体育倉庫ランデブー

姿月あきら

体育倉庫ランデブー

 ――夏は嫌いだ。蒸し暑いからいつも汗にまみれることになるし、だからといってエアコンの効きすぎた部屋に居れば風邪を引く。セミの鳴き声はうるさくてしょうがないし、正直虫は苦手だ。それでも、夏の空は好きだった。真っ白く厚い雲と青い空のコントラストが、小さい頃からいくら見上げても飽きなくて、そのくせずっと見つめていると、少し胸が苦しくなる。……この意見はちょっと詩的すぎるかもしれない。


「おい、夏原なつはら!」


 僕が夏を嫌いなのは苗字のせいでもある。「夏原」だなんて苗字のせいで、「サマーマン」とか「夏男なつお」だとか、変なあだ名を付けられてきたからだ。さすがに高校に入ってからはなくなったが。

「なんだよ?」

 帰ろうとしていた僕を呼び止めたのはクラスメイトの中畑で、中畑は夏休み前だというのに部活のせいですでに日焼けした肌を晒していた。黒い肌と白いシャツ、そして真っ白な歯が対照的すぎてちょっと面白い。

「平岡センセが呼んでたぜ。職員室」

「おー。サンキュ」

 平岡先生は自分たちの担任ではない。体育教師で、学年主任。ちょっと厳しいので、不良、というかチャライ奴らはよく注意されていた。僕は先生に怒られるような覚えは無いのだが……。


 職員室で僕を待っていた平岡先生の周りには、いくつものダンボールが積まれていた。そして、僕以外にも何人かの生徒が集められていた。顔ぶれを見て、ピンと来た。――体育委員の二年生か。

「おお、夏原来たか。それじゃ、悪いんだがみんなでこのダンボールを体育倉庫まで運ぶのを手伝ってくれないか」

 僕が最後だったようで、ジャージ姿の先生がみんなを見渡して言った。確かにこの量のダンボールを一人で運ぶのは大変だろう。中には野球のボールやミット、テニスやバドミントンのラケットなどが入っていた。僕達はそれぞれ頷いて、先生の指示に従った。


 先生を入れて五、六人でダンボールを担いで校庭を横切って歩く。夏の日差しは容赦なく肌を照りつけて、肌がちりちりと焦げていくのが分かるようだった。もうすぐ運動部の活動も始まるだろう。僕は美術部で好きなときに絵を描くだけだから、毎日外で運動するような連中の気が知れない。ダンボールを運ぶだけで、もう汗が背中を伝って気持ちが悪いというのに。早く帰って冷房のもとゲームでもしたいところだ。走るなんてもってのほか。

 校庭の隅にある体育倉庫に着くと、先生が鍵を開けて、閉まっていたドアを全開にした。僕達は先生の後に続き、せっせとダンボールを体育倉庫に運び込み始める。体育倉庫は思ったより涼しくて、そして埃臭かった。

 一つダンボールを運んだらまた職員室に戻り、また一つダンボールを運ぶ。そんな単純作業を二三度繰り返し、僕達は解放された。それだけの運動で汗だくになって、もうくたくただ。情けない……。

 少し休んだら、帰ろうと下駄箱まで歩き出した。もう夕方なのにまだまだ外が明るい。冬だったらもう空がオレンジ色に変わっていてもおかしくないだろう。夏は日が長い。そんな所も気に入らない。

 ふとメールでも確認しようかと制服のズボンのポケットに手を突っ込み、中を探った。

「?」

 携帯電話のあの硬くて薄い手ごたえが無い。もしや、と僕はかばんを大きく開き、ごそごそと携帯を探した。格闘すること二分くらい。

「……無い」

 ――おいおいおいおいっ!

 どうやらどこかで落としたらしい。僕は慌てていつ落としたのかを考え始めた。急な不安に心臓がばくばく音を立て始める。早急に見つけなければ。僕は急いでもと来た道を戻り始めた。


 職員室、教室まで見回って、見つからない。これはいよいよ体育倉庫に行かなければならないようだ。教室から窓の外を覗き込むと、校庭ではサッカー部が駆け回ってボールを追っていた。目を凝らすと体育倉庫が開いているのが見える。これなら鍵を借りに行かなくても済みそうだ。もし体育倉庫でも見つからなかったら……そのときは、そのときだ。

「よし!」

 一つ気合を入れて、僕は足早に歩き出した。



 夕方五時を過ぎても、空の色はまだまだ青く、日差しは明るかった。やっぱり外は暑い。顔から頭から汗が流れ出して、この上なく不快だ。タオルを忘れたのでその度に腕でぬぐうのが辛い。シャツが背中に張り付いて、思わず顔をしかめた。

「どうか見つかってくれ……」

 半ば祈りながら校庭を横切り、開いたままの扉から体育倉庫にこっそり入り込んだ。薄暗い中振り返ると、入り口から入ってくる日差しがまぶしい。中はさっきより暑くなっていた。ひんやりした空気を少し期待していたのに。埃臭さだけは変わらない。もわっとした空気に閉口する。

「失礼しまーす」

「どうぞー」

「……!?」

 返ってくるはずの無い返事が聞こえて、僕はその場でフリーズした。携帯を探して下を向いていた顔を上げれば、そこには見知らぬ女の子の顔があった。

「え……」

「どもー」

 彼女はなぜか制服姿で体操用マットの上に上半身だけ起こして寝転がっていた。僕のことを興味深げに覗き込んだかと思えば、すぐに僕から顔をそむけてそのまま寝てしまう。

「……」

 ――なんなんだ、この子は。

 仕方がないので、僕は彼女を無視して携帯を探し始めた。ダンボールが積み上げてあるあたり、跳び箱の裏、マットの下……は彼女がいて確認できないので、平均台の下、ハードルの下……。何も見つからない。僕はその場で一度伸びをして、盛大に溜息をついた。職員室か事務課に落し物の届けを出しに行ったほうが良いかもしれない。

「ねえ」

 小さな声が背後から聞こえて、振り向けば「彼女」がまた上半身を起こして僕を見ていた。

「探し物してる?」

 見りゃ分かるだろう、というツッコミを我慢して頷けば、彼女はにこりと笑って、スカートのポケットから何かを取り出した。

「それってこれじゃない?」

「!」

 それは紛れもなく僕の携帯だった。青い本体に、友人からもらった餃子のストラップ。彼女は僕にそれを差し出した。

「これ、入り口のあたりに落ちてたよ」

「どうも……」

 僕はそれだけ言って携帯を受け取った。彼女はそのままマットの上に寝転んだままだ。こんなところにずっといて、暑くはないのだろうか。

 しばらく黙ったまま立ち尽くす僕に、彼女は寝転がったまま顔を向けて、首をかしげた。

「?」

「あー、その……何してんの?」

 僕の質問に、彼女は少し驚いたような顔をした。身体を起こして、女の子座りをして僕に向き直る。

「そんなこと気になるの?」

「あ、いや別に。言いたくないなら良いけど」

「日陰ぼっこしてたの」

「……は」

「日陰ぼっこ。ここ昼寝するのにちょうど良くてさ」

 ……彼女はちょっと人とズレているようだ。

「ここ座ってみなよ。出口から見える景色、良いからさ」

 僕はしばらくためらってから、マットの上の彼女の隣に座った。――こうなったら流れに乗ってみるのもアリかもしれない。

「……失礼します」

「どうぞどうぞ」

 彼女の隣に座り出入り口に目を向けると、薄暗闇の中で、青空と校庭が長方形に浮かび上がって見えた。

「ほおー」

 自分が暗がりにいるからか、外がとても眩しく、はっきりと見えるのだ。――影と光のコントラスト。青い空、白い雲に薄茶色の地面。そして少し遠くのほうで走り回るサッカー部員と白黒のボール。……このまま絵にしてみても良いかもしれない。


「ね?」

「……ああ、うん」

 しばらくしてから、隣で得意げな顔をする彼女のことを、僕は何も知らないことに気がついた。

「あー、えっと。名前聞いても?」

 我ながらたどたどしい。彼女は一度笑ってから、わざとらしく腕を組んで見せた。

「人に名前を聞くときは、先に名乗りたまえよ少年!」

 ――めんどくさっ。……いやいや、言われてみれば当たり前の話だ。

「二年三組、夏原祐介」

「私は四組の笠松春子。あ、私も二年生ね。よろしくなっつん」

「なっつんはやめてくれ」

「ジョークだよジョーク。夏原君、いい名前だね。夏って感じ」

「そのままじゃないか」


 気の抜ける会話に僕は頭を掻いた。隣のクラスにこんな子が居たなんて知らなかった。僕は外の景色を眺めるフリをしながら、隣の彼女をちらりと盗み見る。小柄で華奢、髪を後ろで縛ってポニーテールにしている。スカート丈は膝よりちょっと上。今更、女の子と体育倉庫で二人きり、という事実に僕は少しどきりとした。

「いつもここにいるのか?」

「うーん、放課後に、サッカー部とか野球部が校庭使ってる間ね。誰も居ないからさ、こっそり入って昼寝してる。開けたばっかりだと涼しいんだよね、ここ。すぐに蒸し暑くなっちゃうけど。しばらくゴロゴロして、誰か来たら跳び箱の裏に隠れたりとかしてる」

「さっきは思いっきり寝てたじゃないか」

「さっきはね、夏原君が『失礼します』って言ったからさ、思わず返事しちゃった。それで、返事しちゃったからには隠れるわけにいかないじゃん?」

 分かるような分からないような……。僕は曖昧に頷いた。

「こんなところにずっと居て、熱中症にならないか?」

「……あー、意外と大丈夫だよ。私身体強いから」

「そーゆー問題なのか?」

 マットの上に座っているだけなのに、さっきから汗がじわじわと肌から染み出してくる。外よりはマシかもしれないが、それでもやっぱり暑い。僕には耐えられない。

額から流れた汗を腕でぬぐって、僕は立ち上がった。そろそろ帰ろう。携帯はもうとっくに見つかったのだから。いつまでもここに居る必要は無いのだ。

「それじゃ、僕はこれで。携帯どうも」

「またね」

 笠松さんはにこりと笑って手を振った。そのあっさりした反応に、ほっとしたようなちょっと拍子抜けしたような。僕は軽く手を上げて挨拶を返して、そのまま体育倉庫を後にした。見上げた空は少しだけ日が傾き始めていた。彼女は明日も居るだろうか。




「こんちわ」

 次の日、放課後帰り際に体育倉庫を覗けば、暗がりで前日と同じように体操用マットをベッド代わりに寝転んでいる笠松さんの姿があった。僕の顔を見て固まった彼女に、先ほど自販機で買った缶のポカリを渡してやる。ついでに僕も別に買った同じものを開けて一口飲んだ。冷たくて美味い。倉庫の中はやっぱり蒸し暑かった。

「飲まないと熱中症なるよ」

 僕の言葉に、彼女は目を丸くした。

「……ありがと」

「どーいたしまして」

 僕はマットの上に、彼女から少し離れた位置で座った。彼女は起き上がり、その場で体育座りをする。出入り口から見える景色は昨日と少し変わっていた。今日はサッカー部ではなく野球部が校庭を使って練習を行っている。相変わらず暑いが、天気は少し曇りがちだ。昨日の方が絵になった。


「夏原君ってちょっと変だね」

 ――君に言われるとは心外だよ笠松さん。

「なんで」

「だって、私に会いにまたここに来た人初めてだよ。……私、変わってるって言われるし」

 自覚はあるのか、と口には出さず、僕はまた一口ポカリを口に含んだ。ちょっと陰のある言い方に聞こえたが、僕はそれをスルーした。重い話はノーセンキューである。

「こっから見る景色、悪くないから」

「ふうん……」

 笠松さんは体育座りをやめて足をマットの上に伸ばした。目に入ったスカートがしわくちゃになっていて、一体彼女がいつもどれくらいの時間ここに居るのか、少し気になった。

「もうすぐ夏休みだなー」

 ぽろり、と意図せず僕の口からこぼれ落ちた言葉に、笠松さんはふふふ、と笑った。

「そうだね。……どっか行くの? 旅行とか」

「いや、たぶん家にこもってゲームするかな。それか適当に絵描く」

「絵?」

「美術部だから」

「へー! それじゃあ、ここからの景色とか描きなよ」

「あー、考えとく」

 僕の適当な返事に笠松さんは真顔で頷いて、それから僕に飲みかけのポカリの缶を手渡してきた。

「ごめんちょっとそれ持ってて」

「ああ、うん」

 おもむろに立ち上がって大きく伸びをする彼女。そのまま柔軟し始めた。短いスカートの中が見えそうで、僕は慌てて視線をそらした。彼女はそんな僕に構わず、首だけをこちらに向け、口を開く。


「夏原君ってさ、夏好きなの? やっぱ」

 ――唐突。


「いや、むしろ嫌いだな。暑いしだるいし、虫とか出るし」

 僕の返事に彼女は柔軟の動きを止めた。信じられない、という顔で僕を凝視している。

「なんで!?」

「いやなんでって……だから」

「花火、海、お祭り! スイカ割り、それからカキ氷! 夏サイコーでしょ!」

 勢い良くしゃべり出した彼女に、僕は面食らった。彼女はつかつかと僕に近寄り、マットの上に座る僕の顔を上からまじまじと覗き込む。

 ――近い、近い!

「夏原君なのに夏が嫌いだなんて……やっぱり夏原君って変!」

 なんだか嬉しそうな顔で言われて、僕はちょっと黙った。なんて言い返したらいいのか分からない。

「……あんたの方がよっぽど変だと思うけど」

「へへ、それは否定しないけど」

「……」

 笠松さんは僕の隣に腰掛けて、出入り口を見つめた。空模様が少し変わっていて、雲がさっきより晴れていた。日が傾いて、遠くの方の空がオレンジ色に染まりかけている。

「私は夏が一番好きだなあ。空が青くて、入道雲がもくもくしてて、見てて飽きないの。それから、蝉の鳴き声とか、プールの塩酸の匂い」

「塩酸じゃなくて塩素だろ。塩酸だったら溶けるわ!」

「そうそうそれだ。塩素!」

「あのなあ……」

 僕は笠松さんにポカリの缶を返すと、マットから立ち上がった。そろそろ帰らないと誰かに見つかるかもしれない。……別に後ろめたいことをしている訳ではないのだが。

「……それじゃ、帰るわ」

「あ、うん。また明日」

 僕は体育倉庫を出ようとして、その寸前で立ち止まった。

「どうしたの?」

「いや、その……夏は嫌いだけど、確かに、夏の空は好きだ。空が凄く青くて、入道雲とか、絵になるし」

 僕の言葉に彼女がどんな顔をしたのか確認することもなく、僕は足早に体育倉庫を出て行った。



 また明日。その言葉は力を持っていて、僕はその言葉に従って、次の日もまた体育倉庫に足を踏み入れた。明日は終業式だ。

「やっほー」

 やはり彼女は僕より先に来ていて、いつものように体操用マットの上で制服のまま寝転がっていた。

「どーも」

 僕の挨拶に彼女は伸びをして起き上がり、その場に座って隣の辺りを手でぽんぽん叩いた。そこに座れということだろう。僕が隣に座ると、彼女は少しいつもと違った様子で、しばらく黙っていた。

「……あのさ」

「?」

「ありがとうね」

「は?」

「こんな風に私に付き合ってくれた人、夏原君しかいないから」

「そりゃどうも」

 彼女は黙って少し笑った。どうしていきなりそんなことを言ったのか……ああ、もうすぐ夏休みで、しばらく会わなくなるからだろうか。僕は薄暗い中彼女の横にコーラの缶があるのに気がついて、かばんからペットボトルを取り出した。中身は水で、自販機で一番安かった奴。

「……嫌いじゃないから」

 前を向いたまま独り言のように呟くと、彼女が僕に視線を向けるのが分かった。

「ここから見える景色も、笠松さんとしゃべる時間も」

 少し照れくさくて目を伏せる。僕は何を言ってるんだ。

「あー、えっと、あのさ」

 話題を変えようと何か言う前に、近くから足音と話し声が聞こえてきて、僕達は一瞬固まった。

 ――誰か来る……っ

「夏原君っ」

 焦ったように名前を呼ばれて、同時に腕を引かれた。



「おーい、新しい硬球ってどこだっけ」

「すぐそこにダンボールあんだろ。その中だってよ」

 野球部員らしい二人組の声が薄暗い体育倉庫に響く。僕たちは倉庫内の一番奥の、八段の跳び箱の裏に息を潜めて隠れていた。どうか見つかりませんように。笠松さんの緊張した顔が目の前にあって、僕は自分の心臓がどきりと大きく鳴るのを聞いた。彼女は僕の腕を力いっぱい掴んでいた。

「ダンボール? どこだよー」

 一人がずかずかと倉庫内を歩き回る。足音が近づいてくるのに、僕らはただ身を硬くした。心臓の音が聞こえやしないかとひやひやする。


「……お、あったあった。これか?」

「あー、それそれ」

 どうやら目当てのものを見つけたようで、程なく二人分の足音と話し声が遠ざかり、聞こえなくなった。


「……行った?」

「たぶん」

そろり、と跳び箱から顔を出して辺りを見回す。誰も居ないことを確認すると、僕達は顔を見合わせて、それから小さくふきだした。

「……ぷふっ」

「ふはは。あー、焦った!」

 ほんの数分の出来事だったのに、僕はまるで大変な冒険をしたような、妙な興奮に胸が高鳴っていた。隣に居る笠松さんは共犯者だ。悪いことはしてないけど、イメージとしてはやっぱり『共犯者』。

「ふふ、ドキドキしちゃった」

 笠松さんは立ち上がってぺろりと舌を出して見せた。座ったままの僕に微笑みかけ、それから彼女はそのまま駆け出した。

「あ、おいっ」

「それじゃ、ばいばい!」

 後ろ向きに手を振るのが見える。僕は走り去る彼女の背中を、ただその場に座り込んで眺めていた。追うことも出来たが、彼女はそれを望まないだろう。「ばいばい」という言葉だけ、少しの違和感とともに僕の中に残った。

「ばいばい……か」

置きっぱなしの缶コーラとともに残された僕は、一人で外を見つめていた。野球部の白球が青い空を飛んでいく。終業式で彼女を見つけられるだろうか、ぼんやりそんなことを考えていた。




     *




「夏原ぁー久しぶり!」

 始業式が終わり懐かしい声に振り返ると、そこには夏休み前より真っ黒に日焼けした中畑が立っていた。白いシャツに真っ黒な肌、そして中畑の髪は茶色く染まっていた。中畑はどうやら夏を満喫したらしい。

「夏休みどっか行ったかー?」

「いや、ほとんど家でゲームしてた」

「お前不健康だなー」

「うるさいよ」

 実際僕は田舎に遊びに行くこともなく、ずっと家でごろごろしていた。たまに美術部の活動に参加する以外は、めったに外にも出なかった。……別に友達が居ないわけではない。そこは誤解しないで頂きたい。ただ、ごろごろする他は、ずっと絵を描いていたのだ。

 夏休みが終わったからといって、殺人的な暑さは変わらなかった。校庭へ出てみると、太陽がぎらぎら輝いて、日焼け止めをつけない僕の手足をじりじりと焼いていく。僕は体育倉庫が開いているのを見つけて、久しぶりに中を覗いた。

「失礼しまーす」

 ……誰もいない。僕は頭を振った。

 今日は授業もないし、笠松さんが居なくても別におかしくはない。僕はかばんの中のスケッチブックをちらりと確認してからその場を去った。――まあ、明日になれば彼女も居るだろう。

 そんな僕の予想は思い切り外れていた。次の日も、その次の日も、放課後に体育倉庫を訪ねても、彼女の姿はなかった。彼女はもう現れないのだろうか。……せっかく「あの絵」を完成させたというのに。水彩絵の具で描いた、体育倉庫から見えるあの景色を。


「笠松なら転校したよ」

「は……え?」

 ジャージ姿の平岡先生の一言は、思った以上に大きく僕の耳に響いた。

「あの子は、クラスに上手くなじめなかったらしくてなあ。……夏原、友達だったのか?」

「あ、いえ。その、ちょっとした知り合いで……」

「そうかー。まあ、そういうことだ」

 平岡先生はちょっと寂しそうな顔をして、珈琲をすすった。職員室は冷房が効いていて、ちょっと寒いくらいだった。さっきまでかいていた汗が冷える。

「……珈琲でも飲むか?」

「いえ、いいです」

 僕は頭を下げて職員室を出た。

 ――いなくなるなら、そう言ってくれればよかったのに……。

 僕はちょっと笠松さんに腹が立って、そして悲しくなった。彼女と僕の関係は、一体なんと言えばよかったのだろうか。彼女は転校するほどこの学校が嫌だったのか。それなら、僕は彼女に何かしてあげられたのだろうか。考えながら歩いていたからか、僕は無意識に体育倉庫に向かって歩き出していた。


「どうもー……」

 誰も居ないのに挨拶をしてしまう。癖になってしまったようだ。体育倉庫の中はやはり蒸し暑くて、しかしとても静かだった。マットの上に寝転がって暗い天井を見上げる。僕と出会うまでは、笠松さんはいつもここで一人だったのだ。どんな気分だったのだろうか。

「ちょっと寂しいじゃないか、コノヤロー」

 ぽつり、と呟いて僕は起き上がった。そろそろ戻らないと、昼食を食べていないのに昼休みが終わってしまう。それは避けなければならない。暑い日に残した弁当は腐る。……そして後で親に怒られる。

 僕はマットから降りて、ふと後ろにある跳び箱に目を向けた。そういえば、一ヶ月前に彼女とここでかくれんぼの真似事をしたのだ。あの時は見つからないかと気が気でなかったが、あれはちょっと楽しかったかもしれない。笠松さんとの数少ない思い出の一つだ。

 跳び箱の裏に回り、その場でしゃがみこむ。そうして、ちょうど二人が隠れていた場所に、僕は小さな缶の箱を見つけた。パステルカラーにカラフルな星が描かれている。取り上げて、振ってみるとカサカサと音が鳴った。……誰かの忘れ物だろう。事務課に持っていこうか。

 しばらくその場で考えてから、僕はおもむろに箱を開けた。

「失礼」

 かぱり。簡単に開いたその箱には、小さな紙切れと写真が一枚。

【今までありがとう。絵を描くならこの写真を参考にしたまえ! P.S.デジカメで撮ったから綺麗だよ】

 水色のペンで、メモ用紙にそれだけが書いてあった。書いた本人の名前も、宛名もない。でも、その文章と写真だけですぐに分かる。写真には、いつも僕達が眺めていた、体育倉庫から見る景色がはっきりと写っていた。青い空に白い雲。薄暗い倉庫に差し込むまぶしい日差し。いつの間にこんなものを置いて行ったのだろうか。誰かに見つかったら処分されかねないのに。

「……ばかだな、もう絵、描いちゃったよ」

 僕は、そっと写真と紙を箱にしまって立ち上がった。夏の思い出が僕の手の中で音を立てる。体育倉庫を出ると、日差しの眩しさに思わず目を細めた。


 ――……やっぱり夏は嫌いだ。

 心の中でそう呟くと、「ほんとに?」と笑う声が聞こえた気がして、僕は一人黙って頬をゆるませた。

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