第41話 温泉

 登山を終え、帰宅の途につく途中で車は目的地を逸れていた。

 運転手は聡だった。ナビが示す道を外れて数分すると大きな建物が見えてきて、また大きな駐車場へと入っていく。

 コンビニか何かに寄るのかと思っていた光秀は、駐車場の手前にあった看板を読んでいた。


「憩いの湯」


 疲れて回転数の少ない頭は、思考を放棄して文字をただ言葉にしていた。言ってから、数秒置いてその施設が何なのかを理解する。


「あ、温泉か」


「まあな。体も冷えてるしちょうどいいだろ?」


 聡が空車のスペースを探しながら答えた。

 確かに。表面的には適温だが、まだ体の芯のほうは冷えている。その証拠に暖房が効いているはずの車内で何度か身震いをしていた。

 助手席に座る光秀は首を伸ばして後ろを見る。

 そこには顕志朗と信一が肩を寄せて夢の中にいた。

 ……疲れてるよなぁ。

 フクロウを思わせる小さな寝息を立てる二人を起こしてしまうのが心苦しくて声をかけるのをためらってしまう。その間に車はピーピーと鳴いてから止まり、


「おーい、起きろぉ」


「……ん、もう着いたの?」


 聡の声に、薄く目を開けた信一が身じろぎをする。そのせいで支えのなくなった顕志朗の頭が流れるように倒れていき、


「――にゃっ!?」


 信一の背中をなぞり、シートと尻の間に挟まっていた。


「えっ、何……って大丈夫?」


 状況がわからず左右を見渡していた信一は、暗がりの中後方をちらりと見ると座る位置を少しだけ前にずらす。


「……寝てるな」


 座席に横たわる顕志朗を見て、光秀はそうつぶやいていた。

 一連の流れでそれなりな衝撃があったはずなのに、視線の先の人物はかすかな寝息をたてるだけだ。泥のように眠る、という言葉の通り、そこからはまったまま浮かんでくる様子はない。


「顕志朗さん、起きて」


 信一がその肩をゆするが反応はない。本当は起きているのに狸寝入りをしているのでは、という疑問が浮かんだ時、


「……あぅ」


「あ、起きた」


 小さな嗚咽に似た声を漏らした後、闇の中に双眸が光る。

 そして、二、三回瞬きをして、


「……はあぁ」


 大きく息を吐いて、また目を瞑る。


「起きてって」


 なおも激しく肩を押す信一に、邪魔するなと手が持ち上がる。

 それは空中でピタッと止まり、そのままゆっくりと天に向かって伸びていく。

 そして、猛獣のように喉を奥を震わせたかと思うと、


「……おはよう」


「おはようございます」


 目じりの下がった瞳に雫を浮かべながら、顕志朗は上体を起こす。

 まだ寝足りない、という気持ちを顔に貼り付けながら、ゆっくりと車窓に目を向けた彼は、運転席の聡へと向き直り、


「……どこだ?」


「温泉っす」


 それを聞いた顕志朗は、温泉という単語を何度も繰り返し唱え、車窓から見える木造の建物を見ながら状況を整理していた。

 そして、一度大きく頷くと、


「うん、いってらっしゃい」


「顕志朗さんも行くんです。風邪引きますよ」


 そのまま頭の重さに耐えきれなくなりそうな彼に向って聡が声を投げかけると、信一が抱き着くように支えて、その眼が光秀を見ていた。

 細かく頷く様を見て、光秀は親指と人差し指の腹を合わせて円を作り、それで返答とする。


「とりあえず、背負ってでも連れていこう」


「りょーかい」


 それしか方法がなかった。




「あぁー……」


 足先が水面に触れ、そのままお湯を押しつぶしていく。

 脛まで浸かった辺りで足の裏が地面に触れ、もう片方の足を踏み入れる。

 突然の温度変化に過敏になった神経が、熱いはずなのにひりひりとした冷たさを全身に伝える。それを心地よく感じながら光秀はもう一歩深いところまで歩き、ゆっくりと肩まで浸かるように腰を下ろす。

 体の中央に鎮座していた氷が解ける。その融解熱でひと際大きく体が震え、そして、

 あっつぅ……

 歓喜の声が漏れるとともに頬が緩む。

 それをなるべく全身で味わうため、両手両足を開いて脱力する。

 少しでも動くたびに痛みに近い感覚が全身を襲い、それがまた快感であった。


「よくそんなあっつい奴入れるよね」


 隣のぬるい風呂に入っていた信一が声をかけてくる。

 光秀は目を閉じたまま、余韻に浸っていた。そして、水圧のかかる肺から空気を絞り出すと、それに合わせてゆっくりと体が深く沈んでいく。

 首元だけ石風呂の縁に置いて、全身が水底まで落ちていた。


「これがいいんだよ、これが」


「うーん、おっさん臭い」


 信一の言っていることは正解だ。温泉の入り方は故郷でお爺さんに教わったものだから。もはや、おっさんと言うよりはジジくさいの方がより正しいのかもしれない。

 温泉施設は週替わりで岩風呂と檜風呂が変わるようで、今日は男性が岩風呂だった。檜風呂は滑りやすいし角に首を置いていると疲れるため、光秀にとっては好都合だった。

 いい湯だ、と小さく湯をかき混ぜる動作をしながら思う。

 内風呂は四つ。ジェットバス以外はただ温度に差があるだけで特別な仕様などは無い。一番広い湯船は長時間入るのに丁度いいぬるさで、信一がそこにいた。

 他に露天風呂とサウナ、水風呂という最低限を詰め込んだ大衆浴場。そのシンプルさが落ち着く。

 微かにゆで卵の臭いが鼻をくすぐる。硫黄泉にしては薄く、水も軽い。

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