屋の一角だけが、異空間のように巣が作られている。仰々しい若者の巣だ。偽ブランドの服や靴や、LEDのリングライトやら、やれキラキラとしたアクセやらがそこかしこに置かれ、その中心に、端正なマネキンと見まごう青年——少年とも見える——が、タンクトップとボクサーパンツのまま床に投げ出されている。サラサラとしたプラチナブロンドの髪が床に短いモップのように流れ、黒いアイマスクと、Bluetoothのイヤホンで全ての感覚を遮断していた。艶のいい唇をうっすらとあけ、口呼吸で浅いいびきを発している。


 縄分が彼の二の腕を踏みつけると、青年はむくりと身を起こし、勢いよくアイマスクを外した。見開かれた瞳は、精巧な硝子の瞳孔ように輝いている。青年の視線は縄分ではなく、テーブルに注がれていた。


「キタ! キャラメルマキアートシナモンアンドナッツトッピングスパイシーカスタム!」

 スマートフォンを手に持ち、青年はテーブルに飛びつきカメラを向ける。カスタムコーヒーは、フラッペ状のコーヒーの上にクリームと螺旋状にかかったキャラメルソース、その上に砕いたナッツとシナモンパウダーがかかっている。画面のフィルターをスイスイとスワイプして変更し、彼は次々と写真を撮る。


 縄分は呆れて舌打ちをし、目も向けられないブラックコーヒーを飲んだ。

「面倒な注文しやがって、コーヒーはコーヒーだろうが」

「わかってないなあ〜。ステラバックスって言ったら長いカスタム名称と、この映えでしょ!」

 画面を見せる。フィルターがかかりすぎて、元の色がよくわからない。

「写真ばっか撮ってんじゃねえよ、要らねえのか」

「愛でて食べるってのがいいんじゃーん」


 こいつが話すたび胃のムカつきが増す気がする。縄分はクリーム盛りのコーヒーをテーブルから掻っ攫い、ズッと口に含む。冷たくて甘くてほんのりコーヒーの味がする。が、これはコーヒーではない。

「飲んだら一緒だ」

「あー! 僕のキャラメルマキアートシナモンアンドナッツトッピングスパイシーカスタム!!」

「うま」コーヒーではないが、うまい。「お前に文句を言う権利はない。住所不定無職に居候の分際で」

「無職じゃないし、僕が事務所の所長で君は助手! 僕がいなかったら君こそ無職なんだからな。上司に対してなんて態度だ!」


 何が事務所だ——居候のくせに。


 縄分はストローの先を軽く歯噛みした。

「都会のネズミになりたきゃ、一人で買い物くらい行け」

「不要不急の外出を控えただけですぅー。埃っぽくて、服に汚れが着いちゃうもんね」ベーと舌を出し、青年は鼻を鳴らしてスマートフォンに視線を落とした。「おつかいもまともにこなせないおじさんには言われたくないね」


「何?」

 ぴくりと眉を寄せる。

「縄分さん、注文ミスったでしょ。シナモン入れ忘れ」

 青年は椅子に座り、片足を座に上げてスマートフォンを操作し続けている。尖った唇に色が集まり、桜色に染まっている。

「何を証拠に。かかってただろ」

 青年は目を上げた。


「クリームがその透明な上蓋について、少しつぶれていた。おおかた、注文忘れに気づいた縄分さんが面倒で、雑に蓋を外したからついたんだろうね。シナモンが上蓋にはついていない。けれど潰れたクリームにはたっぷりのシナモンがかかっていた。おかしいでしょ。閉めた時についてないのは、戻す時には潰さないようにしたから」

「店員が一度閉めて、ミスに気づいて外した、っていうのも考えられる」

「確かに、ない話じゃないかも。僕はステバの店員じゃないからわからないけど。でも今回は縄分さんのミスだよ」

 自身の手首を指差した。

「袖口にシナモンがついてんだよ。カウンター越しで店員が全部作ってくれるのに。店員が勢いよくぶちまけましたーなんて言い訳、ある? ないよねえ。その真っ黒いスーツで袖口だけに微量かかるなんてね。まさか僕のためにシナモンを増量してやろうなんてサービス、縄分さんがするわけないだろうし。ね、どう?」


 長いまつ毛に囲まれた瞳を歪め、青年はにんまり猫のように得意げに顎をしゃくった。

 縄分はしばらく黙りこみ、カスタムコーヒーの残りをズズズッと無言で吸いこんだ。

「うわー! 全部飲んだこの人! 僕のキャラメルマキアートシナモンアンドナッツトッピングスパイシーカスタム!」

「いちいち呪文を唱えるな」

 青年は縄分に巻きつきコーヒーを奪おうとするが、巨木のような縄分の体幹と上背には勝てない。


 青年は腕力も体力もないようで、しばらくしてぜえぜえと床に這った。恨みがましく顔をあげた彼の潤んだ眼球がギラギラとしていた。


「うう、の、呪ってやる、お前を呪う! 屈辱的な不幸を用意してやる!」

 自身の巣へ駆けこみ、ガチャガチャとしたアクセサリーボックスを漁り、縄分の目には珍妙なに映るアイテムを取り出した。縄分と少し似た布人形と、指先でつまめるミニ木槌だ。

 布人形を壁に押しつけ、その右の足先をミニ木槌でコンッと打った。軽い一撃だが、その軽快なスナップには彼の恨みがこめられているのが見てとれた。


 縄分はぴくりとまぶたを歪めたが、すぐ鼻で笑い、空になったカップを振る。

「んなもん……」

 キッチンのゴミ箱に捨てようと踵を返した時——ふいにテーブルの脚に、ピンポイントで右足の小指をぶつけた。

 どれだけ彼が鍛えていようと、薄い指の皮膚を越え骨にダイレクトに伝わる予期せぬ痛みはダメージを与えるに十分だった。


 思わず縄分は苦痛に声を上げて屈み、ジンジンとヘルプ信号を出す小指を庇う。うめく図体のでかい男に近寄り、青年はその美しい顔からは予想もできない絵画の悪魔顔負けの笑みと、愉快げな下卑た笑い声を上げて縄分を見下ろした。


「ヒヒヒ——!! ざまあみろだ! この世で一番食い物の恨みは恐ろしいぞ。飢饉がいちばん、隣村と関係を悪化させるんじゃ」

 喉を鳴らす笑い方はカラスのダフステップを聞いているようだった。縄分は脂汗をかきながら、絞るように声を出す。

「糞食らえだ、呪い屋め……」

「もー、やめてよね。その呼び方。もっとカッコいく呼んでよ。所長とか、ボスとかさあ。セーイ、ホーウ!」

 テンションを高く、腕も高く上げた。

 縄分は返答せず、這い出た地獄の縁の鬼のように、腕の隙間から睨めつけている。


 呪術——。

 何度も見せつけられてはいる。彼のパフォーマンスは手品の目眩しのようだが、彼が「呪った」通りのことは必ず起きる。あまりにも気味が悪く、「呪い屋」と呼んでいる。


 この線の細い、見た目だけなら少女漫画の実写にいそうな青年こそ、現代の呪術師である。

 だが彼は、それだけを生業とはしていない。

 青年は腕を下げ、小さく肩をすくめる。そして悪びれもなく、縄分の耳元に顔を寄せ、声をかけた。

「じゃ、もう一個買ってきて。キャラメルマキアートシナモンアンドナッツトッピングスパイシーカスタム、ね」


 現実味のない美しさを讃える青年、呪井鴨四蓮のろいかもしれんは、小首を傾げて微笑を見せた。

 誰がするか、と立ち上がり、胸ぐらを掴みかけた——のを、四蓮は細く整った手で制した。


「待って、待って。やっぱ僕も出かける」

 スマートフォンを操作し、四蓮は画面を見せる。ちょうどリアルタイムの、ダイレクトメッセージのやりとりが映されていた。管理アカウントは【呪井鴨探偵事務所】となっている。


「依頼がきたよ。縄分さん」

 ピースをして、ちんくしゃに顔を愉快に歪める。縄分は眉間の皺を深めて一瞥する。よくもまあ、こんな怪しいアカウントに人が来るもんだ。


 兼業の時代である。呪井鴨四蓮の本業は、自称「探偵」だった。

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