サリナとタヌキ

          ☆    †    ♪    ∞


   [××××年ANOTHER 某月某日AGE

               [午後七時一七分]

    [津雲市 高尾塚たかおづか駅前]


 一日の仕事を終え、乙海いつみサリナはリラックスパイポをくわえながら駅前に降り立った。


 職業、子供服のデザイナー。そしてマユナとユアナの母。

 滝のようなボリュームの長い黒髪。

 表情はあまり明るくないが、メガネをかけたアンニュイな美貌は異性どころか同性すらも感嘆させるミステリアスな色気がある。

 ジャケットにパンツスーツというラフなスタイルは、「シンプルイズベスト」と「努力によって磨かれた人間であれば何を着ても似合う」というファッションデザイナーならではの理念による選択。

 実際、そこらのグラビアモデルなら脱帽するレベルのボディラインを誇るサリナにとって、それを考慮し/強調する設計であるパンツスーツの着用は鬼に金棒どころか機関銃を持たせるようなモノ。


 通行人の六割の目を奪いながらも、それらの視線を特に気にすることもなく――今日のサリナはそこそこに疲れていた。


 今日の仕事は服のデザイン……だけではなく、今後行われる予定の展示会の企画会議及び打ち合わせ。


 ファッションデザイナーとはただ衣服のデザインに没頭すればいいわけではなく、上司/顧客/パタンナーなど他者とのコミュニケーションも要求される職業である。

 展示会自体はまだ先の開催なので打ち合わせもほどほどの段階ではあるが、それも開催が近づくごとに比例して密度を増していく。

 サリナの対人スキルやコミュニケーション能力は決して低くはない――が、どちらかといえばデザインや情報収集などの個人作業に没頭したいサリナは会議や打ち合わせの類は少々気が乗らないものであった。


 よって、サリナは疲れていた。


 駅前まで来れば、後はバスに乗るだけ。


 家に帰れば愛する娘達が待っている。


 最愛の夫は――数日前から地方に出張しているため家にはいない。


 出張といっても短期なので数日で帰ってくるのは知っているが、それだけが――サリナにとって一番残念で寂しい点であった。


(……ユウホさん、早く帰ってこないかしら……)


 疲労と夫が不在の寂しさから静かに嘆息するサリナ。

 憂いを帯びた眼差しに花弁のような唇から漏れた吐息は、それすらも妖艶な色香を匂わせていた。


(……あら?)


 駅前のバス停に並ぼうとしたところ、サリナは近くのコンビニの前に見覚えのある動物がいることに気付いた。




 タヌキである。




 パッと見、それはタヌキの着ぐるみを着た少女にしか見えないが、かつて負傷していたところをユアナが助け、数日乙海家で保護したタヌキだった。


 コンビニの前で、光のない瞳のままスルメイカをしゃぐしゃぐと立ち食いしているタヌキ。


 その時点でだいぶ不可思議な光景――であるにもかかわらず、人だかりもなくむしろ周囲が避けていたのもまた不可思議だった。


「――タヌキちゃんじゃない。こんな所でなにしてるの?」


 タヌキに歩み寄るサリナ。

 そのもふもふとした毛皮をなでてみたい気もしたが、なぜかサリナは動物全般に避けられてしまう質で、以前タヌキを自宅で保護した際も妙に塩対応をされたので触れるのは我慢した。


「………………」


 視線だけサリナに向けながら、変わらずしゃぐしゃぐとスルメイカを食べるタヌキ。

 逃げる様子はなかったが、サリナのこともさほど気にしていないように見える。


 ほどなくスルメイカを食べ終えたタヌキは、なんの躊躇ちゅうちょもなく平然とコンビニに入店した。


 数分もかけずになにかを買ってきたのか、その手……ではなく前脚にはビニール袋を提げている。


「……え、アンタ買い物できるの?」

「………………」


 驚愕に目を見張るサリナに対して、タヌキはおもむろに自分の毛皮の中からある物を取り出してみせた。




 ――ICカード型電子マネー『Suica』




 しかも記名式の『My Suica』であり、券面下部にしっかり『タヌキ様』と書かれている。


「……アンタ、野生動物よね?」


 段々理解が追いつかなくなってきたサリナに構うことなく、がさりとビニール袋に前脚を入れるタヌキ。




 そこから出てきたのは――サントリー『ザ・プレミアム・モルツ』

 そしてチータラだった。




 定番のビールとおつまみ。『ザ・プレミアム・モルツ』は通常よりもワンサイズ小さい二五〇ml缶。コンビニではあまり取り扱っていないミニ缶である。


「………………」


 その二つを無言でサリナに差し出すタヌキ。


「……くれるの? あ、ありがとう……」


 困惑しながらもそれを受け取るサリナに、すぐさまタヌキは背を向けてたぬたぬとどこかへ歩き去っていった。


 その場に一人残され、しばし唖然とするサリナ。


 野生動物にビールとチータラをおごられるという奇妙な体験に、現実味がわくはずもない。


 しかし――これだけは理解できた。


(……気を遣わせるほど疲れた顔してたのかしら)


 そんな自覚はなかったし、タヌキの気まぐれの可能性もある。


 ただ、タヌキが二五〇ml缶のビールを選んだのは単にケチだったから……ではなく、……という理由だとしたら?


 サリナはタヌキから受け取ったビールを即座に開栓し、一気に飲み干した。


 麦の芳香と天然水の清冽せいれつなる味わいが喉を駆け抜け、活力へと変換される。


 背筋は真っ直ぐに、

 視線は前だけを見つめ、

 足取りは力強く。


 タヌキに心配されるとは情けない。


 疲れた顔を娘達に見せるにはまだ早い――歩きだしたサリナの姿は、まさに家族を支える強い母のものだった。

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