アメーバ診療録
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アメーバ診療録
目次
Ⅰ. 症状
Ⅱ. 急患
Ⅲ. 診断
Ⅳ. 経過報告その①
Ⅴ. 経過報告その②
Ⅰ. 症状
思春期以来、僕は原因不明の頭痛に悩まされてきた。頭痛といっても、ズキズキと痛む訳ではない。眉間から頭頂部にかけて、妙に窮屈な感じがするのだ。脳が膨張して、頭蓋を内側から圧迫している、とでも表現すれば伝わるだろうか。普段は、いちいち説明する訳にもいかないので、平易に頭痛と表現することにしている。
これが始まると、僕は日の光に耐えられなくなる。晴れた日に散歩をしている時などは、途端に日差しが強まったように感じ、身体が真っ白に焼けていく様が思い浮かぶ。陽気に浮かれる人々が異質な存在に見えてきて、はやく逃げろと心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなり、得体の知れない重力が肩に乗しかかる。こうなると、僕は何が何でも家に帰らざるを得なくなる。最寄りの駅に駆け込み、車内の澱んだ空気に吐きそうになりながら、端の席で身を縮こませる。家に着いたら、震える手で鍵を開け、部屋に転がり込むとさっとカーテンを閉め、そのままベッドに身を放る。薄暗い部屋で仰向けに天井を眺めていると、次第にパニックは治まってくる。僕はこの発作を恐れて、今ではすっかり外出嫌いになってしまっていた。
更に厄介なことに、僕の頭痛は日陰にいる時でさえ不自由をもたらすのだ。部屋に逃げ込んでも、頭痛は完全に治る訳ではなく、大抵2、3日ほど継続する。外出をしない時、人は読書をしたり映画を観たり、料理したり音楽を聴いたりするが、頭痛が続いていると、こうした文化的な活動はとてもできない。黒い靄が掛かったように頭の働きは鈍くなり、何事に対しても拒絶感を抱いてしまう。本を開けばバーコードを眺めているようで殆ど解釈できず、映画は30分も集中が続かず、食欲が湧かないので料理はしないし、音楽はクラシックですら耳障りに聞こえる。かといって、布団を被っても1、2時間で目が覚めてしまうので、宙ぶらりんの時間をただ無気力にやり過ごすしかないのだ。僕は自分があまりにも惨めったらしくて、頭を掻きむしる。
「ちくしょう。何もかもこの頭がいけないんだ。ここに一丁のピストルがあれば、頭を撃ち抜いて靄を追っ払ってやれるのに!」などと、うずくまって下らない妄想を並べ立てる。
僕は頭痛を治す術を知らない。医者に薬をもらったこともあったが、何種類か試してみて、効果がないことが分かった。そのくせに、この症状はしばしば取るに足らないことで寛解する。先日などは、表の自販機に1000円札を入れたところ、500円玉を含めて釣りが返ってきたことで、頭の靄は綺麗さっぱりと掻き消えた。100円玉が8枚も出てくるよりは都合が良いが、その程度の良し悪しが、なぜ僕の調子をひっくり返してしまうのだろうか、およそ見当がつかない。
頭痛がしない時は、僕も人並みに活動できる。会社にも通えるし、友人と飲みに出かけることもある。そうした時間は有意義に感じるし、敵を作る性分でもないので、他人から危害を加えられることもない。頭痛のことは、あえて打ち明けるような話でもないだろうと考えて、誰かに相談したことはなかった。
Ⅱ. 急患
ある月曜日、いつもより数段ひどい頭痛で目を覚ました。内容は忘れたが、悪夢を見ていたのを覚えている。身体中が汗でびっしょりと濡れていた。この時ばかりは、文字通りの頭痛が頭を締め付けていた。風邪を引いたかと思い、体温を測ると平熱だった。鼻水も出なかった。頭痛の他にひどかったのは咳だった。何かが喉に支えている感じがするのだが、洗面台に唾を吐いても痰は出てこなかった。喉元の違和感を何とか追い出したくて、涙目になりながらも咳き込み続けたが、揺さぶられた頭に痛みが響くだけで、一向に良くならなかった。
僕は会社に電話をかけ、月曜日だからと仮病を疑う上司に必死で訴えかけ、その日は休むことにした。病院に行くため、僕は身支度を始めた。寝衣から着替える間、何度も激しい咳が込み上げて、身体を折った。うがいをした時は、口に含めた水を吹き出してしまった。肺炎にでもなったかと思うと、不安が押し寄せた。それに呼応して、頭はますます重くなった。一刻も早く病院に駆け込みたかったが、いよいよ咳が止まらなくなり、僕は洗面台から離れられなくなった。鏡に映った僕の顔は蒼白で、首筋には血管が浮き出ていた。まともに呼吸ができず、意識が朦朧としてきた。
100回はとうに咳き込んだ頃、ようやく喉元の支えが動いた感じがした。嘔吐する直前の、やっと楽になれるという歪な安心感を得た。更に5、6回ほど咳き込むと、ついに僕は黒い塊を勢いよく吐き出した。僕はそれだけ認めると、膝から崩れ落ちて、その場にうなだれた。口元から涎を垂らし、ぜえぜえと息を切らす様は、さぞかし狂犬のようだっただろう。
呼吸を整えた後、一旦キッチンで水を飲んだ。洗面台に戻った僕は、吐き出した黒い塊を恐る恐る覗き込んだ。血の塊かと思っていたそれは、なんと微かに脈打っていた。あまりの気持ち悪さに、全身に鳥肌が立った。塊には、目や口など、器官と見做せるものは何も無かった。真っ黒に澱んだヘドロに、命が宿っているかのようだった。僕は昨日食べたものを思い出してみたが、これほどグロテスクなものを口にした覚えはない。このヘドロは一体何なのだろう。考えを巡らせた僕は、ある1つの、非常に受け入れ難い可能性に思い至った。もしやこれは、寄生生物の類なのではないだろうか?嗚呼、なんてこった!
僕はゴム手袋でヘドロを掬い取って小瓶に閉じ込め、大急ぎで車を出した。初めは咽頭科に向かおうとしたが、もしヘドロが寄生生物なら、体内を食い荒らされてるかも知れないと恐れ、総合病院で診てもらうことにした。
僕が停めた車は、駐車区画からだいぶはみ出してしまっていたが、構わず受付に突撃した。すっかり冷静さを失っていた僕は、受付嬢に向かって捲し立てた。
「あの!そ、その、今朝ヤ...ヤバいものが口から出てきたんですけど!...これって、んな、何科に行けば診てもらえるんですか?!」
「お、お客さま、どうか落ち着いてください!ヤバいものって、一体なんです?嘔吐ですか、それとも吐血ですか?」
「き、寄生虫ですよ!く、く、黒くて、うねうね気持ち悪くて...み、見れば分かるから!」
僕はカバンに手を突っ込んで、ヘドロが入っている瓶を漁った。後で思い返せば、僕の表現は直接的すぎた。ロビーにいる皆が僕に白い目を向けているのは、背中を向けていても感じ取れた。可哀想に、こんな僕の相手をしている受付嬢の顔にも、一体何を見せびらかされるのかという恐怖が浮かんでいた。
「ほ、ほら!う、う、動いてる!」
僕が瓶を机に叩きつけると、女はきゃっと声を上げて両手で顔を覆った。指の隙間から、遠目に瓶を覗いている。差し出されたものが存外小さかったことで多少警戒を緩めたのか、彼女は恐る恐る瓶を手に取り、中身を確認した。
「何ですかこれ......きゃぁぁぁぁぁあ!」
女は絶叫して瓶を落としてしまった。近くにいた2人の男性スタッフが、さすがに放っておけなくなって駆けつけてきた。1人は女に駆け寄り、もう1人は僕を羽交締めにした。彼は僕を、明らかに変質者だと見做していたようだった。無理もない。
「や、ヤダぁ!キモい!キモいキモいキモいぃぃぃい!」
女はショックのあまり、言葉遣いすら乱暴になってしまっていた。
「君、一体何しにきたんだ!この気持ち悪いものは、何なんだ!?」
女を介抱している男が、厳しく問い詰めてきた。女を驚かせてしまったことで我に返った僕は、努めて冷静に振る舞おうとした。
「驚かせてしまって、すみません。僕も慌てていたもので。その瓶に入ってるものは、僕が今朝口から吐き出したものなんです。目が覚めた時から咳がひどくて、それがずっと喉につっかえていたんです。ただ僕には、一体そいつが何なのか分からなくて、動いているから寄生虫かなと早合点してしまって...」
「ちょっと、見せてくれるかな。」
集まってきた人だかりの中から、白衣を着た壮年の男性が進み出て、男から瓶を受け取った。
「おお、これは珍しいね。」
白衣の男は気味悪がる様子もなく、しげしげと瓶の中のヘドロを観察していた。皆の視線は、今や彼に注がれていた。やがて、納得したような顔で、白衣の男は申し出た。
「僕が診よう。」
白衣の男は外科医だった。僕は外科の待合室まで案内され、彼から問診票を手渡された。よほど重大なケースなのか、問診票は10頁近くもあった。朝食を食べる暇もなく飛び出して来たので、僕は疲労困憊の最中だった。しかし、これで決着が着くならばお安い御用だと自らを鼓舞し、問診票の質問に対して、神経質なまでに詳細に答えた。
Ⅲ. 診断
「さて、諸々の検査お疲れ様でした。今朝はさぞかしびっくりしたでしょう?咳が止まらないと思ったら、あんな気色の悪いものが口から出て来たんだもんね。誰だってパニックになるよ。顔色を見る限り、少しは落ち着いたようだね。安心したよ。あ、受付の娘のことだけど、僕の方から事情は説明しておいたから、気にしなくて良いよ。
えー、では、まず。結論から言うと、君が吐き出した黒いやつは、君がさっき言ってた通り、寄生生物の一種です。より正確には、アメーバの仲間ってとこだね。昔、理科の授業で観察したこと、あったんじゃない?ちょっとショックだろうけど、あれが、君の脳に寄生してました。ああ、ちょっとちょっと。どうか落ち着いて、最後まで話を聞いてほしい。いいかい。幸いなことに、このアメーバは命に関わるようなヤツじゃないんだ。ほら、ここにさっきの検査結果があるけど、一切異常なしだったから。だから、目下君の命は無事だってことね。
それじゃあ、順を追って説明していくね。問診票をすごく詳しく書いてくれたから、僕も説明がしやすいよ。えっと、高校生の時から、君は頭のモヤモヤに悩まされてたんだね?このモヤモヤというのが出ると、君は明るい賑やかな場所に居るのが嫌になって、暗い部屋に閉じこもってしまう。モヤモヤは大抵2、3日続いて、その間は読書とか映画鑑賞とかがまるっきりできなくなってしまう。一方で、ちょっとしたきっかけでこのモヤモヤはさっぱり消えて、それからは人並みに仕事したり、友達と談笑したりもできるんだよね。
これだけ判断材料があれば、外科が専門の僕でも、精神的な不調もしくは病気なんじゃないかって思うよ。実際君は、すでにそちらの病院には罹っているしね。でも結局、薬を飲んでも治らなかったわけだ。それもそのはずだね。君のはただの鬱症状じゃないんだもの。
その原因こそ、このアメーバって訳だ。正式には、サイコアメーバって言うんだけどね。こいつはほんの数年前に発見されたばかりの新種で、僕らの間でも詳しい人間は少ない。国内では、君含めて5人程度しか発見例がない。まだまだ研究途中の生き物なのは間違いないけど、国外のケースも含めて、こいつが原因で亡くなった人は1人もいないから、そこはひとまず安心してね。それで、こいつの生態についてなんだけど、今のところ分かっているのは、
①ホルモンバランスの不安定な思春期前後のヒトを嗅ぎ分けて空気感染する。
②感染後は、血管を通じて脳まで移動した後、蜘蛛の巣状に形態を変化させて脳組織に張り付き、分泌されるセロトニンを栄養素とする。宿主はセロトニン不足により、うつ病に似た症状を呈する。
③極小サイズかつ毒素を分泌しないので、宿主の生死に関わる実害は持たない。
④繁殖行動に関しては、現在確認されているケースに限っては確認されていない。
⑤何らかの経緯で脳組織を離れ、血管を通じて咽頭内部に移動し、宿主が咳き込むことで口から吐き出される場合がある。
とりあえず君に説明しておきたいのは、この5つかな。セロトニンっていうのは、君が幸せを感じているときや日の光を浴びているときに、脳から分泌されるエキスのことだ。このセロトニンの分泌に変調を来して、気分が落ち込んでしまうという点では、一般的なうつ病とも共通している。
さて、以上のことから分かることは、君は高校生の時にサイコアメーバに感染して、それ以来うつ状態になってしまった。その間君の身体は、セロトニンを食べられてることを除いては無事だった。そして今朝、理由は分からないけど、この不思議なアメーバくんは君の喉元にひょっこりと顔を出して、君に吐き出された、ということだね。
今の説明で補い切れていないのは、君に寄生したアメーバはどこから来たのか、そしてなぜ今朝になって君の身体から出て来たのか、という2点だね。しかし残念ながら、どちらも検討がつかない。まず前者からだが、他の患者さんのケースでも同じらしい。君が通っていた高校の関係者、もしくは付近に居住していた誰かが、サイコアメーバに感染したケースは、国内外のケースの中にはなかった。そもそも、こいつが自然由来なのか、はたまた人口由来なのか、それすら不明なんだ。後者については、サイコアメーバがヒトの体外でないと繁殖できないからではないかという仮説が上がってたんだけど、今まで確保されたアメーバは、それらしい動きを見せることもなく全部死んじゃってるんだよね。君が吐き出したアメーバくんは、僕らが責任を持って管理することになるけど、たぶん同じ結果になるんじゃないかなあ。
さて、説明が長くなったね。ここまでのところで、何か質問はあるかな?うん、なるほどね。たしかに、日の光を浴びるとセロトニンが分泌される訳だから、サイコアメーバにとっては都合がいいもんね。宿主が部屋に隠れちゃったら、せっかくのランチタイムが台無しだ。これに関しては、人混みの中にいることや、苦手意識を持ちながら外出をすることによってストレスを感じて、その結果動悸や息苦しさが生じたというのが、一番納得のいく解釈なんじゃないかなあ。たしかに寄生虫の中には、宿主の行動を都合よくコントロールできる連中もいるけど、少なくとも今までのケースでは、サイコアメーバがそうした強制力を持っていると確認できる例はないね。今後、君が外出した時の具合を見て、やっぱり問題があるようなら、この病院の精神科の先生に相談するといいよ。彼なら親切に話を聞いてくれる。あ、そうだ。ひょんなことでモヤモヤが晴れるっていうのは、アメーバの活動が弱まったタイミングと重なっていたからだと思うよ。彼らの活動ペースには、ざっくりとした周期があるみたいだ。
それじゃあ、他に質問がなければ、話をまとめさせてもらうよ。君は、今朝アメーバを吐き出したことで、今の時点では全くの健康体です。良かったね。メンタルの方も、他のケースを見る限り、アメーバを吐いちゃった後は皆んな元気になってるみたいだから、恐らく改善されるんじゃないかな。
続いて、今後のことを話すね。今まで繰り返し、君の身体は大丈夫だからとは言って来たけど、万が一があるといけないから、しばらくの間は定期検診を受けてもらいます。アメーバ由来だと思われる損傷が見つからなければ、もちろんノープロブレムです。それと、これはお願いなんだけど、時間がある時でいいから、たまに僕が入ってる学会のウェブサイトを見てほしいんだ。サイコアメーバの研究について、いつでも閲覧できるようになっているから。もちろん、患者さん向けに噛み砕いた資料は用意してあるから、何か不安なことがあればそれさえ見てくれれば大丈夫。検診のスケジュールと、ウェブサイトの詳細については、また後で案内させてもらうね。
それじゃ、今日のところは以上です。お疲れ様!どうぞお大事に〜。」
Ⅳ. 経過報告その①
それから半年後、僕は最後の検診を終えて病院を後にした。今回の検診でも、僕の身体には異常は見つからなかった。今後も健康ならば、あのお喋り好きな医者と会うことはもうないのだと思うと、少しだけ寂しかった。
アメーバを吐き出した日からしばらくは、あの気色悪いヘドロが身体の中にいたことがショックで、食欲が落ちて気分も優れなかった。しかし、医者に案内されたウェブサイトで情報を得ているうちにアメーバ慣れしていき、一週間程度で調子が戻った。
それから僕は、人生の素晴らしさを徐々に取り戻していった。部屋にいる間は、たくさんの本や映画に触れ、大好きだった音楽を聴きながら美味しい料理を作った。やがて外出もできるようになり、晴れた日には好きな街へ出掛けて行き、買い物や散歩を楽しんだ。なぜあれほど日光を忌み嫌っていたのか、思い返せば不思議なくらいであった。次の夏には、まだ行ったことのない沖縄にまで旅行した。職場の人間やプライベートの友人からも、前より表情が明るくなったと、よく言われるようになった。
一方で、もしあのアメーバに寄生されていなかったら、僕はもっと豊かな青春を送ることができたんじゃないかと考えてしまいそうになることは、時々あった。しかし目を向けるべきは、短い半生よりも、恐らくまだたっぷりある残り時間の方だ。僕は、いつか振り返った時に、今が懐かしい過去になっているように、これからは生きていくつもりだった。そうすれば、頭にアメーバを抱えて過ごした過去は、きっと精算できるだろう。これは、例の医者が授けてくれた知恵だ。
Ⅴ.経過報告その②
さらに20年が経つと、僕は会社の管理職に就き、プライベートでは賑やかな所帯を築いていた。もう青春を悔いたりはしないし、順風満帆な人生を享受していることは間違いない。一方で今の僕は、アメーバを吐き出してから直後に感じていた多幸感に、すっかり順応していた。そして、カバンの中に大事な荷物が増えたことで、気苦労を感じることが増えた。時折、アメーバが僕に巣食っていた時のような、陰鬱な静けさが訪れることもある。アメーバの研究サイトは未だに更新を続けているが、僕以来も新しい患者は殆ど見つからず、依然研究は滞っているらしかった。
ある朝、僕は通勤電車の中で他の乗客たちを眺めていた。その日が月曜日だったからか、老若男女問わず、皆憂鬱そうに見えた。スーツを着た男たちの中には、額に汗を垂らしながら苦悶の表情を浮かべている、明らかに具合の悪そうな者がいた。彼の膝下の座席に腰掛けている女子大生らしき娘は、しきりにスマートフォンを操作していて、時折ため息を吐いていた。一番僕の関心を惹いたのは、僕が乗る車両の端の座席にいる青年だった。彼は虚な目で窓ガラスにもたれていた。電車が地下を出て車窓から日差しが入ると、彼は酷く嫌そうな顔をして背中を丸めた。とても息苦しそうで、脈を見るためか胸に手を当てていた。
その姿に、僕は若かりし頃の自分を重ねずにはいられなかった。彼の頭には、ひょっとしたらサイコアメーバがいるんじゃないだろうか。きっと、常日頃からアメーバにセロトニンを食われていて喜びを忘れてしまい、結果疲弊しきった心が、彼を苦しめているに違いない。彼に声を掛けるか迷ったとき、僕はふと思い至った。もしかすると、今この電車に乗っている人々は皆、頭にアメーバを飼ってるんじゃないか。僕みたいにアメーバを吐き出すことがなかったから、あんなにも辛そうな表情をしているんじゃないか。最近の研究でもアメーバの生息域は分かっていないようだったが、実のところ奴らはとっくに人間社会に侵攻していて、その大多数が宿主のセロトニンを貪り食っているのが現状なのではないか。
いや、疑問を向けるのは、むしろ僕自身なのかもしれない。サイコアメーバが感染拡大しているとして、なぜ僕とその他僅かな患者だけが、アメーバの支配から逃れることができたのだろう。そもそも、アメーバなどというものは、実在する生物なのだろうか。医者が教えてくれたサイトは、れっきとした研究成果を載せているようだが、いくらサイコアメーバが希少だからといって、これだけの長期間かけても基礎的な生態すら把握し切れていないというのは、余りにも非現実的ではないだろうか。
僕はすっかり動揺して、心拍が高まるのを認めた。ミイラ取りがミイラになってしまった。堪らなくなった僕は、一旦下車してホームのベンチに身を預けた。僕はだらしなく足を広げて仰け反り、呼吸を整えた。
身動きが取れるようになると、僕はスマートフォンで例のサイトにアクセスした。最後に閲覧したのは、確かひと月ほど前だったはずだ。もしかしたら今頃になって、僕の疑問に答えてくれるような新発見が載っているかもしれない。果たして、サイトは更新されていた。しかし最新記事の内容は、最後に確保されたアメーバが、またしても死滅してしまったことだけを綴る、箸にも棒にも引っかからないものだった。この有様にはさすがに笑ってしまった。ばあっかばかし!
ホームの電光掲示板を見ると、次の電車はまもなく到着予定だった。会社には充分間に合うだろう。まったく、何がサイコアメーバだ。そんなものがいてもいなくても、人間辛い時は中々抜け出せないこともあるものだ。
だからこそ、あのお喋りな医者は、僕に金言を授けてくれたのだ。そのお陰で僕は、今まで楽しんだり苦しんだりしながら生きてこれた。
電車が到着した。開戸の窓に僕の顔が映る。40代も半ばに差し掛かったこのおっさんが、ついさっきまでカルトじみた狂気に陥っていたのだと思うと、滑稽すぎて笑えてきた。僕はすっかり機嫌を良くして、陰鬱な月曜日に再び乗り込んだ。
以上
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