第38話 登山
次の日曜日、光秀は山にいた。
ゴツゴツとした岩肌が所々で露出している。地面は苔が混じっていて何度足を取られたか考えるのも億劫だった。
麓からどれだけ上がってきただろうか。後ろを振り返ると紅葉混じりの裾野の先に、山と山の切れ目に沿ってコンクリートの平地が見える。
だいぶ登ってきたな、と光秀は首からさげたタオルで額に薄く浮かんだ汗を拭き取る。身体の芯の方は溶鉱炉の如く熱を持っているのに外気に晒されている腕は氷のように冷えきっていた。
山からの吹きおろしの風は強く、時折体を持っていかれるほどの突風が襲う。周囲は身を隠すほど背の高いものがほとんどなく、目を開けるのも苦労する風の機嫌が治まるのを待つしかない。
登山開始の時は山林の中を大した傾斜もなく歩いているだけだった。いつからかそれが目線よりも低い茂み変わり、今では下草がちらほらと見えるばかりになっていた。
周囲にはところどころ切り立った崖になっているところも見える。光秀が歩いている道は数多の登山者の足が固めて作った、天然の山道だ。一番歩きやすいところではあるが手すりもなければひざ下ほどの高さの岩を乗り越える必要もある。
その中でも一際大きな岩が行く手を阻んでいた。一番低いところでそれだ、迂回する道はない。足を上げただけでは到底届きそうにないそれに、腕をひっかけて体を持ち上げることで乗り越える。
「ふぅ……」
岩から離れて十歩。光秀はそこで腰を地面に降ろす。
「お疲れさん」
先を歩いていた聡が腕を組んで突っ立っている。その視線の先は先ほど乗り越えた岩場が、そしてその先には、
「あーもう、きっついわっ!」
文句を垂れ流しながらおぼつかない足取りで進む信一の姿があった。
麓で借りた木の棒を支えに、ひどく腰を曲げて一歩、また一歩と距離を詰めてくる。顔は地面のほうへと固定されているため、光秀からは彼の頭頂部しか見えない。
「がんばれー」
気の抜けた声で聡が応援する。その声が聞こえたのだろう、信一は顔を上げると目の前には先ほど光秀が乗り越えた大岩が鎮座していた。
「……もぅやだぁ」
それはもうほとんど泣き言だった。
手のひらが緩み、棒から力尽きるように滑り落ちていく。
倒れたかぁ、と光秀は自身の荒れた息遣いを整えながら様子を見ることしかできずにいた。
「――しゃーないか」
聡はそう言うと、斜面を下りていく。
すぐに大岩に着くと、
「ほら」
眼下で尻を天に向けて寝ころぶ信一に岩の上から手を伸ばす。
「もーかえろうよぉ……」
「あとちょっとなんだから、早く」
聡は掌を天に向け、指を曲げて招く仕草をする。それを首だけ動かして見ていた信一の目は細く、口はへの字に曲がっていた。
それでも退く様子のない聡に、
「……わかったってば! 行けばいいんでしょっ!」
信一はふらつく足に無理やり活を入れて立ち上がると、噛みつきそうなほどの勢いで駆け寄りその腕をつかむ。
「せーのっ」
「うわっ!?」
直後、聡の腕が一回り大きくなり岩下から一匹の男性を釣り上げる。
……なにしてんだ?
聡の腕は天に伸びている。その先で信一がぷらぷらと揺れていた。
予想だにしていない状況に時が止まる。
そして、
「……軽いなぁ。作ってばかりじゃなくてちゃんと食えよ」
「あ、えっ……はい」
聡はゆっくりと腕を下げた。
地面に足が付くと、信一はそのまま重力に任せて膝を前に突き合わせてへたり込む。
心なしか上気した表情を浮かべて聡を眺めていた彼は急に、はっ、と勢いよく息を吸い込んで、
「び、びっくりするじゃないかっ!」
「おぅ、びっくりしたぁ」
大きく叫んでから這って彼我の距離を取る。
え、なにこれ?
光秀は見たくもないものを見せつけられた気持ちになって、それを晴らすために空を見上げた。
一羽のとんびが天高く、青白い雲を背景に滑空している。
鳥は人の苦労なんて知らないとでもいうように自由に舞う。人は鳥の苦労も知らずにそれを羨ましがる。
そんなことを考えていると、近くで物音がして光秀は視線をその方向へと向ける。
四つ足で近づいていた信一がすぐそばであおむけに寝ていた。
大の字になりおおげさな呼吸を繰り返している。その眼は強く瞑られ拒絶の色が強い。
「お疲れ」
「最悪だよ、もう」
信一はただそう吐き捨てて、背中を向けてしまう。
その言葉は何に対してなのか、それを聞くつもりはない。ただ光秀は、息を短く吐くだけの薄い笑い声を出して、来た道を見ていた。
聡の姿がある。彼はまだ大岩から動こうとしない。
なぜなら、
「……っ」
さらに後方、距離にして五十メートルほど戻ったところにいる人を眺めていたからだ。
細部がわからないほど遠くで、その眼光だけははっきりと見ることができた。
杖をつき、信一よりも頼りない足の運びで牛歩のごとく上り続けている。ゆっくりだがその動きは一瞬たりとも止まることはない。
「大丈夫かなぁ」
「まだ大丈夫そうだぞ」
光秀の問いに、同じ方向を見ながら聡が答える。
何を根拠に、そう思わずにはいられない。それは距離が近づくにつれ強くなるばかりだった。
額から腰まで汗で濡れていないところがない。半開きの口は今にも顎が外れて取れてしまいそうなほど開ききっている。
もはや何が彼を動かしているのかすらわからない。今にも燃料切れで転がり落ちていってしまいそうな様子に光秀は不安しか浮かんでこなかった。
五分と、たっぷりの時間をかけてその人は聡の元へとたどり着いた。
手にタオルを巻いて待っていた聡が彼の細い腕を強引に掴み、信一の時とは対照的にゆっくりと両手で上る介添えをする。
「……すま、ん」
「大丈夫ですよ」
謝辞を述べるとそのまま力尽きて倒れ込む。その上から聡が全身を覆うためのタオルを掛けていた。
「顕志朗さん、大丈夫なの?」
「……たぶん」
随分と回復した信一が、上半身だけ起こしてその様子を眺めていた。
耳の先まで真っ赤な顕志朗からは起き上がる気配は感じられない。聡の言うことを一応信用してみたが、あの状況から起き上がることが出来るのか自分に置き換えてみると、首を縦に振ることが出来ないでいた。
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