甘えるということ


 ユアナは激怒した。


 必ず、かの邪智暴虐の姉を除かなければならぬと決意した。


 ――というとずいぶん誇張が過ぎるが、実際は別にそんなことはなく。


 ユアナにはすこし不満があった。


 いつも姉であるマユナが自分のことを甘やかしてくるので、たまにはマユナより先んじて自分から甘えにいきたい――


 そんな、あまりにもささやかな不満があった。


          ☆    †    ♪    ∞


 [二〇××年 某月某日]

                  [午後一九時五七分]

                       [乙海いつみ家]


 マユナの自室の前から、光が漏れていた。

 部屋の引き戸をわずかに開けているのは、家族に対して「気軽に入ってきていい」というマユナの意思表示である。


 そこからタンタタンと、なにかのボタンを忙しなく――しかしある種リズミカルに叩くような音から、今マユナは趣味の格闘ゲームに興じているということはユアナにもすぐ解った。


 ――この時点で、ユアナはマユナに対する攻め手を失った。


 ただ単純にマユナに甘えたい――それは、果たして今マユナの邪魔をしてまで通すべき願いなのかと煩悶はんもんする。

 マユナの部屋の引き戸に、手もかけられない。


 他者を思いやれるからこその遠慮。

 己の優しさが作った他者との壁。


 ユアナは、絶望的なまでに甘えるのが下手だった。


「――ユアナ? どしたの?」


 ゲームを中断して、からり、と引き戸を開けるマユナ。

『いいえ、私はゴリラです。』と大きく書かれた白地のXLサイズTシャツに、ポリエステル製のショートパンツ。

 長い髪は後ろで束ね、両目には度が入っていないゲーム用メガネをかけていた。


「あっ、もしかしてボタンの音うるさかった? やっぱり静音設計っていってもちょっと限界が――」

「え、あ、あの、えっと、ちがうの」

「……? それじゃ、ワンピースでも読みに来た?」

「そ、それもちがくて……あの、なんでも、ないから」


 消え入りそうな声で、きびすを返すユアナ。


「……ユアナ。ちょっと待って」


 マユナはそれを見過ごさなかった。


「お姉ちゃん知ってるよ。ユアナの『なんでもない』はだいたい『なんかある』って」

「…………」

「それは言いにくいコト?」

「……うん」


 マユナの問いに、ユアナは控えめにうなずく。


「絶対言えないことだったら無理に聞かないけど、言いにくいだけならお姉ちゃんに話してごらんよ。ほら、おいで」


 優しく笑みながら、ぴこぴことユアナを手招くマユナ。


 相手を思いやれるのはユアナもマユナも同じ。


 すこし違うのは――思いやりの結果身を引いてしまうユアナに対して、寄りそってくるのがマユナであった。


 そんな優しい姉を改めて尊敬しながら、おずおずとマユナの部屋に入るユアナ。


 そのまま正座する。完全に改まっていた。


「で、どしたの? なんか悩みでもあるなら、お姉ちゃん力になるでよ」


 自信満々といった風情でふんす、と胸を反らすマユナ。


「……あの、ね……大したことじゃないんだけど、その……おねぇちゃんを、ぎゅって、したいな、って……」


 マユナに目も合わせられず、ユアナは頬を赤くしながらとつとつとその願いを口にした。


「あー……なーんだそんなコトか。お姉ちゃんをぎゅってしたいって全然………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………マジすか?」


 思考が停止して脳内が漂白しかけるような衝撃。


 ――マユナは、他者に甘えられるということにまったく慣れていなかった。


 他者を甘やかす、もしくは自分から甘えることならもはや呼吸をするがごとく日常的にやっていることではある。

 特に他者を甘やかすことにかけては全一ぜんいちどころか世界レベルだという自負すらあるが、それらはあくまで自分から能動的に動き、常に先手を取っているからこそ。


 甘えられる――そんな状況は、マユナの記憶の内ではおよそ一〇年ぶり。


 しかもユアナから仕掛けられるとは、完全に想定外だった。


「……おねぇちゃん?」

「いやっ、あの、ジョブジョブダイジョブイケるイケるそのぐらい余裕っすよキレてないっすようん冷静お姉ちゃん冷静だからえーとアレ………………こっ、来いよユアナ! 恥じらいなんか捨ててかかってこい!」


 思い切り動揺しながらも、覚悟を決めたかのように両手を広げて迎撃態勢を取るマユナ。


 対して、意を決したユアナは静かに腰を上げた。


 そのまま正面――ではなく、マユナの背後に回る。


(うしろ……っ!?)


 マユナの驚愕をよそに、ユアナはそっとマユナの背に身を寄せた。


 単に正面から行くのが恥ずかしかっただけであり、「ぎゅっ」というより「ぴとっ」といった、なんとも控えめな接触。


 それでも――ユアナの小さな胸が早鐘はやがねを打っているのを、マユナはその背に感じていた。


 時間にして一〇秒足らず。


 マユナにとっては永遠とさえ思えた凍結した時間。


 すっ、とユアナはマユナから離れた。


「…………………………もういいの?」

「うん……ありがとう、おねぇちゃん」


 ささやかとはいえ、願いを叶えた。


 そんな小さな喜びをかみしめるかのように、はにかみながらもユアナは部屋を後にした。


「…………………………」


 本当に、ただそれだけのこと。


 その場に残されたマユナは、全力で冷静さを装いながらゲーム機とテレビの電源を落とした。


 ゲームどころではなかった。


 そのままベッドに飛び込み、枕に顔を埋めて声なき絶叫を上げながら全身をねじ切らんばかりに身をよじる。


 翌日マユナは寝不足となり、その原因となったユアナから無自覚に心配されることとなった。

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