第186話 破滅の足音

 梅雨が明けると、七月上旬までは何もイベントがない。

 なのでこの数週間は、非常にのんびりとした日常を過ごしている。

 週末の醍醐味だいごみである、美羽を優しく覚醒へと導く手つきに意識が浮上した。


「ん……」

「おはよう、美羽」


 低めの声が耳に届き、穏やかな表情が視界に入る。

 今日も素敵な恋人を起きた瞬間から見る事が出来て、頬が勝手に緩んだ。


「ぉはよぅ、ゆぅくん」


 何度こうして起きても、胸に湧き上がる幸福感が薄れる事はない。

 愛しい恋人へ挨拶し、胸に顔を埋める。

 すりすりと頬を押し付けると、悠斗が居心地悪そうに身じろぎした。


「くっつくと暑くないか?」

「暑いけど、悠くんとくっつけるなら我慢する」

「……汗掻いてるんだが」

「知ってるよぉ」


 冷房は体が冷えるのでつけっぱなしではなく、就寝前にタイマーをセットしているだけだ。

 そのせいで、美羽が起きる頃にはとっくに部屋が暑くなっている。

 悠斗は先に起きているものの、冷房をつける事はない。

 おそらく、美羽の体が冷えるのを心配しているからだろう。

 結果的に悠斗のシャツが汗ばんでいるのだが、それが堪らない。

 胸一杯に吸い込んで、悠斗の匂いを堪能する。


「んー。しあわせぇ……」


 悠斗の匂いで肺を満たすと、少しだけ胸が高鳴り、体が熱くなった。

 大きく息を吐き出して体の熱を逃がせば、頭上から意地悪な声が聞こえてくる。


「そんなに美羽がやるなら、俺もやっていいよな?」

「う……」


 当然ながら美羽も汗を掻いているので、非常に恥ずかしい。

 だが、悠斗からすれば良い匂いのようだ。

 美羽にはよく分からないが、逆の立場の美羽が堪能しているので、似たようなものなのだろう。

 これまでは強く拒否していたが、今日くらいはいいかもしれない。

 少しぐらついた意思のままに、渋々ながらも頷いた。


「……ちょっとだけだよ?」

「おぉ、言ってみるもんだな。それじゃあ遠慮なく」


 どうやら、美羽が少しでも嫌がるなら止めるつもりだったらしい。

 失敗したと思いつつ、もう言葉は取り消せないので、悠斗に身を委ねる。

 うなじに触れる悠斗の吐息がくすぐったく、勝手に体が震えた。


「俺が言うのもなんだけど、大丈夫か?」

「……あんまり大丈夫じゃない。だから、ちょっとだけなの」


 曰く、うなじというのは一番匂いが濃ゆい場所との事だ。

 そんな所の匂いを嗅がれるなど、今すぐにでも逃げ出したい。

 しかし、許可をしたのは美羽なのだ。口に出した言葉は取り消せない。

 せめてもの抵抗として、羞恥に炙られた頬を悠斗の胸に押し付けると、くすりと小さな笑みが耳に届いた。


「分かったよ。それじゃあ、ちょっとだけさせてくれ」

「ん」


 短く応えてされるがままになっていると、悠斗の心臓が激しくなってくる。

 そして、僅かに腰を引いて美羽から遠ざけた。

 その行為の意味はよく分かっており、心臓の鼓動が早鐘のように早くなる。


(今からかな……。でも寝起きだし、明るいから恥ずかしいなぁ……)


 もし求められたら、美羽は拒否出来ないだろう。

 決して嫌ではないのだが、朝からなど恥ずかし過ぎる。

 決断を委ねるように、身を縮めてジッと待つ。

 すると美羽を堪能し終えたのか、悠斗がうなじから離れた。


「ありがとな、美羽」

「……どういたしまして」


 美羽から遠ざけた部分の事など何もないように、悠斗が柔らかな笑顔を浮かべる。

 我慢させてしまったかもしれないと、後悔に胸が痛んだ。

 とはいえ、ここで謝る事など出来ない。

 代わりとして、少しでも満足してもらおうと顎を上げる。


「それじゃあ、いつもの、ね?」

「ああ」


 ようやく寝起きの習慣へと入り、悠斗の顔が近付いてきた。

 瞼を閉じると、少しかさついた唇が触れてくる。

 美羽とは違う柔らかな感触に、悠斗に求められているという実感に、頭が甘く痺れた。


「ん……」


 初めてキスしてもらってから、美羽はすっかりこの行為に嵌っている。

 体を密着させ、大切な場所を触れさせ合うのだ。

 幸福感に胸が満たされ、ずっとしていたいとすら思う。

 だが、毎日しているとはいえ、続けていると流石に唇が離れてしまう。


「ふぅ……」

「はぁ……」


 互いに大きく息を吐き出し、一息つく。

 平日ならこれで終わりだが、今日は昼からしか予定がないので、時間はたっぷりとある。

 完全に息を整える前に、今度は美羽が悠斗の唇を塞いだ。

 少しでも体の熱を伝えるように、ぐいぐいと体を押し付ける。


「ゆ、くん……。ゆぅ、くん……」

「み、う……」


 愛しい気持ちが溢れ、呼吸など知らないと言わんばかりに勝手に口から言葉が洩れる。

 思考に靄が掛かり、美羽の頭の中は悠斗を求める事だけで占められた。

 最初の頃の悠斗は戸惑っていたものの、今では美羽の頭を支えてくれている。


「すき……。すきぃ……」


 どれだけ言葉にしても足りない。何度キスしても物足りない。

 悠斗の体の事など忘れ、美羽は溺れ続けるのだった。





「何だか、二人でここに来るのは久しぶりだね」


 悠斗とずっとキスしていても良かったが、そうも言ってられない。

 今日は悠斗とのデートなのだから。

 とはいえ、悠斗が離れるまで美羽は時間すら忘れていたのだが。

 何はともあれ、外食を終えて、ショッピングモールをうろつき始める。

 指を絡ませつつ笑みを向ければ、悠斗の顔が申し訳なさに彩られた。


「……悪い」

「別に文句がある訳じゃないよ。楽しもうねってだけなんだから」


 単に、最近出掛ける際は友人が居る事が多かっただけだ。

 遊園地に関しては二人きりだったものの、ショッピングモールとなると本当に久しぶりな気がする。

 悠斗に余計な心配をさせてしまい、不安を振り払うべく腕に絡みつけば、反対の手が美羽の頭を撫でた。


「ありがとな。それじゃあ、ゆっくり見て回るか」

「うん!」


 目的の店はあれど、そこに向かう過程も悠斗と楽しみ、寄り道をする。

 とはいえ買うまでには至らず、結局買ったのは、目的の店での悠斗と美羽の夏用の服だけだ。

 その後、再びのんびりとショッピングモールをうろついていると、前から向かってくる女子達が悠斗の方を向いて驚愕に目を見開いた。


「あー! 芦原じゃん!」

「あれ、ホントだ! うわー、懐かしいなー!」

「……おう、久しぶりだな」


 あれよあれよと悠斗が女子達に囲まれ、美羽を置き去りにする。

 苦笑を浮かべていて少し迷惑そうだが、それでも面白くない。

 どろりとした感情が促すままに、悠斗をほんのりと睨む。


「ねえ悠くん。この人達は?」

「同じ中学校の、バレー部のマネージャーだな」

「ふうん……」


 マネージャーと言われて茉莉の顔が浮かんだが、当然ながらマネージャーは一人ではない。

 なので知り合いなのは分かるが、悠斗は中学校で良い扱いを受けていなかったはずだ。

 単に久しぶりだから話し掛けたのかもしれないが、悠斗を傷付けるなら容赦はしない。

 じろりと彼女達を睨むが、彼女達はどこ吹く風と言わんばかりに目を輝かせていた。


「ねえ芦原。この子は?」

「俺の彼女だよ。東雲美羽だ」

「よろしく」

「私は――」


 胸に渦巻く感情は取り敢えず置いておき、全員が挨拶を終える。

 すると、彼女達の瞳が興味の色に彩られた。


「にしても彼女かぁ。凄く可愛いけど、芦原って年下が好きなんだね」

「それ思った。美羽ちゃん可愛いよねぇ」

「……年下? 美羽ちゃん?」


 悠斗が恋人と紹介してくれたのは嬉しいが、美羽は同じ年だ。

 いくら見た目が幼い自覚があるとはいえ、むかつくものはむかつく。

 ぽつりと呟けば、悠斗が焦ったように口を開く。


「年下じゃない。俺達と同じ年だぞ」

「え、そうなの!? ご、ごめんね!?」

「……いいよ」


 いくら何でも初対面の人達に怒りはしない。けれど、不機嫌になる事くらい許して欲しい。

 頬をむくれさせながら許すと、美羽の機嫌を損ねた事で彼女達の頬が引き攣った。

 流石に美羽に話し掛ける人はおらず、悠斗との会話に移る。


「こんな事を聞くのは野暮だけど、あいつの事はいいの? ……あんまり詳しく知らないけど、色々あったんでしょ?」

「いいさ。あいつとの関係は切った。詳細は話したくないから、これで勘弁してくれ。そっちはどうなんだ?」


 悠斗達が話している「あいつ」というのは茉莉の事だろう。

 同じ部活に所属していた以上、避けられない話だ。

 悠斗はもう関係を断ち切ったものの、おそらく彼女達は茉莉と同じ高校だろう。

 悠斗も気になったのか尋ねると、彼女達の顔が不快そうに歪んだ。


「……ねえ芦原。関係を切ったならぶっちゃけていい?」

「遠慮なくどうぞ。美羽も知ってるから気にしないでいいぞ」

「なら遠慮なく。……正直言うと、私達中学校の頃からあいつの事が嫌いだったの」

「そうそう。今だから言えるけど、直哉も含めて男子へ露骨なぶりっ子を演じてたからね」

「お、おう、そうか……」


 やはりというか、出る杭は打たれるらしい。

 この様子だと、茉莉の方に問題がありそうだが。

 突然の悪口に、悠斗が顔を引き攣らせる。


「それで、高校ではどうなんだ?」

「高校ではもう話し掛けてすらいないよ。そうそう、平原があいつを振ったのは知ってる?」

「ああ。最近直哉と会って話を聞いたよ」

「それって――」


 悠斗が直哉と二人きりで話していた内容を、彼女達と共有する。

 勝手に話して大丈夫なのかと思ったが、直哉の内心等を話すつもりはないらしい。起きた真実だけを淡々と伝えていた。

 あの時は詳しく聞いていなかったが、あまりの茉莉の酷さに顔を顰める。

 彼女達も同じ気持ちのようで、苛立ちを顔に表した。


「やっぱりそうなんだ。おかしいと思ったんだよねぇ」

「最近はおかしいって気付いて、殆どの女子はあいつから離れていってるよ。私達への態度が露骨な上から目線なのもあるけど」

「多分男としか遊んでないんじゃないかな?」


 どうやら、少しずつ茉莉の居場所は無くなっていっているらしい。

 いつか男にすら見限られた時に、茉莉はどうするのだろうか。

 疑問はあるものの、美羽が手助けする理由は無い。

 その後は軽い近況報告をし、彼女達と別れようとすると、「そうだ」と女子の一人が声を上げた。


「こんな事を言うのは何だけど、今の芦原は凄く良い感じだよ」

「そうそう。死にそうな顔をしてバレーしてるより、ずっと雰囲気が良いな」

「……そっか。ありがとな」


 昔を否定したというよりは、単に今の悠斗を褒めたのだろう。

 柔らかな笑顔を悠斗が浮かべ、彼女達と今度こそ別れた。

 特に見たい物もなく、家に帰っていると、悠斗がぽつりと呟く。


「ありがとな、美羽。美羽が居てくれたから、俺は変われたよ」

「それを言うなら私もだよ。いつもありがとう、悠くん」


 悠斗と美羽。おそらく出会わなければ、どちらも壊れていたに違いない。

 隣を歩く恋人への愛しさが込み上げてきて、腕に抱き着く。

 夏の熱さすら気にならない程に、絶対に離れないと密着するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る