マユナとタヌキ
☆ † ♪ ∞
[
[午後二時二四分]
[津雲市
マユナは死を覚悟した。
目の前にいるのは――熊。
しかもマユナを人間だと認識しつつも近付いてきたのだった。
休日、美容のための運動として登山を選んだのは完全に気まぐれだったし、熊と遭遇するなどとは微塵も思っていなかったマユナ。
対策はせいぜい熊鈴くらい。
基本的に熊は人間を避ける動物である。
よって熊鈴は人間の存在を熊に知らせ、偶発的なニアミスを防ぐとされている――が、
熊鈴を身につけているにもかかわらず人が熊に襲われたという事例もゼロではない。
仮に、人間を獲物として認識している熊がいるとすれば――むしろ熊鈴は逆効果とすら言える。
マユナに近付いてくるのはツキノワグマ。
体長は一七〇センチほどか、マユナよりも大きい。
分厚い毛皮と太い爪で武装した、食物連鎖の中でも上から数えた方が早い
マユナにとってはまさに獣の形をしただけの“死”そのもの。
そんな状況において、マユナは驚くほど冷静だった。
走っても逃げられない。
死んだふりをしても許されない。
戦ったところで勝てない。
自分で実行できる範囲の可能性がすべて通らないと高速かつ冷徹に判断して、静かに――涙を流した。
熊が立ち上がる。
同時にぎゅっと両目をつぶり、全身を強張らせるマユナ。
永遠に似た一瞬。
その一瞬は――何事もなくただの一瞬として過ぎ去った。
「…………?」
おそるおそる目を開けるマユナ。
熊はまだ目の前にいるが、マユナに襲いかかろうとしていない。
その視線の先は――マユナの背後。
ふとマユナも背後へと振り返ると、そこには、
タヌキがいた。
体長は一四〇センチほどか、マユナよりも小さい。
もふもふした毛皮とあまり殺傷力が高くなさそうな丸まった爪で武装した、かわいいいきもの。
かつてユアナが助けたタヌキが、そこにいた。
「……………………」
静かに持っていた釣り竿とバケツをその場に置くタヌキ。
バケツの中には水と
そして――タヌキは
ずどぎゅっっっ、と熊の毛皮を貫き
胃液を吐き散らす熊に間髪入れず、タヌキは水面蹴りで熊の後ろ足を刈り取り、体重一〇〇キロを超える巨体をたやすく仰向けに転がした。
そこからすかさず熊の上半身あたりで馬乗りになり、握った前足の小指側の面――人間で言うところの
残酷なまでに洗練された圧倒的暴力。
熊と対峙した時以上の恐怖に、一歩も動けないマユナ。
熊の歯と牙を二本ほどへし折ったあたりで、ようやく熊はタヌキから解放された。
タヌキの水面蹴りを受けた左の後ろ足を引きずりながら、力無い足取りでその場から立ち去る熊。
それを見送り、九死に一生を得たとばかりにマユナはその場にへたり込んだ。
マユナにとっては完全に想定外だったが、タヌキに命を助けられた――それは動かしようのない事実だった。
「あ……ありがとうタヌキさん!」
涙目になりながらタヌキに抱きつこうとするマユナ。
しかし、
「……………………」
べし! とタヌキは冷静に前足でもってマユナを払いのける。
「………………ありがとうタヌキさん!!」
もう一度抱きつこうとするも、やはりべし! とタヌキに払いのけられるマユナ。
「……………………ありっ!」
ためしにフェイントをかけてみるマユナだが、タヌキはバックステップで距離を取る。
マユナの命を救ったものの、なぜか相変わらず塩対応だった。
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