第8話「有名人」

 それから数日後、夏休み中の登校日。俺が見ている世界は、7月までの世界とは異なっていた。

 朝、香純の席の前は多くのクラスメイトで賑わっていた。


「おお、有名人!」

「撮影どうだった?」

「とっても似合ってるよ!」


 男女問わず、香純に声をかける。いつの間にか、香純の周りは人で溢れかえっていた。さすがに香純もこれには動揺していたが、それぞれの問いに一人一人対応していた。というか、数分もしないうちに完全にこの空気に慣れてしまっていた。


「やっほー! 有名人でーす」


 なんてとうとう自分から名乗り始めた。やれやれ。調子に乗っている。俺は溜息をついた。


「おいこらー、ホームルーム始めるぞー」


 担任の間の抜けた声で、この騒ぎは一時は終息した。だが休み時間ごとに、香純の周りに人が集まった。


 俺はこの時、香純は本当にすごいことをしたということに気付いた。一田舎娘が、たまたま東京へ遊びに行っただけで、世界がこんなにも変わってしまった。現代のシンデレラじゃないか。


 本当は何も変わっていないはずなのに。何かが変わってしまったように思えてしまう。あの時受けた衝撃はやはり相当なダメージだったようだ。一気に香純と俺との距離が遠ざかっていく。少し前まで、そんなに変わらなかったのに。同じ歩幅で歩いていたはずなのに。いつの間にか、俺の前を、ぐんぐんと過ぎ去っていく。




 目の前にいるのは、俺達と同じ学校の制服を着た、普通の高校生なのに。




 午前中に学校が終わった。いつものように香純を誘って帰ろうかと思った。でもできなかった。放課後になると、また朝のように香純への質問攻めだ。香純も香純でまんざらでもない。すっかりちやほやされたい欲に飲まれている。完全に天狗だ。


 俺は我先に教室を出た。なんだか、異世界に来たみたいだ。疲労がどっと身体を襲う。おまけに8月の残暑が大地を焼く。


「あっつ」


 自販機で買ったお茶も底を尽きた。買って2時間ほどしかしていないのに。外へ出るついでに、自販機に寄った。同じ種類のお茶を買い、ごくごくと喉に通らせた。今ので5分の1ほどがなくなった。


「ここにいたんだ」


 香純の声だ。振り返ると、すぐ後ろにいた。香純は覗き込むように俺を見ていた。


「なんでここにいるんだよ」

「別にいいじゃん。私も喉が渇いたんだよ」


 香純も俺と同じものを選び、口にした。しかし、改めて見てみると、制服姿の香純って、こんなにも可愛いものだったっけ。


「なーに見てんの」

「いや、別に」

「ははーん、さては私の可愛さにようやく気付いたな? 愚か者め」

「誰が愚か者だ」


 俺は香純の頭に一発軽くげんこつを入れてやった。あぅ、と香純は変な声を出した。いつものことだ。


「教室、いつもと違ってたな」

「うん。少し怖かった。みんな、今まで何を見てたんだろうって」


 そこにいたのは、さっきまでの底抜けに明るい香純ではない。少しだけ目が曇っていた。声のトーンも、さっきより低い。


「だって、今ここにいる私は、モデルなんかじゃなくて、今まで通りの私だったのに、何か、私がモデルになった途端、急に態度が変わってさ。あ、もちろん今まで通りの人もいたよ? でも、なんだろう、どこか、フィルターみたいなものを感じた」

「その割には、随分と楽しそうだったように見えたが?」

「楽しいよ。楽しかったよ。でも、なんか違和感っていうか、パラレルワールドに迷い込んだ、みたいな、そんな感じ」


 香純も一緒だった。俺が抱いていた感情はやはり間違いではなかった。もしも香純が辛くなった時、守ってやれるのは俺しかいない。だから俺は、いつも通りであり続けよう。今まで通りの俺で、香純と過ごす。きっと香純も気休めになるだろうから。


 あの日一緒に出掛けた時から、その片鱗はあった。モデルになった途端、見る人の目が変わった。本人は大して変化していないのに。モデル雑誌に載った、ただだそれだけで周りはこうも変わってしまうのか。


「ま、変なことがあったら、いつでも俺に言え。すぐ駆けつけるから」

「うん。ありがとう、直樹。頼りにしてる」


 頼りにしてる。

 その響きがとても胸に響いた。ジーン、と胸の奥底から幸せの鼓動が聞こえる。


「じゃ、帰るか」

「うん! あ、うち寄ってく? 今日そうめんがあるんだ」

「ああ、じゃあごちそうになるわ」

「やった!」


 こうして2人で並んで歩いていると、心がとても安らぐ。きっと香純がどんな風になっても、この距離感は変わらない。俺はそう信じている。


 香純の家で食べるそうめんは美味しかった。夏の終わり、実はそうめんを食べるのはこの夏初めてだ。手が止まらない。ズルズルと、俺は夏の風物詩を堪能した。

 その時、香純の家の固定電話が鳴って、おばさんが出た。


「あの時は娘がお世話になりました」


 最初、おばさんの言っていることはわからなかったけれど、すぐに相手があの時のスカウトマンだと悟った。まさか、香純を本気でスカウトしに来たんじゃないだろうな、なんて一抹の不安を抱えながら、俺はそうめんを啜る。


「香純、代わりたいって」


 その後、電話は香純に代わった。何の話をしているのかはわからない。だが、話す度に香純の顔が徐々に曇っていくような、そんな感じがした。


 電話を終えた香純にいつもの笑顔はなかった。


「何言われたんだ?」

「ううん、なんでもない。心配しないで。ちょっと、冷静になってくる」


 それだけを言い残し、香純は自室に閉じこもった。俺とおばさんが何度も声をかけるが、反応は「今一人になりたい」の一点張りだった。おばさんは何か勘づいたところがあるらしいけれど、俺にはわからない。


「今日は帰ります」


 申し訳なさそうに見送るおばさんを背に、俺は香純の家を後にした。

 きっと何かある。それは間違いないのだけれど、香純のことだからはぐらかされるんだろうな。なんて考えながら、暑い田舎道を歩いて帰った。

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