こーひーぶれいく

魚田羊/海鮮焼きそば

この恋は苦くない

 休み時間の中学校の教室は小学校よりうるさい気がする。なんとなくいくつかに分かれたかたまりのひとつに、わたしも混じっていた。

 クラスでもわりと目立つほうなグループの端っこに、なぜかくっついてるわたし。いつのまにか一緒に行動してたけど、みんな悪い子じゃないけれど、正直わたしがいていい場所じゃない。きらきらのふりするのはしんどい。だったらこんな二年生の終わり際まで引っ張ってないで、すっぱり離れればよかったんだ。


 いつのまにか話題が変わっていたみたい。少しぼーっとしちゃってたけど、また誰かのうわさ話なんだろうな。それか恋バナ。どっちにしろ好きな話題じゃない。あたたかい日差しが、どうにかわたしを暗くしないでいてくれる。

 背が高いバスケ部のあの子の、よく通るソプラノボイス。


「でさあ、歩美あゆみセンパイが卒業式の日に告るんだってー」

「誰によ」

西崎にしざきセンパイ。バレー部のエースだった人。どう、いけると思う? ライバル何人もいると思うけど」

「あー、あの人めっちゃ爽やかイケメンだよね! 歩美センパイならワンチャンあるんじゃない?」


 わたし以外の三人がぽんぽんしゃべる。みんな早口だし、話題変わるの早いし、話の流れについていくだけで大変。


「ワンチャンあってほしいけど、もしうまくいかなかったら悲しくなっちゃうね。玉砕する人を見るのはつらいから……」


 どうにかしがみついて、いい感じに返事をする。そうしたら流れ弾が飛んできた。


「ね。そういやさ、真衣まいって好きな人とかいるん? 憧れの先輩とか先生とかを影でずーっと追いかけてるみたいなの、似合いそー!」

「い、いや、そんな人いないよ!」



 慌ててそう返す。

 大うそつきだ。あの子が正解だ。わたしは、好きな先生のことを隠したいだけ。

 だって、それを言ったら誰先生か言うまで質問攻めでしょ? そうなったあとのことは簡単に想像できる。


 わたしの大好きな先生。理科の奥井おくい先生。人気にんきのない、先生。


「奥井って、こっそり実験器具でコーヒー淹れて飲んでるとかいう、あの?」 

「顔は悪くないけどさ、あいつすぐガミガミ言ってくんじゃん。厳しいからあたしは苦手かな」

「まいまい、もしかしておじさん趣味ー?」


 これは想像で、今ほんとに言われてることじゃない。だけど被害妄想でもない。前に、「わたしの部活の副顧問だからわかる。あの人はすごくいい先生だよ」って言ったら、そんな感じの反応されたもん。


 だから誰にも言えない。わたしの中だけにしまっとくの。

 気がつけば卒業まで一年ちょっと。それまでに先生に気持ちを伝えるかはまだわかんない。先生と生徒なんて、結ばれちゃいけない関係だもん。受験とも向き合いながら、ゆっくり考えることにしよう。大丈夫。あと一年あるんだから。


 そう思っていた。ばかだった。



 ☆



 修了式の日の放課後。一目散に理科室へ向かった。先生はきっとそこにいるはず。会いに行かなきゃ。

 だって――奥井先生が、来年度から別の中学に移るから。


「先生!」


 緑の床の古い廊下。わたししかいないのをいいことにありったけ叫んだ。返事なんて待たない。理科室に灯りがついてるから。意識してそっと扉を開けた。

 ぎらぎらの目力とするどいお鼻が、わたしを出迎える。


津久見つくみか。どうした、わざわざこんな場所まで来て」

「先生とお話ししたかったので」


 最後に、とは言いたくなかった。

 硬い木のいすに長い手足を持て余して、先生は黒板を眺めてた。大声出しちゃったのに、先生はこっちを向いてまばたきしただけ。いつものしゃがれ気味な声で返してくれる。


「変わったやつもいたもんだな」


 ぐしゃっと呆れ笑いの先生。この人はほんとに笑顔がへただなあ。作り笑顔ではなさそうなのに。くちびるの端っこ、引きつってますよ?


「変でいいです。あの、いいですか?」

「まだ時間はあるしかまわないが。女子卓球部で送別会してくれただろう。それじゃ足りなかったか?」

「たしかにわたし中心で計画しましたけど、足りないです。思い出話でもしましょう?」


 ほんとはそれ以外にも言えたらいいんだけど。結局、わたしの気持ちは墓場まで持ってくことにしたから。生徒のこんな気持ちは、先生に伝えちゃいけないから。

 先生と通路を挟んで向かい合う席に座った。


「思い出話か……女卓に入ってくれたとはいえ、最初はそんな関わりなかったよな。まあ、俺から積極的に関わることはしないから当たり前か」

「先生はそういうとこちゃんとしてますもんね。近づきすぎないようにって」

「加減が難しいが、線引きはきっちりするべきだよ。ただ、近寄りがたいだとか冷たいだとかよく言われるのはそのせいなんだろうな」


 自分を責めるみたいな言い方だった。直さなきゃって思ってるのかな。わたしは今の先生がだいすきだけど。


「わたしも最初はそう思っちゃってましたけど。印象が変わったきっかけ、ちゃんと覚えてます」

「そんな印象に残ることしたっけな」

「したんですよ。実験のとき、水溶液の入った試験管を振り子みたいに揺らした男子がいて。先生はそれをすごく真剣に叱っていました」


 昨日のことみたいに思い出せる。その男子に訴えかける目の、力のこもり方まで。


「あー……あったなそんなこと。中一だと実験が遊びの延長線上にあったりするからな。『実験は楽しいが遊びではない。扱いに気をつけなきゃならない物質やら器具は多いんだから、緊張感を忘れるな。でなけりゃお前の身体が傷つくんだぞ』と、言った覚えがある」

「覚えてるじゃないですか。そういうことを落ち着いて、でもはっきりと伝えてる様子が印象に残ったんです」 

「当然のことをしただけだが、ありがとうな。そんなところまで気づいて伝えてくれる人間の貴重さは知っている」

「えへへ。褒められちゃいました。それだけじゃないですよ。部活でもお世話になりました。みんなの体調に気を配っていただいたり、あとラリーの相手も。備品の点検だってまめにしてくださいましたし」


 奥井先生を好きだって自覚したのがいつか、さっぱり覚えてないんだけど。部活でお世話になっているうちに自然とそうなったんだと思う。


「津久見は人のいいところを見つけるのが上手だよな」

「わたしだけじゃないです。女卓の子はたぶん、ほとんどみんな先生のこと尊敬してますよ。その証拠に、わたしが『送迎会やりたい!』って言ったら、すごく積極的に協力してくれましたもん。私だけじゃ考えつかなかった案もいっぱいありました」


 もやもやはした。『こんなところまでライバルなのかな』とかね。だからわたしの気持ちは明かせなかった。でもやっぱり、嬉しいの。奥井先生と深く関わった人にはちゃんとわかるんだ、って。


「そうか……えらく盛大に送り出してくれたな、とは思ったが。改めて感謝しないとな。津久見にも、部員にも、この学校にもだ」

「えへへ。この場所、好きでいてくれてますか?」


好きって言わせるみたいな言い方になっちゃったかな。返ってきたのはおだやかな笑顔だった。


「少なくとも愛着はある。あと六年で定年だぞ? さすがにここが最後か、悪くはないな。そう思ってたんだが」

「やっぱりそうですよね。わたしも最初聞いたとき信じられなかったです。しかも異動先の中学、最近荒れてるって噂のとこですよね」

「そうなんだよ。サポートに入れって言われたようなもんだ」


 学年主任の経験もない俺に任せるか。

 真後ろの実験台に手をつきながら、先生は困ったみたいに笑う。でも、その目はきらきら光ってて。


「おじさん、もう少し頑張ってくるよ」


 思わずあふれたみたいな先生の言葉が。とくん。わたしの心臓を強く押す。

 先生は大きく息を吸い込んで、ゆっくり、ゆーっくり吐き出した。先生が天井を見上げてたのが残念。今の顔、見せてくれなかったから。


 なにかを振り払うみたいに先生が言った。


「なあ、コーヒー飲むか?」

「コーヒーって、噂の……?」

「どっかから話が漏れてるらしいな。ドリッパーやらコーヒーフィルターやらがさあ、実験器具である程度代用が効くのが悪いんだよ」


 先生が理科準備室に消えていく。理科室と直接つながってる狭い部屋。

 なんだか座っていたくなくて、あとを追いかけてみた。 


 はじめて入ったそこはきれいに掃除されていた。

 先生が手を伸ばしていたのは、器具とか資料が置いてある棚の真ん中。持ち手とフタのついた小さめのバスケットだった。中にいろいろ入ってるのが見える。カップにソーサー、それにコーヒー粉のパックとか。あとは束になった白い――


「いいところのやつだ。味は保証する」


 声が降ってくる。いつのまにか手提げの中をのぞき込んでしまっていた。

 手提げからコーヒー粉の小袋を取り出した先生が、かすかに笑ってる気がした。ような。



 ☆



「ここで飲むコーヒーも最後か……」 


 実験用のスタンド。ろう斗。ろ紙。ビーカー。軍手にガスバーナー。おしまいにメスフラスコと、液体をかき混ぜる用のガラス棒。実験台にてきぱき並べた先生は、わたしに背を向けてコーヒーを淹れ始めた。

 こぽこぽ、ぼこぼこ。お湯が沸く音がする。


「本当はコーヒー豆を常備しておきたいんだが、学校で豆焙煎して挽くところからやるのは気が引けるだろう。日持ちを犠牲に個包装の粉を置いてるわけ」

「そこは気が引けるのに堂々と実験器具でコーヒー淹れるの、なんだか変ですよ?」


 なんだかいじわるしたくなって、そんなこと言ってみた。正論だとは思うけど。


「近頃は実験器具モチーフのコーヒーメーカーがあるんだ。元々親和性は高いってことだよ。俺はなにも悪くない」


 返ってきたのはちょっとおどけた声。さすがに冗談なんだろうな。レアな反応が見れて嬉しいわたしがいる。いる、けど。


 このコーヒーを飲んだらきっとお別れなんだ。春休みの離任式はないみたいなもの。体育館のステージの上と下だから。


 伝えるならここしかない。でも、この気持ちをぶつけたって困らせるだけなのはわかってる。わかってるのに止められない。わたしの中にしまっとくって決めたのなしにしたい。だってそれくらいには――


「すきです。先生」


 あれ。今わたしは、なんで。


 勝手に動いたわるい口を押さえた。聞こえちゃったよね。先生がこっち振り向いてる。まだコーヒーを飲んでいないのに、顔が熱い。


「……あの、今のは、ですね」


 お湯入りのビーカーを軍手越しに持ったまま、こちらを振り向く先生。すごく真剣な顔だった。わたしがうっかりこぼしちゃった好きを、受け止めようとしてくれてるような。


「やっぱり、なんでもないです。さっきのは聞かなかったことにしてください」

「悪いが、今は集中させてくれ。コーヒーは湯を注ぐ速度とか時間が少し違うだけで変わるんだ」


 そっけない、けどどこかあたたかい声。先生はまたドリップに集中し始めた。湯気と一緒にコーヒーのまるい香りがする。ゆっくりと回しながらお湯を注いでく腕が思ったよりがっしりしてて、先生もやっぱり男の人だ。


 メスフラスコの中にできたコーヒー。ふたつのカップに注がれてく。先生は片方をソーサーごと持って、わたしのいる実験台にそっと置いてくれた。


「まあ、一杯飲むといい。東京の老舗が出してる、深煎りのメキシカンコーヒー。なんも入れないブラック。俺がいつも飲んでいる味だ」

「はい。いただきます」


 カップを持って、すうっと香りを吸い込んだ。ああ、ほっとする。コーヒーの香りって目が覚めそうなくらい強くて独特なのに、なんだかやわらかい。


 大好きなひとが淹れてくれた、最初で最後のコーヒー。なんだか緊張する。思い切って、ひと口飲みこんだ。


「……けっこう苦い。でも、おいしい」


 いつのまにか声が出ていた。

 苦いけどそれだけじゃない。とんがってなくてさらりと飲める。それで最後に少しとろっと粘って、アーモンドみたいな味と甘さが出てくるの。


 ちらりと見た先生は、目をつむっておいしそうに……あれ、顔にしわが寄ってる。


「そうか」


 もうひと口飲んで顔を上げたら、先生が満足そうに笑ってた。でもすぐに真剣な顔へ変わる。


「仮にさっきの言葉が恋愛的な意味での「すきです」だとすれば、だが。津久見、お前の気持ちには答えられない」


 ゆっくり首を右に、それから左に振って。先生ははっきりとそう言った。

 当然の答えだと思う。でも、のどの奥がずきりと痛い。先生の顔から目を逸らせない。


「苦い気持ちだろう」

「……はい。このコーヒーみたいに。でも、ここで『嬉しい。付き合おう』って言う先生はだめなことも知ってます」


 ゆるい笑顔を作る。ほんとのことなんて見せない。普段ならできるのに、なんだか今はうまくいかない。


「わかっているならいい。俺はな、ずっと一貫した指導をしてきたつもりだ。いくら楽しいことでも、してみたいことでも、自分に危険が及びかねないことはするな、ってな」

「わかってます。先生の、そういう真面目なところがすきなんです」

「そこか……まあ、真面目というか、正しくありたいとは思うがな。生徒側からアプローチしてきたとしても、それを受け入れた時点で悪いのは教師だよ。受け身は理由にならない」


 先生の澄んだ、真剣な声。力と心のこもった声。試験管で遊ぶ男子を叱っていたあの日と、おんなじように強くひびいて。


「もし生徒と関係を結んだなら犯罪だ。言い換えれば、年齢・立場の違いやら信頼を盾に、教師が生徒を傷つける危険性が常に潜むってことだ。俺はそれをしたくないし、一教師としても絶対にしてはならない」


 やっぱり先生は先生だ。頼りになって、ぶれない正義があって――教師と生徒の関係でしかいさせてくれない。だからこんなにきっぱりと断れるんだろう。間違いそうな恋が始まる前に断ち切ってくれるんだろう。

 でもやっぱり、このままで終わりたくない。だいすきな先生にひと泡吹かせたい。


 理科準備室に入ったとき。ひとつ、気づいてたことがある。


「すぐ戻ります!」


 ドアが開いたままなのは知ってる。ぱたぱた大きな音を立てて、わたしは理科準備室に入った。目当てのものを――スティックシュガーを手に取って理科室に帰ったら、先生の角ばった肩に両手を乗せて、ささやく。細かいひげのそり残しまで愛おしい。


「うそつき。このコーヒー、先生がいつも飲んでる味と違うじゃないですか。ほんとはこれが好きなんですよね」


 顔が近いのもあるかもだけど、先生は露骨にひるんでた。あんな束になったのを持ってるのに、意地張ってブラックを飲んだんだ。

 なにも言わせない。言わせてあげない。スティックシュガーをふたりのカップに一本ずつ入れた。なんとなく、くるくる回しながら。


「『苦いけどおいしい』じゃ満足できないです。甘いのが一番すきです。わたしの気持ち、伝わってますよね」


 残りをひと息に――は無理だし味わいたい。数口に分けて飲み干したら、先生に笑いかける。


「ごちそうさまでした。おいしかったです! 先生、今までありがとうございました。これからも素敵な先生でいてくださいね!」

「あっ……ああ。約束するよ。こちらこそ、二年間ありがとう」


 まだ少し口が開いたままの先生にお辞儀して、教室を出る。先生も最後はしっかりわたしを見て礼をしてくれた。


『これでいい、これでいいんだよね』


 熱くて止まらないものが口元にかかった。でも知らない。気づかなかったことにして、誰もいない廊下を走っていく。

 たんっ、と床を蹴る音。わたしのせいで響いた。

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