第39話 きっかけ

 事の発端は聡の一言からだった。


「なぁ、山行こうぜ」


「え、やだけど」


 夕食後、リビングでくつろいでいる時に聡が発言した。

 テレビでは知識の要らない娯楽がたれ流されていて、芸能人の赤裸々な私生活が暴露されている。それを注意深く見ている人は皆無だ。

 テーブルにて軽い乾物をつまみながら遅めの晩酌を由希恵と楽しんでいた光秀は、動向を見守るために口を挟むことをしなかった。


「いいっすね。何時にします?」


 最初に反応したのは信一だったが、聡はそれに取り合わず、次に言葉を発した詩折に目を向けると、


「女は駄目」


「はぁ!? なんでっすか!」


 聡の一言に、詩折は憤慨して抗議の声を上げる。それもわざわざ座っていたソファから立ち上がり、床に胡座をかく聡の目の前で拳を振って感情をアピールしながらだ。

 ついでに無視された信一も文句を垂れ流していたが、聡はそれに一切触れずにいた。


「おーい、おーい。ねぇ、僕行かないよ? 行かないからね? 聞こえてるよね?」


 信一がいるのはキッチンに一番近いテーブルの席だ。ちょうど光秀の向かいに座る彼からは後ろ姿の聡が全く見えない。


「最近たるんでるからな。偶にはしっかり体を動かした方がいいだろ」


「そんなことはないけど、なぁ?」


 光秀はそう言って由希恵の方を向いた。

 彼女はちらりと光秀の腹部に視線を向けてから、顔を見ると、


「行ってきてもいいんじゃないですか?」


 ……えっ?

 言葉から伝わる興味の薄さは置いておくとして、


「……そんなに腹出てる?」


 光秀は静かに問う。

 由希恵が意識してやった訳では無いことは分かっていた。ただ無意識で、気になっていたからつい見てしまっただけの事。

 女性がよく言う、男性の目線が気になるというものと同じだった。やった方は気にも止めないことだがやられた方はよく分かる。

 軽く腹部を擦ると、運動不足の柔らかさが指を押し返す。

 ……もう少し硬かったような気もするなぁ。

 傍目から見て腹が出ているということも無いし、身長に対して体重も軽い方だ。それでも一番運動していたであろう高校生の頃に比べて情けなくなるほど筋肉の衰えを感じていた。まるで真っ黒のラバースーツを着込んで生活しているかのような窮屈さと体の重だるさは実感して、そして見て見ぬふりをしていたのだ。

 それが有象無象に気付かされたのならいざ知れず、恋人からでは動転してしまう。

 光秀が伏し目がちになると、由希恵はその様子に慌てて、


「あ、いや、そんなにじゃないですよ。ただ──」


「いいよ、行ってくる。行って鍛えてくるよ」


 光秀が自棄とも取れる勢いで彼女の発言を遮る。

 とはいえ、

 一日で大きく変わるわけじゃないしなぁ。

 それなりに納得いく体を作るためには継続することが必要だ。そのための契機として登山も悪くはない。


「じゃあ、光秀はオーケイってことで。あとは、顕志朗さんだけど──」


「行く」


 刀を振り下ろしたようなキレのいい返答に、聡は笑みを作る。


「ねえ、大丈夫なの?」


 それを心配する声が上がる。

 恵美だ。

 彼女は顕志朗の腕を掴んで上目遣いをするが、顕志朗はそれを欠片も見ようとしない。

 不思議な状況だ。光秀は二人の様子を眺めながらそう思っていた。

 顕志朗が恵美を無視することは今までありえなかった。そして高々登山程度で恵美がそこまで心配する必要があるとも思えない。

 だからその後に続いた言葉に耳を疑うしか無かった。


「登山なんて、死んじゃうかもしれないよ?」


「死ぬの!?」


 思わず声が出て、注目を集める。

 しかし光秀はそんなことに構っている余裕がなかった。

 不慮の事故や遭難などで命を落とすことがあることは理解している。が、それも稀なこと。ルールを守って普通にしていればなかなか起こりえない。

 そう、起こりえないのだ。それこそ上級者向けの、クライミングでもしないと登れないような山を選ばない限りは。

 例外はある。だからその例外をあえて選ぶような真似はしないだろう。しないと信じている。しない、よな?

 徐々に自信がなくなり、不安が募る。光秀は顔を引き攣らせながら、聡を祈るような思いで見つめていた。


「初めてだからな、男だけというのも。なら参加しなければ」


「でも……」


「大丈夫だ……きっと」


 あ、本人にも確証がないんだ。

 横目に聞いていた顕志朗と恵美の会話からそんなことを思う。

 今から辞めるって言って通るかな、と考えていると、


「あの、登山ですよね? そんなに心配なんですか?」


 由希恵が尋ねていた。

 その言葉を聞いて、恵美は煮え切らない表情を浮かべて、ちらりと顕志朗を見てから、


「……この人、本当に体力ないの。だから皆に迷惑かけると思うわ」


 何故、それを恵美が知っているかは別として、

 ……だから、あんまり参加しなかったのか。

 これだけの人数が揃っているのだから過去に何度かスポーツをする機会があった。

 その際、少しだけ参加して後は見ているか審判をやるかで、消極的だった顕志朗の姿を思い出す。

 ならなんで今回は参加するのだろうか、その疑問が光秀には浮かんでいた。


「よし、じゃあ今週の土曜なー」


 今の話を聞いていたのかいないのか、聡がそう言ってテレビへと視線を向ける。

 その後ろでよろしく、という顕志朗と、


「いや、だから行かないよ? ねぇちょっと、話聞いてってばぁ……」


 半分泣きべそになりつつもしつこく抵抗する信一の姿があった。

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