第9話「選んだ道」
香純のあの曇った顔が頭から離れない。あの電話が香純を変えてしまった。何があったかを知りたいが、あいつのことだから「なんでもない」の一点張りで帰されるだろう。事実今日の感じもそうだったから。
悶々としたまま俺は自室で英語の問題集を解いていた。が、進まん。香純のことが気になってそれどころではない。
ちらりと隣に置いてあるスマートフォンを見た。が、特に反応はない。こっちからメッセージでも送ってみるか、と思ったが、返ってくる言葉はおおよそ見当がつく。
「……ダメだな、俺」
香純に関しては異様に過保護になってしまうようだ。俺はスマホを手に取り、香純に電話をかける。いつもよりもコールが長い気がした。
『もしもし?』
電話越しに聞こえるアイツの声は少し元気がないようだった。能天気なようで、実は繊細だ。それをわかっているから、容易に声をかけられない。
「今日の昼のことなんだけどさ……」
『あ、うん。直樹には関係ないことだから、別に気にしなくていいよ』
まあ、そうだろうな。そう来ると思っていた。
「でも、俺はお前のことが心配だから」
傷つくときはとことん傷つきやすい。それを悟られないように、普段は明るく振る舞っているのだろう。長年の付き合いがあるから、幼馴染が苦しんでいるかどうかなんて赤子の手をひねるくらい簡単だ。
「お前が何か抱えているなら話してほしい。多分相談するだけでも楽になると思う」
我ながらなんて無神経な言葉なんだろう。だけど俺は自分の気持ちを優先した。あいつが何で苦しんでいるのかを知りたい。そして支えたい。こんな自分本位な思考でどれくらい香純が傷つくかなんて、考えていなかった。
電話の向こうからは何も声が聞こえなかった。俺も黙って香純の言葉を待つ。この沈黙の時間は永遠とも思えるくらい長かった。やはり傷つけてしまったのだろうか。そんな不安がグルグルと脳内を駆け巡る。
『……私の中でも、全然まとまってないからさ、なんていえばいいのか全然わかんないけど』
自信のなさそうな声だった。いつもの朗らかな明るさはどこにもない。香純の中には相当大きな怪物が棲みついているいることがわかる。
「それでもいいから、話してみ」
『うん……』
あのね、と続けられたその言葉に、俺は何も言えなかった。
『本格的にモデルデビューしないかって、言われて』
…………は?
いやいやいやいや、待て待て待て待て。
編集雑誌の奴は何を考えているんだ? 香純が? モデル? 本格的に? ありえない。だって、香純だぞ。こんな田舎娘だぞ。務まるはずがない。
「それ、マジ?」
『うん』
声の調子から見て、どうやら嘘ではないことがわかる。それもそうか。こんなタイミングでそんな嘘をつくメリットもない。
『それでね、東京に来ないかって誘われて、今凄い迷ってる』
その誘いは、この場所を離れなければならないということを暗示していた。この田舎から東京までは、日帰りで行けるような距離ではない。東京で活動するとなると、今まで通えていた高校だって通学が難しくなるし、移動に金がかかる。
でも、迷ってるってことは、香純の中でもモデルをやりたいという気持ちが少なからずあるということだ。
「モデル、またやりたいんだ」
『うん。結構楽しかったし、私のやっていることが誰かを喜ばせているんだったら、私はやりたい。でも、まだこの町を離れたくない』
きっと俺達はこのまま何事もなく高校生活を終えて、大学進学のためにこの町を離れて、そのまま大人になっていくのだろう。そんな呑気なことを考えていた。だけど現実はいつも唐突にやってくるものだ。
「高校卒業まで待ってもらえないの?」
『それだとデビューする頃にはもうみんな忘れてる可能性が高いって言われた。やるなら早い方がいいって」
どうやら俺の想像以上に香純の評判は高いらしい。なんでも素朴さの中にある純真な輝きに惹かれている人が多いのだとか。なんだそれ。田舎娘だからって何でも言っていいと思っているのか。
今すぐに反対したかった。けど、俺がそんなことをいちいち口出す義理はない。香純の問題だ。だから、香純が答えを選ぶべきなんだ。
「それで、香純はどうしたい?」
『それがわかんないから迷ってるんだよ……』
俺もどう声をかけてあげればいいのかわからない。問題集を解く手はいつの間にか完全に止まっていて、シャーペンを机の上に放棄している始末だ。
支えになってあげたい。けれど、俺に何ができるだろう?
「どうすりゃいいんだろうな……」
その言葉は香純に向けたものではなく、自然と出てしまったものだった。俺のことでもないのに自分のことのように考えてしまう。どうしてだろうな。
『もう、なんで直樹がそんなに悩んでるの?』
「なんでだろうな。俺もよくわからん」
香純の声が少しだけ明るくなった。俺も少しだけ嬉しくなった。
『でもこれは私の問題だから、直樹はあんまり肩入れしなくていいよ』
「それでも相談できるんだったらしてほしい。少しは肩の力が抜けるかもしれないだろ?」
『うん、それもそうだね』
復調、とまではいかないけれど、香純はあの電話の時よりは幾分か明るくなった。あとは本人の問題だ。
俺は電話を切り、問題集に再び手を付けた。
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