第32話
外に出て、光秀はその場で立ち尽くしていた。
前方と左右に視線を二往復させて、
どっちだ?
由希恵の姿は視界にない。時間からしてそれほど遠くへ行っていないはずだが、最悪目の前の電車に乗っていたら追うことは難しい。
胃の中に鉛が流されたような不快感のせいで考えがまとまらない。それでも光秀はどうにかスマホを手に取り、通話のボタンを押す。
しばらくコール音だけが耳に響く。
でないのか、と気持ちばかりが焦る中、数えるのも億劫になるほどのコール音の後、
「……はい」
「由希恵か!?」
電話越しに聞こえた聞き馴染みのある声をかき消すように、光秀は荒らげた声が出る。同時に安堵のため息をついて、
「……ごめん、うるさかったよな」
昂った感情を押さえつけながら、謝罪を口にする。
電話の向こうは凪のように静かだった。
通話が切れてしまったのかと、耳から離して画面を見ると通話時間の表示が等間隔に変化している。
切られていないことを良かったと思うと共に、周囲に目立つ音がないことからそう遠くへは行っていないことが分かる。音ブレや衣擦れの音もないため歩いてすら居ないのかもしれない。
そうなると……
頭上に地図を描いて、光秀はそれを眺めるように上を向く。
薄い雲が月をぼかしている。はっきりと雲が見えるのは地上の明るさのせいだろう。
駅前ということもあって周囲に音は多い。車も人も公共交通機関も通る往来だから仕方がないがこの近くに由希恵は居ないことが分かる。
光秀は左右を見渡して、左へと進む。少し行ったところの路地に入ると、急に明かりが消えて空気に湿気が混じる。
「由希恵、何があったんだ?」
通話を続けながら光秀は路地を進み続け、そして抜ける。ルームシェアをしているマンションの裏手に出ると、そこは左右に点々と街灯が伸びていて、人の姿が見えない。
時間は午後十時頃。周囲のマンションが門のように立ち並んでいるせいで、明かりも活気も程遠くさせていた。
その中で、ひと区画だけ建物がないところがあった。
緑の鉄網で囲われた、小さな公園だった。
遊具も二つ、大小の鉄棒と二席のブランコが一台しかない。申し訳程度の砂場と低木が植えられていて、後はひび割れた土と乱雑に伸びた雑草しかないようなところだ。
「話してくれないのか?」
電話越しからは声がない。微かに荒い息遣いが聞こえるだけだった。
光秀は言葉を待ちながら公園へと近づく。
良かった……
十二分に視認できる距離まで近づくと、サビの浮いたブランコに腰掛ける人の姿があった。
女性の姿だ。近づくにつれ徐々にはっきりとする輪郭が、見知った姿であることを伝えて来る。
光秀は通話を切り、スマホをポケットに放り投げる。そして、着ていた上着を脱ぐと、
「体、冷えるよ」
薄青色の部屋着姿のまま、耳にスマホを当てて俯いている由希恵の肩にそっと掛ける。
長くぬばたまの絹のような髪から覗く横顔に涙はなかった。
ぼおっとただ虚空に目を奪われている彼女を、光秀はせかすことなく、同じように隣のブランコに腰かける。
……何があったんだろう。
いまだに彼女の状態に見当がつかない。
奇行に似たその行動に意味はあるのだろうけれど、
……待つ、しかないよな。
心配ではあるがそれ以上は心を開いてくれるのを待つ以外できない。
長月の風は思いのほか冷たく、ひりひりと皮膚の表面をこするように過ぎていく。
震える体を押さえるように両手で腕をつかんでいると、
「梁瀬さん」
由希恵が、うつろな目をしたままスマホを腹部に置いていた。
虫の息のように細い声に、
「なに?」
鼓動よりもゆっくりと、飴細工より慎重に光秀は答える。
言葉を選んでいるのか、由希恵はひと際深くうつむいたまま、
「ごめんなさい」
ただ一言、そう告げた。
それは、心配をかけたことになのか、それとも別のことになのか。
どちらにせよ光秀の言葉は決まっていた。
「ゆっくり、何があったか話してみてよ」
「……」
返事はすぐにはない。
由希恵は小刻みに震えていた。
それをみて、光秀はチェーン限界までブランコを彼女へ寄せると、その丸くなった背中に手を当てる。
裂けそうなほど張り詰めた背中をほぐすようにさすっていく。
由希恵は嗚咽にも似た咳ばらいを一つして、
「なにから、なにから話せばいいかわからないんです」
「いいよ、言いたいことからで」
「……私、親がいないんです」
一つ、大きく背中が跳ねる。
それと同時に光秀の手も止まる。
……ちょっと、どうしよう。
光秀の内心の焦りとは関係なく、由希恵は話を続ける。
「小さいころに交通事故で両親が死んで。そのあと親戚の家に預けられたんですけど、ただ遺産と賠償金目当ての人たちで」
そこで由希恵はいったん言葉を区切る。
大きく息を吸うためだ。
「無理しなくていいよ?」
「いいんです」
いやなほど芯のある声に、光秀はいつしか手を動かすのも忘れていた。
話始めると、由希恵は洪水のようにつらつらと言葉を紡ぎ続けた。
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