第33話

「法知識もないただの人じゃそんなにうまくいかないんですけどね。でもその間は奴隷みたいな生活をさせられていて、その家には少し上の子供がいたんですけど、ちょっと頭が悪い子で、すぐ暴力振るしそれを親は新しいおもちゃが出来たみたいな感じで見てました。まだ子供だったんで性知識はなかったからよかったけど、体をまさぐられたときは本当に気持ち悪くて。必死で抵抗したら向こうの親に殴られて、三日ぐらい納屋に閉じ込められたあこともあったんです」


「それは――」


「大丈夫です。もう終わったことですから」


 すっぱりと断ち切る由希恵にそれ以上言うことができない。

 気分が悪い話だ。光秀はそう思うと同時にそれが何につながるかが気になっていた。

 そして、その答えはすぐにわかることになる。


「梁瀬さん」


 その言葉とともに由希恵が振り向く。

 目が合う。湿った瞳が脳内まで射貫くほどまっすぐで、光秀は目を離せない。

 その口はゆっくりと開き、


「梁瀬さん。本当に他人の子供でも愛せますか?」


「……えっ?」


 なんの話だ、という言葉が頭を通り過ぎた後、信一との会話の光景が思い出される。

 聞いてたのか。そう思うが、別にやましいこともないため光秀は彼女の手を取り、


「あぁ」


 そう断言する。

 それを聞いて、由希恵は下唇を強くかんでいた。


「……多分、あなたならできちゃうのかもしれないですね」


「そうなるように頑張るだけさ」


 根拠もなければ経験もない。あるのは信念という上等なものだけだった。

 風はより一層寒気を運んでくる。


「……そろそろ戻ろうか」


 震える体を我慢しながら、これ以上ここに留まっている必要は無いと光秀は声を掛ける。

 握っていた手が返され、強く握られて、


「梁瀬さん」


 今度はなんだ、と思っていると、


「私も他人の子供を好きになれるでしょうか」


「どうだろうなぁ」


 あえて曖昧に言葉を濁す。

 想定と違った答えだったのか由希恵は目をはっきりと見開いてから、手に力を入れる。

 その様子に、光秀は空いている手を彼女の頭において、


「別にいいんじゃないか? 聞いた時は割と最低だなって思ったけど、信一だって子供好きじゃないみたいだし。どうしたいか、どうなりたいかだけでいいんだよ」


「……そうでしょうか」


 不安げに俯く由希恵を見て、光秀は軽く笑い声を上げる。

 そして、


「まだ産まれてもいないしなぁ。そこんところはゆっくり二人で考えようよ」


 言い終わり、思うのは、

 ……また先延ばしだなぁ。

 仕方ないこととはいえ、今結論を出すことを避けるようになってしまった自分を少しだけ皮肉る。

 由希恵はまだ俯いたままだった。納得したような様子は見られず、心の中で暗闇が渦を巻く。

 それでも強引に彼女を立たせようと軽く引っ張りながら、


「ほら、帰ろう」


 が、反応がない。

 それどころか由希恵は光秀を一瞥すると、


「先に帰ってください」


「そうはいかないだろう?」


「いいから、構わないでください!」


 絶叫とともに繋いでいた手が払われる。

 呆気に取られ、光秀はその状態から微動だに出来ずにいた。

 棒立ちの光秀を見ず、ただ深くうずくまる由希恵は、


「もう訳分からないんです! 不安で不安で不安で不安でっ、どうしても納得できなくて!」


 そう叫びながら右手で自分のふくらはぎを何度も強く叩いている。

 数えるのも億劫になるほどの回数を繰り返したあと、その手は力なく垂れる。

 そして、ゆっくりと顔を上げた由希恵の顔は酷く醜く歪んでいた。


「私がっ、まちがってるんですか? 答えてくださいよ!」


「間違っちゃいないよ。誰も」


「っ、受け入れないでっ!」


 バネのように跳ね起きた由希恵は、両手を突き出して光秀を突き飛ばす。

 予想だにしない膂力に、体勢が崩れる。

 後ろに手を伸ばすも支えるものがなく、足を支点に弧を描いて光秀は尻もちをついていた。

 痛ぁ……

 尾てい骨から脳髄を貫通するように響くアラートに息が止まる。

 細く息を吸いながら視線を上げると、仁王立ちする由希恵の姿があった。

 見下す彼女は、そのまま光秀に馬乗りになって、


「なんで優しくするんですかっ!? 面倒くさいでしょ、こんな女!」


 胸倉を掴んで手繰り寄せる。

 息が詰まるがお構い無しに前後に揺すられ、抵抗が上手くできない。

 ただ、光秀は諦めて最低限以外の力を抜く。

 落ち着け、ってのはなぁ……

 目の前の人とは対照的に非常に冷めた頭で考える。

 元々あまり乗り気でなかった由希恵は詩折に巻き込まれるように入居しただけだった。それに受け入れがたい住人の性格にも、つよく反抗したことはほとんどない。

 ほとんどないだけであって、ため込んでいたという事実を光秀は今身をもって感じていた。だから、今また無理に押さえつける気にはなれなくて。

 ただ、あまりに激しく頭が揺れるため、気持ち悪さが喉奥からせりあがってくる。

 光秀は、ゆっくりと由希恵の背に腕を回し、そのまま、


「ごめん、ちょっと限界かも」


 力を入れて、抱きしめる。

 背中を支える手が無くなり、二人分の体重を支えるほど腹筋は強くなかった。

 光秀は地面に背中をついて、腕の中でもがく由希恵をいとおしく抱く。


「やめてください!」


「やだね」


 胸に顔を押し付けられ叫ぶ由希恵に対して、 悪戯っ子っぽく光秀は力を強める。

 そして、ゆっくりと息を吐きながら、


「よしよし、面倒くさい子になったね」


「ふ、ふざけないで」


「本心なんだけどなぁ」


 苦笑交じりに光秀は彼女の背を叩く。

 男性の力で押さえつけられた由希恵は次第にもがくことをやめ、その力が抜けていくのを感じる。

 暖かいなぁ……

 気炎を上げて暴れまわった彼女は汗ばむほどに体温が高い。霜が降りるほど冷え切った地面とは対照的で、光秀はしばらくその感触を堪能していた。

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