第18話 汝、自身を識れ



 始と別れてから、ディアドラはずっと後悔していた。彼に対し、突き放すような言葉を放ってしまったからだ。


 彼を守るためにはこうするしかなかったと、何度も繰り返し彼女は自分に言い聞かせる。

 それでも疼くような痛みが、胸の中に残り続ける。そんな中、所持している端末から響くは、警告のアラート。美術館に昨夜の強盗達が現れたという合図だ。

 ならばと彼女は全速力で駆け、街を走り抜ける。そんな最中すれ違ったのは、先ほど突き放した少年───即ち、胸の痛みの正体だった。


「美術館に、向かうのか」

「……はい。強盗達は私が止めます。今この場でロゴスを使えるのは、私だけですから」


 ディアドラは毅然と告げる。それが自分の役割であるとでも言うかのように。

 彼女以外のロゴス使いは、全て別の任務により、この場へ駆け付ける事が出来ない。それはつまり彼女1人の存在が、この場を守る最後の砦になっていることを意味していた。


 彼女はその現状を恐れない。何故なら今までずっと、1人で戦い続けてきたからだ。


「…………。俺も──────」


 始は協力を持ちかけようとし、すぐさま口を閉ざした。

 その脳裏には、万が一に再び暴走した時の懸念がよぎる。同時に、ディアドラの過去を知った事も、協力を躊躇させる一因となっていた。

 先ほどまで始は、彼女と共に戦いたいと心から願っていた。にも拘らず、始自身の力への懸念と、彼女の過去への同情が重なり合い、彼は今なにも言えない状態へと陥っていた。


「どうなされましたか?」

「いや、何でもない。ただ、ちょっと謝りたかった。急な事態だから、手短に言うけど。

 俺、ディアドラのこと何も知らなかった。それなのに無理に協力しようとして、ごめん」

「ミスター・レイヴンあたりから話を聞いたのですか? お節介ですね、彼も。

 気にしないでください。私としても、貴方に言い過ぎました。きつい物言いになってしまい、すみません」

「そう……、か」


 沈黙が走る。ディアドラは言葉を紡ぎたかったが、何も言葉を見つける事が出来なかった。

 突き放してしまった事への謝罪や、始への力の使い方の助言。浮かぶ言葉は様々だが、彼女はそれを口に出来ずにいた。

 美術館へ行かねばならないのに、始を見ていると心が惑う。機関の一員としての使命以上に、自分の中の感情を抑えきれない。それは彼女にとって、未知なる感情だった。


 今の彼女にとって、始への感情は何よりも大きく心を占めるものとなっていた。

 それは過去の自分と重ねた同情か、あるいは突き放した事への罪悪感か。彼女自身にも分からない。

 惑っている最中、始は少し逡巡するように視線を逸らしながら告げた。


「俺は邪魔にならないよう、避難してるから。気をつけてな。どうかこの街を、護ってくれ」

「──────。言われずとも分かっておりますわ。任せてくださいまし」


 その言葉に背中を押されるように、ディアドラは胸の内に燻る思いを振り切って、戦いへと赴く道を選んだ。

 自分以外に戦える人がいないなら、自分が行くしかない。そう決意を胸に抱き、彼女は頷く。そのまま彼女は美術館へと走りだす。

 始はその背を、ただ静かに見送るしか出来なかった。


「(違う。俺が言いたいのは、こんな言葉じゃない。彼女の隣に立ちたい。けれど……)」


 見送りながら、始は後悔していた。だが彼には、それしか選択肢は無かったのだ。これ以外の道は、自分にはない。そう彼は自分に言い聞かせる。

 本当はディアドラと共に戦いたい。隣に立ちたい。力になりたい。だが、それは許されない。始は力を使いこなせない、護られるべき立場なのだから。

 それを彼は、再三胸の内で反芻した。悔しいような、自己嫌悪のような、そんな説明できない感覚が始の胸中を支配する。そのまま彼は重苦しい脚を前に動かし、家へと向かって走りだした。


「畜生。なんで毎度毎度、こんなにも足が重いんだ……ッ!」


 空はもう、夕暮れの赤色に染まっている。だが始は、空を見上げる気分にはなれなかった。

『誰かを助けたいのに、助けられない』。そんな今までの自分が否定されたかのような、あるいは無力だという現実を突き付けられるような感覚。

 生きる理由を見失いそうになる苦しさ。数多の感情が濁流のように襲う。それらを無理やり振り払いながら、始は全力で走っていた。


「あれ? 始? どうしたのそんな急いで?」


 全力で走り抜けるその最中、始は知った声が聞こえたので立ち止まる。


「え──────。あ。姉ちゃん?」


 振り向くとそこには、彼が今までの人生で誰よりも見知った顔、長久詩遠が立っていた。


 ◆


「今、帰り?」

「うん。始もいま帰るところ? どう? やるべき事は終わった?」


 姉の問いに、俺の思考が停止する。

 『やるべき事が出来た』。俺が少し前に、言った言葉だ。

 今振り返ると無理がある言葉だったのに、姉ちゃんは、何も聞かずに俺を見送ってくれた。

 だがその結果は、一日を無駄にしただけだ。資料を纏めた程度しか出来ず、それ以外はディアドラの隣に立つ事も、強盗を倒す事も、何も出来ていない。

 理由は簡単だ。俺が、力を制御できないからだ。


「ああ。うん。大丈夫、だよ。全部終わったから。これから家に、帰るところ」


 俺は俯きながらも、笑うような声色で答えた。何もできなかったことを思うと、無力さに情けなさが込み上げてくる。俯いたのは、そんな自分の情けない表情を姉に見せたくないという、安っぽい意地でしかない。


「──────本当に?」


 だが、どうにも隠し切れそうにない様子だった。姉はじとーっとした目で俺の顔を覗き込む。こういう表情をする時は、決まって姉が俺の隠しごとを見抜いた時だ。嫌な予感がする。


「な、なんだよ姉ちゃん。いきなりじっと見て」

「始。まだそのやるべき事、終わってないでしょ?」

「え? あー。いや、その」


 予感は的中した。なんですぐわかるんだよ。長年親代わりをしていると、勘が鋭くなるのか?

 正直に話したいが、生憎ロゴス能力の件は話せない。そうなると、どう説明すればいいのか……。

 そもそも話していい物なのか? ロゴスとかそういうのって。そう迷っていると、姉が微笑んで言葉を続けた。


「隠さなくたっていいわよ。見れば分かるもん。どうせ、"やる事"終わってないでしょ?

 今の始、明らかに満足してないし。いつも誰かを手伝ったり、誰か手助けし終わった時、絶対そんな顔しないじゃん。

 いつもは人助けが終わったら、もっと満ち足りた顔してるでしょ? なんていうか単純に、嘘つくのが下手」

「え? 俺、いつもそんな顔してた?」

「うん。してる」


 知らなかった。少し恥ずかしい。確かに誰かを助けて、感謝されるのは嬉しい。けれど、表情にまで出てたとは。赤面ものというか、穴があったら入りたい話だ。

 ──────いや、待てよ?


「姉ちゃん、俺“やるべき事”が人助けだなんて、いつ言ったっけ?」

「分かるわよー。だって始があんなに必死になるなんて、誰かを助けたいって時でしょ?」

「うぐっ」

「で、詳しくはわからないけど、何か最後まで出来ないなにか原因があった。

 それでどうしようって迷っているか、もう諦めて帰ろうとしていた、ってところかな?」

「なんで……、そこまで分かるんだよ」

「そりゃあ、始のお姉ちゃんだもん。あと保護者」


 姉は誇らしげに胸を張った。流石にロゴスは知らずとも、全部お見通しってわけか。

 ここまで分かってくれているのなら逆に都合がいいのかもしれない。下手なプライドが邪魔をして家に帰れなかったのだから、ロゴスも何もかもを忘れて家に帰ればいいだけだ。

 そう全てを投げ出そうとした時、姉が人差し指を立てながら唐突に口を開いた。


「1つだけ、覚えていてほしい事があります」

「? 何、いきなり改まって。門限か何か?」

「それはあらかじめ決めてるでしょー。そうじゃなくて、言い忘れてたなって教訓!」

「教訓って、何さ」

「やりたい事があったらさ、途中で諦めずに最後までやった方が良いよ」

「────────────。」


 慈しむような優しい声色で、姉は俺にそう教えてくれた。

 言葉を失った俺に対し、姉は真正面に向き合って微笑んでくれる。その微笑みは、無力感と自分への怒りに支配されていた俺の心に染み入るようだった。


 昔も確か、似たような時があったっけ。奇しくもそれは、俺が初めて無力感を味わったあの日のことだ。

 泣きじゃくる俺に、大丈夫だからと励ましてくれた時を思い出す笑み。それが今の姉からは感じ取れた。


「私も、いずれは個人の博物館とか美術館が欲しいから学芸員やってるんだけどね? これがまた凄い大変でさー。

 展示品の並べ方も、来る人みんな平等に見えるように気を遣わなきゃだし。あと展示品が痛まないように、空調とか湿度とか調光とか注意しなくちゃだし? それでたまに、後悔する時とかもあるんだよね。なーんでこんな仕事選んだんだろ、ってさ」

「後悔!? 姉ちゃんが? あんなに楽しんでるのに?」

「うん。そうだよ? でも後悔以上に、学芸員すっごい楽しい。秘宝とか見られたりすると特にね!

 あ、えっと、話ズレちゃったけど、なにが言いたいかっていうとね? やりたい事やろうとしたら、必ず壁があるの。

 でも、それを理由にやらないでいたら、多分、やるよりもっと後悔すると思う。だから始も、ちゃんとやりたいことは、貫いた方がいいと思うんだ」

「俺の、やりたいこと?」

「もし迷いそうになったら、“なんでそうしたかったのか”を振り返ると良いかもね?」


 言われて俺は、何で人助けに拘ろうとしたのかを振り返る。

 どうしてディアドラを助けたいのか、なんでR.S.E.L.機関の力になりたいのかという、その理由を探るために。


 それはつまり『人を助けたい』という願いの源流を辿るという事だ。

 思い出されたのは、幼い頃の火事の記憶。ただ助け出されて、目の前で命が失われていった、俺の幼い日の記憶だ。

 あの時はただ、無力な自分がただただ嫌だった。両親を助けられなかった俺に、生きている価値はあるのかとすら思えた。

 その反動なんだろうか。俺はあの日以来、誰かを助けたり手伝ったりする事に、強く拘るようになっていた。その理由を俺は、記憶の彼方から掻き分けるように手探った。


「俺が誰かを、助けたかった理由?」

「確かさ、川で溺れてた子犬を助けた時、あったよねー。家が焼けちゃって、何処に住もうかって話し合ってた時に、偶然川に犬が落ちてて。それ見て始ったら急に駆け出してさー。なりふり構わずに飛び込むんだもん。びっくりしちゃった」

「そんなこと、あったっけ? いや、うん。あったかも」

「なにー? 夢中すぎて忘れてたの?」


 姉が語る過去を聞いて、ようやく朧気ながら、初めて誰かを助けた記憶が蘇ってきた。

 そうだ。俺は確かに、自分を顧みずに川の中に飛び込んで子犬を助けた事があった。死にそうな子犬の声が少し前の自分の泣き声と重なって、無我夢中だったのを覚えている。

 あの時の俺は、褒められたかったとか感謝されたかったとか、そういった打算的な感情から助けようとしたわけじゃ断じてない。あれは、確か。


 俺があの子犬を、助けようとしたのは──────。


「あの時はただ……、子犬を助けたかった。

 苦しんでいて、命が失われそうで……、嫌だったから」

「そう。それが始だよ。誰かが苦しんでいたり、困ってたりするのが嫌だから助ける。

 そういうがむしゃらさが、お姉ちゃんは好きだなー。がむしゃら過ぎるのも、困り物だけどね」

「誰かが苦しむのが、嫌──……」


 そう呟いた瞬間、俺の中でなにかが噛み合ったような気がした。

 絡まり合った紐がほどけるような、あるいは錆びついていた歯車が、動き出すような感覚。

 身体中を、特に脚を縛っていた重苦しい感覚も消え去った。それどころか、体中に力が溢れる感覚すらある。


 直感で理解できる。いま俺の中にあるナニカが、長久始という人間と完全に合致した。


 ──────何が? そんなこと、すぐにわかる。俺に宿っている、醒遺物フラグメントの力だ。それ以外考えられない。

 俺に宿った力が、まさに今この瞬間、完全に俺のものになった。その事実を俺は、直感と心で理解することが出来た。


 だがしかし何故いまなんだ? どうして急に、力が俺に合致した?

 そう考えた時、ある言葉がよぎる。ディアドラに聞いた、ロゴス能力の最も重要な要素についてだ。確か、意志と言っていたっけ。


『ロゴスの性質は、そのまま使用者の意志を表すのです』


 ロゴスの根源は意志であるという。そして今まさに、俺の中にそのロゴスの力が満ちる。

 これは即ち、ロゴス能力……俺の場合は醒遺物フラグメントを動かす力が、俺に満ちた事を意味していた。


「まさか、そういう事なのか? この気持ちが俺の、ロゴスの根源になる意志だとでも?」


 誰かが苦しむのが嫌だ。だから誰かを助けたい。迷惑になるんじゃないかとか、自分が認められたいからなのかとか、そんな迷いは関係ない。

 『自分が助けたいから助ける』。これが俺の意志──────ロゴスの根幹だっていうのか?


 そう分かった上で振り返れると、少し前の符号がヒントになっていたと気付く。

 アラートが鳴り響いた時、逃げようとした俺は、不自然に足が重かった。あれはつまり、俺の意志に反する行動を、ロゴス能力が抑制したってことなのか?


 となれば、ロゴス能力に振り回されていた理由も分かる。俺が俺自身の、意志を理解していなかったからだ。


 だが何故急に制御が出来た? 「誰かを助けたい」なんて、ずっと思っていたというのに。

 それがこんな唐突に、ロゴス能力と噛み合うわけが──────。


『初めから何でも知っている奴なんかいないんだ。神様じゃねぇんだから』

「……そっか。分かっていた気でいたけど、俺は自分を、なにも理解できていなかったんだ」


 脳裏を過ぎたのは、レイヴンの言葉だった。確かに俺は、俺を何も知らなかった。

 ただ助けるという結果にだけ躍起になっていて、その根っこにある最初の想いを忘れていた。

 助けるために誰かを傷付けるとか、相手を思いやり過ぎて助けないとか、そんなんじゃない。俺は、俺が助けたいから助けるんだ。


 それを思い出した事でようやく、俺は俺の意志を初めて自分のものにできた。

 ディアドラは、『知は力』だと言っていた。実感を経て納得を覚える。ああ、これがそういうことなのか。

 俺は今まで、俺自身を知らなかったんだな。


「なぁに? さっきからぶつぶつ言って」

「いや、何でもないよ姉ちゃん。ちょっと、考えを纏めてただけ」

「そ。それじゃあどうする? このまま家に一緒に帰る?」

「いや、大丈夫。まだちょっと、やり残したことがあったから」

「そう。じゃ、晩御飯までには帰るのよ」

「オッケー。ああそうだ、言い忘れてたよ。ありがとう!」


 去り際に俺は、飛び切りの大声で姉ちゃんに感謝の言葉を叫んだ。

 姉ちゃん、いつも心配かけてごめん。そしてそれと同じぐらいに、俺を育ててくれてありがとう。


 何よりも、俺に気付かせてくれてありがとう。


 誰かに認められたいからじゃない。俺は、誰かが苦しむのが嫌だから助けたいんだ。

 それは嘘偽りじゃない。心の底からの俺の“意志”だ。その意志を満たすためにも────。


「ディアドラを助ける」


 そう口にし、全力疾走で美術館に向かう。今までに体感した事が無いぐらい、体が軽い。


 俺は強い自信と意志を胸に、ディアドラの下へと向かう。

 だが、同時に懸念も胸に抱いていた。能力を制御しきったとはいえ、俺という協力者をディアドラは拒むかもしれない。

 彼女の過去を鑑みれば、それは在り得る可能性だ。けれど、俺は──────。


 いや、迷うのはやめよう。


 自問自答はもうやめだ。続けたところで、無意味なトートロジーが反響するだけだ。

 今は俺の意志に沿って行動して、醒遺物フラグメントの力を使い強盗達をぶちのめす。ただそれだけだ。


 後のことを考えれば、やるべきことは多いだろう。本当なら、家で待っている方が賢明な判断かもしれない。だがそれは、俺の意志じゃない。  『助ける』と言葉にしたなら、あとはそれを成すだけだ。そんな意志を全身に駆け巡らせ、力へと変えて美術館への道を駆け抜ける。


 風を全身に受けつつ、ふと俺は空を見上げた。そこには鮮やかな夕焼け空が広がっていた。



 その空はまるで──────迷いのない今の俺の心象を、表しているかのようだった。

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