第40話 十年後

 つい先日のことを思い出して、光秀は未だ起き上がらない顕志朗を見ていた。

 ……ここまで、とはなぁ。

 調子が良かったのは最初の三十分程度。まだなだらかな登り坂で道もしっかりと舗装されていた。

 樹齢何年とも知れない高く太い木々が両側に立ち並ぶ姿は壮観で、陽が地面まで差し込まないため薄暗く水気のある空気が漂っている。

 その道を四人縦一列になって進んでいた。

 先頭を聡、光秀、信一。そして最後尾に顕志朗。並びは特に決めた訳ではなく、何となくでそのようになっていた。


「なるべく最初はさくさく行くからなぁ」


 聡のその言葉通り、ペースは早めだった。

 大した会話もなく、黙々と山を登り始める。

 会話をしなかったのではなく会話をする余裕がなかった。

 緩い傾斜とはいえ長時間ただ歩くだけ。景色も初めは新鮮で清々しさを感じていたが十分もすれば見飽きてくる。

 暑い。

 光秀はシャツの襟元をパタパタとばたつかせていた。

 十月の日が差し込まない高山。外気は冷えきっているが体温が下がらない。

 それは皆同じで、先頭を歩く聡ですらじんわりと浮かんだ汗を拭っていた。

 それでも前進の足を緩めない彼に着いて行くのが精一杯で、次第に周りを見る余裕もなくなっていった。


「……一旦休憩するか」


 久しぶりに口を開いた聡は、立ち止まり振り返る。

 すぐ後ろに着いていた光秀も肩で息をしながら、彼の目線を追う。

 ……いねぇ。

 信一も、顕志朗も姿が見えない。いや、よく見るとだいぶ後方で信一の姿があった。


「大丈夫か?」


「……っ、はぁ。無理、死ぬ!」


 数分後、二人の元まで辿り着いた信一はその場にへたり込む。

 ある程度息の整った光秀は、彼にペットボトルを渡すと何も言わずにそれを完飲する。


「はぁ……顕志朗さんは?」


「後ろ」


 光秀が指差す方向に彼はいた。

 まだ微かに見える程度だが、その鉛のような重い足を小さな歩幅で進んできている。体は前傾になり過ぎていて、今にも倒れてしまいそうだ。

 体力がないとは聞いていたがこれほどまでとは。光秀はそんなことを思いながら必死の形相で追いつこうとする顕志朗の姿を眺めていた。




 山頂に着いたのは登山開始から三時間を過ぎた頃だった。

 ゴツゴツとした岩と砂、後は山頂を示す立て札があった。

 穏やかな北風以外来訪者もなく、三人と聡が肩を貸している顕志朗だけがその場にいた。


「……なんもなーい」


 信一が不平不満を漏らす。

 赤みを帯び始めた太陽が遮るものなく照りつける中、他に生命らしいものもない。


「そんなもんだろ」


 顕志朗を地面に横たわらせながら、聡が言う。

 息も絶え絶え、露出している肌を真っ赤にしながら仰向けに寝転ぶ顕志朗は、二回目の休憩の後からこの調子だった。

 それでは間に合わないと聡が補助することになったのだが、

 こいつはこいつで元気だなぁ……

 光秀も足のだるさを感じて汗も酷いというのに、聡は人一人追加の重さがあってもその足取りが変わることはなかった。

 同性として羨ましいと思う反面、どこか子供のように感じてしまう。ぱたりと電源を切ったように寝てしまいそうなイメージがあった。


「さて、これからどうするの?」


 風に髪をたなびかせながら、信一が尋ねる。


「そうだな。十分したら帰るか」


「えっ、それだけ?」


 信一がそう言うのも無理はなかった。

 突然山に登ると言われたのだ。登った先で何かあると期待するのも当然だった。

 そんな気持ちを聡は無視して、


「登山なんてそんなもんだろ」


「えー。にしてもなんかないの?」


 それを聞いて聡は周囲を一周見渡す。

 そして、両手を広げて、


「……ここでなにかしたいのか?」


 山の頂上、平地など猫の額ほどもない。

 聡の言うことはいちいち最もで、その分ここまでの努力の甲斐がないことに不満を覚えてしまう。

 だから、


「……わかった。もう登山なんて二度としない」


 頬を風船にした信一は近くの岩場に腰掛けると聡から目を逸らした。

 同じように光秀も座る。信一の肩が触れるような距離に。

 近すぎるからか身じろぐ信一に、


「ほーんと、なんも無いな」


「だねぇ……くたびれ儲けだよ、ホント」


 山から見下ろす風景は、日に照らされた山々がただ延々と続くだけだ。

 ただそれだけ。本当にそれだけだ。

 大変だった、辛かった、暑い疲れる虫はいる。今日一日で一年分の不愉快を体験したと言ってもいい。

 だから、


「また、こうやって馬鹿なこと出来たらいいな」


「……出来るかな?」


 光秀は首を縦に振らず、ただ先の先を眺めていた。


「出来るか、じゃなくてやろうぜ」


 そう言って話に割り込んできたのは聡だ。

 彼は信一の肩に手を置き、すぐさま払われる。


「やめなさい、鬱陶しい」


「……うっす」


 そのやり取りを見て、締まらないなぁ、と光秀は苦笑する。

 そして、ちょうどいいのかもな、と考えて、


「十年後な」


 そう、短く伝える。

 誰からもその事に関して何も返事がない。

 無視をしているという訳では無い。続きの言葉を待っているようだった。


「十年後の十月最後の土曜日。何があっても全員参加、いいだろ?」


「いいね」


 信一が意地の悪そうな笑みを浮かべる。

 これは言わば楔だ。十年後どうなっているかも分からず、どうしても外せない用事があるかもしれない。

 それでも、十年間はどこかで繋がっていると思えることができるのであれば、今日までの日が無駄ではなかった証明になる。そんな気持ちを光秀は抱えていた。


「よし、じゃあそろそろ帰るか」


 聡がそういうと、光秀の隣で身震いが見えて、


「そうだね、汗も冷えちゃったし──」


 一度そこで区切り、信一は目線を地面に向けた。

 そして、そこにいる人物をしばらく見つめてから、


「──もう少し、かな?」


「……すまん」


 久々に聞いた声は、まだまだチャージ中と伝えていた。

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