第184話 梅雨入り

 玄関を開けた瞬間に、湿っぽい空気が頬を撫で、止む気配のない大粒の雨が視界に入ってきた。

 起きた時点で空がどんよりとした雲に覆われ、雨音が聞こえていたので理解はしていたが、それでも肩を竦(すく)める。


「いやぁ、流石梅雨つゆだ。凄い雨だな」

「……そうだね」


 衣替えをしてすぐに、悠斗達の地域は梅雨入りをした。

 先日夏服で悠斗を誘惑してきた美羽だが、今日は声に覇気がない。

 それどころか、悠斗を起こした時から元気がなかった。

 そして今は身体から「学校に行きたくない」というオーラが出ている気がする。

 昨日までの様子とのあまりの違いに、首を傾げた。


「美羽ってそんなに雨が嫌いだったか?」

「だいっきらいだよ。出来るならずっと家に居たいくらい」

「そこまでか……。でも、前までそんなに嫌がってなかっただろ?」


 美羽にしては珍しく吐き捨てるような言い方だったので、相当嫌なのだろう。

 しかし、これまでも雨の日はあった。

 その際に、美羽はここまで嫌悪感を剥き出しにしてはいなかったはずだ。

 悠斗の疑問を受け、美羽が気怠そうに口を開く。


「正確に言うなら、梅雨から夏に掛けての雨が嫌いなの。電車内が蒸し暑いから、居心地最悪なんだよ」

「それは分かる。今の時期の電車は地獄だからな」


 暑いだけならまだ良い。その上で湿度が高いのは最悪だ。

 そういえば、昔に美羽は雨の日の電車が嫌だと言っていた。

 それが梅雨や夏場となれば、露骨に嫌がるのは理解出来る。


「うん。本当に乗りたくないよ。まあ、それより、髪の手入れが大変なのが一番の問題かな。この髪、湿気を吸い取ってすぐ爆発しちゃうからね。はぁ……」


 美羽が盛大に溜息をついて肩を落とした。

 普段は腰まである淡い栗色の髪に癖などないが、じめじめした日が続くと駄目らしい。

 電車内の蒸し暑さはどうにもならないが、髪に関しては改善出来るはずだ。


「なら髪を切るか? それならすっきりするだろ」

「それはやだ。悠くんが褒めてくれたんだもん。いくらこの時期の髪が鬱陶しくても、切らないよ」

「俺の好みに合わせてくれるのは嬉しいけど、俺はーー」

「悠くん」


 美羽の長髪は綺麗過ぎて未だに見惚れる程で、飽きる事などない。

 しかし悠斗の趣向で美羽が苦労をするなら、意見を曲げても構わないのだ。

 美羽が過ごしやすい方が良い、と告げようとすれば、強い意志が込められた言葉が耳に届いた。


「私の髪は悠くんのものだよ。だからいいの。心配掛けてごめんね?」


 柔らかな微笑みだけでなく、痛いくらいに真っ直ぐな瞳が悠斗に向けられる。

 決して意見を変えはしないと態度や言葉で示され、嬉しさと申し訳なさが湧き上がった。

 ただ、ここで謝っても美羽は絶対に折れないし、喜ばない。

 大きく溜息をついて、くしゃりと美羽の頭を撫でた。


「この頑固者め。頼むから、無理するなよ。……それと、ありがとな」

「えへへ。悠くんがそう言ってくれるなら、いくらでも頑張れちゃうよ」


 美羽が顔を蕩けさせ、気持ち良さそうに目を細める。

 悠斗の為に頑張ってくれるのは嬉しいが、労いの言葉を掛けるだけでは気が済まない。

 

「……無理するなって言った矢先にこれだもんなぁ」


 小さな呟きを落とし、折り畳みではなく、大きめの傘を傘立てから取り出した。


「折角だし、傘一つで行くか」

「そ、それって相合傘!? やっていいの!?」


 美羽が弾んだ表情で悠斗を見上げる。

 はしばみ色の瞳には、期待がこれでもかと込められていた。

 憂鬱な気分がすっかり消え去った美羽にくすりと笑みを零し、傘を広げる。


「ああ。ほら、行くぞ」

「うん! 相合傘が出来るなら、梅雨も悪くないねぇ」


 どうやら、美羽の中で梅雨の評価が上がったらしい。

 濡れないように身を寄せ合いながら、駅へ向かうのだった。




「うあー。辛かったよぉ……」


 駅のホームに降りた瞬間、美羽が気の抜けた声を出した。

 それだけでなく、悠斗の腕へ寄り掛かってくる。

 普段ならあまり気にしないが、今日は別だ。

 なぜなら、悠斗も美羽も湿度の高すぎる車内に居たせいで汗を掻いているのだから。


「折角外に出たんだ。俺とくっつくとまた暑くなるぞ」

「悠くんは特別だからいいの」

「……汗掻いてて気持ち悪くないか?」

「全然。悠くんの汗なら喜んでだよ」

「あぁ、そう……」


 満面の笑みで告げられ、がっくりと肩を落とす。

 先程、電車内で美羽を庇う為に近付いた際、「汗掻いてるからあんまり触れちゃ駄目」と言われた。

 しかし美羽は遠慮なく触れてきたし、今も汗ばんだ腕に寄り掛かっているので、逆は問題ないようだ。

 少々理不尽な気はするが、あえて指摘はせず好きにさせる。

 こういう面倒臭いところも好きだし、汗を掻いていても触れてくれるのは嬉しい。

 そのまま駅のホームを一緒に降り、手に持っている傘を開いた。


「濡れないように気を付けろよ」

「はーい」


 美羽が頬を緩め、広げた傘に入ってくる。

 それだけでなく、悠斗の言葉を実行する為に、より密着してきた。

 雨の匂いの中に、美羽特有の匂いと、悠斗とは違う汗の匂いが混じる。

 男心を擽る匂いに、心臓がどくりと鼓動した。

 とはいえ、動揺を表に出せば美羽は絶対に嫌がる。

 必死に平静を取り繕い、雨粒が傘を叩く音を聞きながら、ゆっくりと学校へ向かう。


「相合傘以外に、俺に出来る事があったら遠慮なく言ってくれ。何でもするから」

「うーん、何かあるかなぁ……」


 美羽が可愛らしく小首を傾げ、思考に耽る。

 この調子だと何も無さそうだと思いつつ待っていると、「そうだ」と明るい声が聞こえた。


「悠くん、ポニーテール好きだよね?」

「……好きだけど、いきなり何だよ」


 確かにポニーテールは好きだが、唐突な話題転換に眉をひそめる。

 悠斗の言葉に美羽が瞳に期待を込めて、悠斗を見上げた。


「もし私の我慢が限界に来たら、悠くんに髪をって欲しいの」

「多分出来ると思うから良いぞ。したい時に言ってくれ」


 週末に美羽の髪の手入れをしているので、多少ではあるが髪を整える心得はある。

 髪を結った事はないが、ポニーテール程度なら何とかなるだろう。

 時間は掛かっても、家を出る前ならゆっくり触れるはずだ。

 胸を張って告げれば、美羽がにんまりとした笑みを浮かべた。


「ありがとう、悠くん。それじゃあ、よろしくね」

「……? お、おう」


 何となく嫌な予感がしたものの、先程のやりとりにおかしな所は無かった。

 首を傾げる悠斗を、美羽がくすくすと軽やかに笑う。

 釈然としない気持ちのまま、学校へ向かうのだった。

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