第3話

いつの間にか外は薄暗くなっていた。お兄さんは結局ケーキと紅茶の代金を支払ってくれて、最後に名刺を渡してくれた。

「君に会えてよかったよ。何かあったら連絡してくれ」

 私も持っていたメモ帳にメールアドレスを書いてその場で渡した。

「ありがとう。――そうだ、明日以降は業者の人にあの部屋の整理を頼むから、もう行かない方がいい。それじゃあ」

そう言って去っていく姿はやっぱり斉藤さんにはあまり似ていない。でも、彼も斉藤さんと同じようにとても優しい人なのだと思った。初対面の私に、突っ込んだ話をたくさんしてくれた。――最初は援交女子大生と間違えられたけど。

「それに、結局斉藤さんを成仏させる手がかりは何も無いなあ」

 帰り道を歩きながらひとりごちる。このまま斉藤さんが成仏出来なかったらどうしよう。お払いしてもらうのはちょっと申し訳ないような気がする。それは最終手段に取っておこう。



 私は、その足ですぐに自分のアパートに戻った。玄関のドアを開けると相変わらず斉藤さんがふわふわと浮いていて、私に微笑みかけてくれた。

「おかえり、柑菜さん」

「……ただいま、斉藤さん」

 私は部屋の電気をつけた。斉藤さんは節電にこだわりがあるらしく、私が出かけるときは彼のほうが勝手に電気を消してしまうのだ。まあ、電気代は節約したいから、それはそれで助かるのだが。

 荷物を机に降ろすと、斉藤さんと向き直った。お兄さんと会った話をしたいけれど、何を話していいか、少し戸惑った。そんな微妙な空気を感じ取ったのか、部屋の中を動き回っていた斉藤さんは、黙って私の前で静止した。相変わらず半透明で、足が見えない彼は、とても非現実的な存在だった。

 ――それでも、彼には彼の人生があったのだ。

「何かあったのかい?」

「あなたの、お兄さんと会いました」

 斉藤さんは目を見開いた。驚いたあと、困ったように視線をさまよわせる。

「……そうか。それで?」

「色々、話を聞いてきました」

 やっぱり斉藤さんとお兄さんの仲があまり良くないのは事実なのだ。昨日会社の同僚さんと会った話をしたときは、あんなに嬉しそうに笑っていたのに、今の斉藤さんは少し怖がっているような、あまり話をしたくなさそうな、そんな顔をしていた。

「ええと、元気そうだった?」

「はい。元気そうでした。名刺も貰ったんです」

 さっき貰った名刺をかざして見せると、斉藤さんは頷いた。

「……でもよく話せたね。兄貴とはあんまり仲良いわけじゃないし、それに君は見るからに学生だし」

 その言葉で、私はお兄さんに援助交際を疑われたことを思い出した。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、私はあえてこの出来事は話さないことにした。

「まあ、何とかなりました」

 あはは、とごまかし笑いをしながら頭をかくと、斉藤さんは腕を組んでみせた。

「それはよかった。でも、何を聞いたんだい? 俺の悪口?」

「悪口ってことは、なかったですけど……」

 言葉を濁すと、斉藤さんは珍しく皮肉ありげな笑みを浮かべた。

「分かるよ。兄貴は俺のことが嫌いなんだ。いい話なんかするわけが無い」

 断定的な言い方に、私のほうが戸惑った。斉藤さんはまた浮き上がって、ふわふわと部屋の中を回り出した。歩きながらものを考える人が居るように、斉藤さんもそういうタチなのだろう。

「そういえば、兄貴とは僕の住んでるマンションで会ったのかい?」

「はい。遺品の整理に来たとか……」

「へえ、てっきり兄貴はそういうの全部業者に任せると思ったよ」

「……」

 斉藤さんは顎に手を当てて、ふむ、と唸った。

「遺品……か。何を持っていったんだろうな」

 ゆっくりと呟いた斉藤さんは、遠い目をしてどこかを見つめていた。



 私はお兄さんとした話を、ざっくりと斉藤さんに話して聞かせた。最後にお兄さんが涙したところとかは、なんとなく省いてしまった。お兄さんは知られたくないかもしれないし。

「はは、兄貴は変わらないなあ……。それにしても、柑菜さんには本当に迷惑をかけてしまっているね」

「いえ」

「生きていても人の役に立つわけでも無く、死んでから人に迷惑かけるなんて、なんて人生なんだろう」

 斉藤さんは笑った。その笑顔は奇妙に歪んでいた。

「誰も俺の死なんか悲しまないだろう。兄貴もきっと呆れて笑ってるだろうさ。こんな風にあっけなく死んだ俺のことをね」

 ぷつり。自分の中で、何かが切れる音がした。

 私は、近くにあった電気スタンドを引っつかみ、コードを引き抜いてから斉藤さんめがけて投げつけた。それはするりと斉藤さんの身体を通り抜けて、派手な音を立てて壁に激突した。

「!? 柑菜さん?」

 斉藤さんがうろたえる。今の衝撃でスタンドは少し壊れたかもしれない。でも、そんなの構うもんか。

「うるっさい!」

 私は近くにあるものを次々斉藤さんに投げつけた。枕、クッション、ぬいぐるみ。それからかばんと携帯。全部斉藤さんを通り抜けて、壁にぶつかってフローリングの床やベッドの上に散らばってゆく。携帯は壁にぶつかったとき少しいやな音がした。斉藤さんは半透明だから被害を受けないけれど、逆に私を止めることも出来やしない。投げるものが無くなるまで、私は何かを投げつけ続けた。

「ちょ、ちょと待ってくれ!」

「ばか! 斉藤さんのばか!」

 なんだか無性に腹が立った。拗ねて、卑屈になって、返事に困ることばっかり言って。それだけならまだしも、「誰も悲しまない」とか、お兄さんが「呆れて笑ってる」だなんて。そんな言い方はあんまりだ。私が見たお兄さんの涙は、悲しみを物語っていた。仲たがいしたまま死別したことを、たぶん彼は悔いていた。

 私は斉藤さんをぶん殴って目を覚まさせたい気分だった。殴れないけど。

「誰も悲しまないなんて、本気で言ってますか!」

 私は叫んだ。斉藤さんはびくりと身体を震わせた。

「そんなわけ、絶対に、ないじゃないですか!」

 怒りのあまり言葉が途切れ途切れにしか口から出てこない。ちょっと暴れたせいで息も上がっていた。

「……君に何が分かるんだ」

「分かります! ……まず、私が悲しいです」

 荒い呼吸を落ち着けて言うと、斉藤さんは黙った。沈黙。

「……あの」


 るるるるるる。


 何か言おうとした斉藤さんをさえぎって、電話が鳴った。一つ息を吐いて電話を取ると、それはやっぱりというかなんというか、苦情の電話だった。あれだけ騒げば当然である。

「すみません。……はい、気をつけます」

 電話に向かって頭を下げつつ、私は受話器を置いた。


「いいかな?」

 中断した話の再開である。斉藤さんは一つ空咳をした。

「はい、すいません」

 斉藤さんは苦笑した。いやいや、と手を振って、彼も小さく頭を下げた。

「ありがとう、柑菜さん。なんだか変な言い方だけど、俺の死を悲しんでくれて。でも、俺と兄貴は本当に仲が悪かったんだ。だから、あんまり言いたくないけど、あの人はきっとそんなに悲しんでなんかないよ」

「頑固ですね。斉藤さんは」

「はは、そうかな」

「そうですよ。とっても頑固です」

 私は少し黙って目を伏せた。今日さっきまで話していたお兄さんを思い浮かべる。彼は眉間のしわを深くして、唇を震わせていた。本当に斉藤さんの死を悲しんでいないのなら、あんな表情をするわけが無い。

「お兄さんは、斉藤さんを親不孝で兄不幸だと、言ってました。世話のかかる弟だった、と愚痴ってました。でも、その目は優しかった。最後は涙を浮かべていた。それを、私は見ました」

 話しながら、私もだんだん目頭が熱くなるのを感じていた。胸が苦しくなって、目の前の斉藤さんがぼやけてくる。

「兄貴……が?」

「昨日会った会社の同僚さんは、斉藤さんが亡くなったのを、本当に残念そうにしていました。それでも、悲しむ人が居ないだなんて言ったら、二人が可哀想だと思います」

 ぽろり、と涙が一粒私の頬にこぼれ落ちた。

「私だって、悲しいです。こんな風に、斉藤さんのことを知るより、もっと前から、生きているときから斉藤さんと知り合いたかった」

「柑菜さん……」

 涙は次々に目からこぼれた。のどの奥が痛くて、鼻がつんとする。ティッシュはどこへやったかしら。私の言葉は途切れ途切れで聞き取りづらかったに違いない。でも、斉藤さんは黙って私の言葉に耳を傾けてくれた。やっぱり斉藤さんは優しいのだ。


「悲しい。悲しい。……どうして死んじゃったんですか」

 俯いて、そう呟いた。その拍子に涙がぽたぽた床に落ちた。それは斉藤さんに向けた言葉じゃなくて、自問に近かった。どうすれば斉藤さんが成仏できるかとか、おじさんの幽霊と一緒に暮らす面倒さとか、そんなことは全く関係なく、ただ斉藤さんが亡くなったという事実が悲しかった。


「柑菜さん……柑菜さん」

 ふわり、と何かが肩に触れた。空気の塊のような、そんな不確かな感触。冷たいような、温かいような何かを感じて顔を上げると、目の前に居た斉藤さんと目があった。私に触れていたのは斉藤さんだったのだ。そういえば、斉藤さんに触れられたことは今まで無かった。

 ――幽霊ってこんな感触なんだ……。

 斉藤さんはにっこりと微笑んでみせた。さっきの歪んだ笑顔とは全く違う、本当の笑顔。今まで見たことの無い、満ち足りた表情だった。

「ありがとう。君のおかげで成仏出来そうだ」

「え?」

 斉藤さんはゆっくりと手のひらを私に見せた。それは少しずつ透明度を増していた。そのまま消えてしまいそうに見える。私はあっけにとられて目を見開いた。

「どうやら俺にはこの世に心残りがあったんだ」

「心残り?」

 斉藤さんはうなずいた。

「俺はずっと孤独だと思っていた。誰の心にも残らぬまま、この世から消えると。そして俺はそれが嫌だったんだ。きっと、誰かに死を悼んでほしいと思っていた」

「それは……だから」

「そう、だからね」

 私の言葉をさえぎって、斉藤さんが説明を続ける。

「それは間違いだった。兄貴も、伊藤さんも俺の死を悲しんでくれていた。それを君は教えてくれた。……そして、君は俺のために泣いてくれた」

 斉藤さんはどんどん色を失っていった。透明になる。空気に混じっていく。

「たぶんそれで、俺はもう満足したんだ。この世に心残りがなくなった。もう、迷惑をかけなくて済みそうだよ」

「斉藤さん!」

「ありがとう、柑菜さん。俺は、君と出会えてよかった。本当は俺も、死ぬ前に会って友達になりたかったよ」

 微笑んだ彼は私に握手を求めた。差し出された手に手をかぶせても何の感触ももうしなかったけど、ストーブに手をかざしたときみたいな、柔らかなぬくもりを感じることが出来た。


「「さよならっ」」

 二人の声が重なり合って、その瞬間彼の姿は見えなくなった。

「……さよなら、斉藤さん」

 もう誰も居ない空間に向かって、私は小さく呟いた。返事が無いことが無性に悲しくて、私の目からもう一粒涙が零れ落ちた。――でも、これでよかったのだ。

「ありがとう。楽しかったです。……ちょっとめんどくさかったけど」

 笑って、涙を拭いた。非日常はこれで終わったのだ。明日からはまた学校生活が待っている。バイトも行かなくちゃ。

 私の人生は、まだ続いている。




 後日、斉藤さんのお兄さんから連絡があって、また二人で会うことになった。土曜日だったからか、お兄さんの格好はこの前のスーツとは違って、幾分かラフな格好だった。相変わらず厳しい表情をしていたが、服装のせいか怖さが半減している気がする。

「今日はあまり時間が無いんだ」

 そう言って、斉藤さんの火葬が終わったことや、遺品の整理を終え、あの部屋を引き払ったことを教えてくれた。

「墓も決まったんだ。場所を教えるから、よかったら会いに行ってやってくれ」

「ありがとうございます」

 ぺこり、と頭を下げると、お兄さんは重々しくうなずいた。

「それから、渡したいものがあるんだ」

「?」

 お兄さんは上着のポケットから一枚の写真を取り出した。

「遺品の整理をしていたら出てきたんだ。まあ、思い出に一枚もらってくれないか。嫌ならこのまま持って帰るが……」

「ぜひください。でも、いいんですか?」

「ああ、君はあいつの友達だからね」

 斉藤さんがこの世に実在した、という証明だ。私が出会ったのはなんというかそのあとだったけれど。

「それじゃあ……」

 お兄さんから手渡された写真には、笑顔の斉藤さんが写っていた。私が見ていた斉藤さんだ。だけど半透明じゃないし、きちんと足が写っている。スーツ姿で、何人かの男性と一緒に写っていた。これはたぶん会社の人だろう。「伊藤さん」らしき人も写っていた。飲み会ででも撮った写真だろうか。

「私には、まだあいつが死んだことがピンと来ないんだ」

 お兄さんは顎に手を当てた。なんだか見覚えのあるしぐさだ。

「もしかしたら死んだことにも気付いてないんじゃないかとか、成仏出来ずに誰かに迷惑かけてるんじゃないかとか、そんなことを考えてしまうよ」

 あまりにも的を射ている言葉に、私は思わず目を丸くした。

「はは、らしくないな」

「……ええ、もう大丈夫ですよ。きっと」

 私はそう言って目を伏せた。お兄さんが首を傾げたので、私は笑ってごまかした。

 ――きっと、斉藤さんは大丈夫。そう信じてる。


 空は青く澄んでいて、雲が薄く広がっていた。もうすぐ冬がやってくる。冷たい風のどれかに乗って、斉藤さんが天国に行ったのだろうかと、私はそんなことを考えていた。


おわり

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斎藤さんと私。――女子大生と幽霊サラリーマン 姿月あきら @chaaaning

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