第3話 服用開始
デパスは小学生のころから飲んでいました。(当然処方はされていませんでしたが)
それでも不眠は改善せず、様々な薬を試しました。ホルモンの調節により自然に眠りにつけるようになるロゼレムなど色々と種類があり、ひたすらに試し、そのどれもが効きませんでした。
とにかく眠りたくてベッド横のクローゼットの取っ手に手ぬぐいの端を括り付けて輪を作り、そこに頭を通して首を圧迫して「どうか眠らせてください、気絶させてください」と懇願しながら過ごした夜もありました。
そんな中、散々薬を試し尽くした先生が私にゾルピデムを処方してくれました。
これは「睡眠導入剤」「入眠剤」と先生に紹介されました。
曰く、飲んだあとすぐに眠気が襲ってくる代物だと。
私はゾルピデムと呼ばれたそれに対しても大した期待はしていませんでした。どうせ眠りに就かせてくれない。
そんないつもの諦念に従い、ゾルピデムというそれを飲んだ後にお風呂場へと足を運ぶ…
ぐらり。
気が付くと脱衣所の床に寝ころがっていました。
これから浴室へと足を踏み入れる、そんな矢先にどうやら、倒れてしまったようです。
ただ不思議と、「床に倒れた」という実感はなく。
ぐるぐる回転する視界と自分の物のようではないような身体、全てを膜に遮られているかのような薄れた現実感の中で、私が全裸で笑いながら涎を垂れ流している感覚は伝わってきました。
そして床に身体を預けたまま辺りを見回すと、脱衣所の扉、浴室へと続く扉、脱衣所のもう一方の扉、そして天井。
壁、壁、壁、壁、私はまるでどこへでも行けるような錯覚に陥りました。
今現在床として機能しているものは壁になりうる。
壁として存在しているものは床にもなりうる。
当時はそんなことが面白くて、楽しくて。気怠い身体を無理やりに引きずるのも面白くて、楽しくて。
・・・
そうだ、脱いだからにはシャワーを浴びなければ。
蛇口をひねり、頭に水を浴びせます。座って下をむいて(うなだれて)いた記憶があります。
浴室の床にたたきつける水の音がやけに大きく耳に入ります。それも面白い。
笑いがこみ上げてきます。声を出して笑ったのなんていつぶりだろうか。
しかし突然、飼っていたセキセイインコの死を思い出します。
思い出す…というよりインコの死んだ瞬間がパッと脳内に映しだされるような感覚でした。
意図してなかった急な介入に驚き、泣いてしまいました。依然出しっぱなしの水の中、泣いている私。
面白い!
この状況が面白くて面白くて仕方ありません。こらえることも出来ず、私は再び笑い始めました。
・・・
シャワーを出しっぱなしにして、私はどれくらい 笑い と 泣き を繰り返したのでしょう。ようやく浴室から出たときには私は笑っていました。
全ての事象に対し笑いながら、たぶん相当な時間をかけて着替え、自分の部屋へとあがっていきました。四つん這いで。
もはや平行感覚がありません。重力に必死に逆らいながら自室へ到着して、そこからあとの記憶が無くなりました。
滅茶苦茶な頭痛と共に覚醒すると、やけに高い天井。
どうやらベッドではなく床で寝ていたようです。
いや、それよりも気になるのがなぎ倒されたペン立て。
机脇の棚の上に置いてあったペン立てに勢いよくぶつかったのか、床に散乱するペンたち。
軋む身体に鞭をうちながらなんとか拾い上げ元通りにすると、机の上に目がいきました。
…机の端にしわしわの紙が置いてあります。それは良いとして、紙に描かれた絵。
これが相当に気持ち悪いものでした。
おそらく「あれ?入眠剤のんでから私、なんか変だぞ?なんか頭の中を高速で楽しい出来事と悲しい出来事の記憶が駆け巡っているのだが…どう表現すればいいのか分からないから絵で描くよ!」
ということで意識が薄れていくなか、必死でその感覚を残そうとペンを握ったのでしょう。
宇宙?のような雑多な背景に人間の頭部に円形上の、天使の輪のようなものがついていて、それになんらかの絵が描き込みされている。その人間の目は斜視…というには極端に別々の方向を見ている ・・・
字で書きおこすとそう気持ちの悪いものではないが、未だに鮮明に思いだせるくらいには強烈なモノでした。
たまにお絵描きをしますが、普段のそれとはあまりにもタッチが違う。
怖くなってすぐにビリビリに破いて捨てました。
ゾルピデム酒石酸塩錠の服用一日目は平行感覚の喪失と、激しいフラッシュバック、それに伴う激しい感情の起伏… 忘れもしません。あの奇妙な感覚と床の硬さを。
一日目は、本当に初めての感覚で「楽しい」と笑っている間もどこか正気の私が冷静に自分を観察していました。
薬を飲んだあとは急激に睡眠段階が下がって意識が混濁するので、覚えていないことのほうが多く、一日目以外は母親や周囲の人から教えてもらった私の言動を書いていくことになると思います。
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