第219話 全てが終わって
リビングに美羽と共に戻ると、直哉と桜は何も話さずに悠斗達を待っていた。
おそらく、悠斗達が気になり過ぎて会話が出来なかったのだろう。
二人の心配そうな視線に、もう済んだのだと笑みを返す。
「終わったぞ。もう俺達があいつと関わる事はないはずだ。……松藤と直哉は、ちょっと分からないけど」
少なくとも、悠斗と美羽は茉莉と関わりたくない。
学校が別だし、登校時間も違うので、会う事もないはずだ。
ただ、直哉達は学校が同じなので、どうしても茉莉と顔を合わせなければならない時もあるだろう。
そのフォローがあまり出来なかったと苦笑を浮かべれば、直哉が首を振った。
「そっちは俺達で何とかするさ。というか、本当なら俺が言ってやらなきゃいけなかったんだけどな。任せて、ごめん」
「俺も言いたい事があったし、気にすんな」
「そうだよ。私も言いたい事を全部言って、スッキリしたからね」
「……ありがとう」
直哉がくしゃりと表情を歪め、頭を下げる。
最後を任せたのが心残りなのかもしれないが、直哉が居ると話が進まなかったと思うので、これで良かったのだろう。
直哉が頭を上げたタイミングで、桜がおずおずと口を開く。
「あの。直哉先輩は篠崎先輩と、その……」
「さっき篠崎に言ったけど、戻さないよ。もう篠崎に未練はないし、それに――」
直哉が桜を真っ直ぐに見つめた。
穏やかな瞳に見つめられ、桜が居心地悪そうに体を揺らす。
「あ、あの、何か?」
「ああいや、何でもない。桜も、ありがとな。怒鳴ってくれて、嬉しかった」
「いいいいえいえ、お礼を言われるような事じゃないですよ! むしろ、勝手にあれこれ言ってすみません!」
直哉のお礼に、桜が一瞬で顔を赤くした。
両手をぶんぶんと顔の前で振る仕草が可愛らしい。
なぜか隣から冷気が流れて来たので、思考を中断させる。
「それが俺には嬉しかったんだ。ずっと、ずっとお礼を言いたかった。ありがとう、桜」
「わ、私はただ、直哉先輩が凄く苦しそうで、気になっただけです」
「桜はそれだけだったのかもしれないけど、俺は凄く救われたんだよ。それに、今も一緒に居てくれてる。本当に、ありがとう」
「今はその、何と言いますか……」
桜がもごもごもと口を動かし、小さく言葉を口にした。
何と言っているかは聞き取れないが、予想は出来る。
ただ、このままでは行きつく所まで行きそうなので、流石に口を挟ませてもらう。
そういう事は、二人きりの時の方が良いだろう。
「はいはい。そこまでだ。気持ちは分かるけど、積もる話は後にしてくれ」
「あ、ああ、悪い」
「その、すみません……」
直哉と桜がしゅんと肩を落とし、会話が途切れた。
何にせよこれで一段落したものの、そろそろ二人を帰らせるべきだ。
長話をしたせいで、夏場にも関わらずそろそろ日が落ちるのだから。
ただ、今も僅かに誰かの声が聞こえてきている。
美羽や桜には用はないはずなので、悠斗か直哉だ。
本人は必死なのだろうが、申し訳ないが非常に
同じ気持ちなのか、直哉が渋面を作り、肩を落とした。
「……帰るに帰れないなぁ」
「苦情が来ると困るんだけどな」
あまりにも騒ぎすぎると、近所迷惑だ。
悠斗達からすれば関わる理由がないとはいえ、他の人からすると悠斗達が薄情な人間に思えるだろう。
そこまで狙って騒いでいるのなら、大したものだ。誰かが出て行かなくてはならないのだから。
(余計に立場を悪くするだけなのに、それに気付かないのかねぇ……)
確かに、騒ぎ続けたら悠斗や直哉に会える。
代わりに、茉莉への印象が更に悪くなり、冷淡な対応になるのだが。
落ち着ける精神状態ではないのは理解出来るが、いい迷惑でしかない。
「……ん?」
どうしたものかと頭を悩ませていると、茉莉ではない誰かの怒鳴り声が聞こえた。
何を話しているかは聞き取れないが、すぐに声が小さくなる。
そして、ついに何も聞こえなくなった。
「よく分からないけど、居なくなったみたいだな」
「だな。よし、今のうちに帰るよ」
「分かった」
そそくさと玄関に移動し、覗き穴で外に誰も居ないのを確認してから、ゆっくりと扉を開ける。
もしかすると隠れているだけかもしれないと警戒していたが、誰も居なかった。
「今日は本当にありがとな。また来ていいか?」
「芦原先輩、美羽先輩、ありがとうございました。私もいいですか?」
「おう、いつでも来てくれ」
「じゃあね、二人共」
先程のように長話をして茉莉に勘付かれる訳にはいかないので、軽く話すだけに留めて、直哉達を見送る。
直哉達も再びトラブルに遭いたくないようで、すぐに帰って行った。
扉を閉めて、再びリビングに戻る。
ソファに腰を下ろすと、美羽の頭がとんと肩に乗った。
「……ねえ悠くん。聞きたい事があるの」
「そんなに
感情の読めない透明な声に、首を傾げた。
わざわざ前置きを置かなくとも、美羽の質問なら殆どの事に答える。
胸を張って笑うと、美羽の両手が悠斗の手を包み込んだ。
「私を、嫌いになった?」
「……はぁ? いや、本当にどうしたんだよ」
先程までの流れの中に、美羽を嫌う要素など一つもない。
訳が分からないと首を振れば、美羽が悠斗の肩から頭を離す。
それでも、悠斗の手は美羽の手に覆われていた。
「だって、篠崎さんに酷い事を言ったし、馬鹿にしたような態度を取ったし。……それに、悠くんを利用してるような事を言っちゃったから」
「ああ、そういう事か。あの程度で嫌いになんかなるかっての」
誰かを罵倒をしたり
美羽が誰もを許すような聖人ではないのは、十分に理解しているのだから。
そもそも、誰だって嫌いな人にはキツく当たって当たり前だ。
「それに、美羽が篠崎を真似した事で、篠崎の目が覚めた、と思う。だから、ありがとうだ」
普段の美羽の態度は茉莉と全く違うので、利用されたなどとは思っていない。
見目麗しい美羽が茉莉の真似をしなければ、茉莉は自らの過ちを認めなかったはずだ。
そう考えると、あの場では美羽の態度が正解だったのだろう。
美羽を安心させる為に、
「良かったぁ。悠くんに嫌われたら、どうしようかと思ったよ」
「どっちかというと、それは俺の台詞なんだけどな。美羽に見限られないように、これからも頑張るよ」
悠斗が美羽を嫌いになる事など、絶対に有り得ない。むしろ、美羽が悠斗に愛想を尽かす方が先だろう。
そうならないように、今一度気を引き締める。
しかし、美羽はそう思っていないようで、悠斗の手が離れる程に首を振った。
「悠くんを見限る訳ない! それに、私は良い人じゃないよ?」
「知ってるよ。でも、そんなありのままの美羽が俺は好きなんだ」
感情を押し込めて、良い子ぶる美羽は見たくない。
悠斗が見たいのは、怒る時もあれば悲しむ時もあり、そしてよく笑う美羽なのだから。
悠斗の言葉に、美羽がくしゃりと顔を歪ませる。
「……ずるい」
「俺が狡いのなんて、今更だろうが」
「あ……」
美羽の腰に手を回し、体を密着させた。
小さな声を上げたものの、美羽は離れようとしない。
そのまま唇を合わせようとすると、玄関のチャイムが来客を知らせた。
「……何だよ、タイミング悪いなぁ」
思わず悪態をつき、美羽を離す。
ただ、この時間に来客など普通有り得ない。
最悪の可能性を美羽も思い浮かべたのか、形の良い眉が下がった。
「もしかして……」
「ない、とは言い切れないな。まあ、様子を窺ってからにするか」
先程と同じように、覗き穴からおそるおそる外を確認する。
そこには、ここ数年全く見ていなかった女性がいた。
「お久しぶりです。
玄関を開けて、来客と顔を合わせる。
良くも悪くも一児の母親といった外見に、物腰柔らかな佇まい。
結子と同じくらいの歳だろう女性の顔には、しかし疲労が色濃く出ていた。
「久しぶりね。それに、大きくなったわねぇ、悠斗くん。それと……」
女性――篠崎莉華が、悠斗の背中に引っ付いている美羽へ視線を向ける。
先程言い争った人の母親だからか、美羽は思いきり警戒していた。
そんな美羽へ、莉華が深く頭を下げる。
「多分娘が迷惑を掛けたのね。ごめんなさい」
「え、っと……」
茉莉の母とは思えない姿に、美羽が目をぱちくりとさせた。
可愛らしい姿に、莉華の表情が僅かに緩む。
「茉莉の母親の莉華よ。よろしく――はしたくないでしょうし、覚えなくてもいいわ」
「は、はぁ……」
「何にせよ、さっきはごめんなさいね。茉莉が迷惑を掛けたわ」
呆けたように固まる美羽と、隣に居る悠斗へ、再び莉華が頭を下げた。
「最近のあの子は特に酷くてね。私や夫の言葉すら聞かなかったから、どうしようかと頭を悩ませていたの」
両親の言葉にすら耳を傾けなかったのだから、茉莉は相当追い詰められていたに違いない。
とはいえ同情する気もないので、苦笑を返す。
「莉華さん達でも駄目だったんですね」
「ええ。でも、ようやく話を聞いてくれそうな気がするの。本当に、ありがとう」
「俺の力じゃないですよ。美羽のお陰です」
「あらあら、美羽ちゃんって言うの? 本当にありがとう」
「え、えっと、どういたしまして?」
あれよあれよと進んでいく展開に、頭がついて行かないらしい。
美羽が首を傾げつつも、取り敢えずという風に受け答えした。
それでも警戒を緩めず悠斗の背中から顔を出す姿に、莉華が苦笑を零す。
「あの子がずっと騒ぎ続けてたから、強引に部屋に叩き込んだわ。もう大丈夫よ」
「ありがとうございます。正直、困っていたので」
「近所迷惑すら考えないなんて、本当に、あの子は……」
困り果てたと言わんばかりに、莉華が
しかし気を取り直したのか、真っ直ぐに悠斗を見つめる。
「昔から、悠斗くんには迷惑をかけてばかりね」
「そんな事は――」
「私はあの子の母親よ。あの子から多少事情は聞いてるわ。……まあ、あの子が悠斗くんを馬鹿にしているのを聞いただけだけど」
「……そうですか。でも、莉華さんが気に病む必要はありませんよ」
おそらく、中学時代の事だろう。
既に乗り越えてはいるものの、思い出したくはない。
さらりと話を流し、悠斗達の想いを伝える。
「それと、莉華さんには申し訳ありませんが、俺達はあいつと仲良くなるつもりはありません。それだけの事を、されましたから」
「ええ、分かったわ。あの子の動きは注意しておく」
流石に茉莉の味方は出来ないようで、莉華は悲しみに顔を彩らせつつも頷いた。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方よ。それじゃあ、元気でね」
「はい。莉華さんも大変だと思いますが、頑張ってください」
話すべき事は話したと、莉華が家に帰る。
悠斗も扉を閉め、久しぶりの邂逅はあっさりと終わった。
もう茉莉の事は良いのだと、全て終わったのだという気持ちを込め、美羽へ笑みを向ける。
「さてと、晩飯にしようぜ! 腹減った!」
「うん! 腕に
途切れた仲は戻せないし、その気もない。
全て終わったのだという達成感の中、美羽と笑い合うのだった。
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