第182話 捨てたはずの立場

「はぁ……」


 昼過ぎの気温が上がったグラウンドを歩きつつ、美羽は大きな溜息をついた。

 悠斗だけでなく紬や蓮、哲也とも敵になったせいで、美羽のテントには友人と言える人が誰もいない。

 そして今の美羽は腫れ物扱いだからか、誰も話し掛けて来なかった。

 話し掛けて欲しい訳ではないが、遠巻きに見られているだけというのは、それはそれで気疲れする。

 しかも、今からそれ以上に嫌な事をやらなければいけない。

 入場門の傍に行くと、別れていた美羽のクラスだけでなく、二年生の女子全員が集合していた。

 列に並び、心の中で思いきり悪態をつく。


(徒競走なんて、走れる人だけでやればいいのに……)


 ただでさえクラスが多いのだから、体育祭など運動が出来る人だけで盛り上がればいいのだ。

 なのに、全員が楽しまなければならないというくだらない理由で、徒競走だけは全員参加となっている。

 一応、走る速さが同じ人となるように配慮されているのだが、足の遅い人にとって公開処刑なのは変わらない。

 二年生男子は午前の最後に終えたので、こればかりは早く終わった悠斗を恨みたい気分だ。


『選手、入場』


 アナウンスに従い、スタートラインへ移動する。

 足が遅い人は後ろなので、美羽の番が来るのも遅い。それどころか、美羽は最終組なのだが。

 美羽よりも少しだけ早い出番の紬を見送り、いよいよ最終組の出番となった。

 憂鬱な気分で機械的に体を動かし、スタートラインに立つと、恋人や友人達の声援が聞こえてくる。


「美羽! 無理しないようにな!」

「東雲! 頑張れよー!」

「東雲さん! 頑張れー!」


 悠斗のみ頑張れと言わなかったが、運動が出来ない美羽へのせめてもの配慮だろう。

 相変わらずの優しさにくすりと笑みを零す。

 そして悠斗以外の声援にも、美羽への心からのエールが込められていた。


「こんなに応援してくれるなら、少しでも良い所を見せたいなぁ……」


 運動能力の低さは美羽が一番良く分かっている。

 最終組の中でも、美羽は間違いなく一番下だ。

 それでも、暖かい声援に応えたくなった。

 恋人と友人に小さく手を振り、走れるように体勢を整える。


「位置について! 用意!」


 パン、と空気銃の音が鳴り、最終組が一斉に駆け出した。

 みっともないと思いつつも、必死に手足を動かす。

 しかし、無情にも美羽はどんどん抜かされていく。


(分かってる。運動が苦手なだけじゃない。この体のせいで能力が劣ってる事くらい、分かってるよ!)


 だからといって、諦めたり手を抜いた走りをしては駄目だ。

 それは、運動が出来ない美羽を応援してくれた人への侮辱になってしまう。

 頑張ってもどうしようもないと囁く心の声を無視し、息を切らしつつも前へと進む。

 美羽が最後となっても決して速度は緩めず、ようやくゴール前まで来た。

 そこで、美羽は大量の声援を耳にする。


「頑張れ美羽ー!」

「もう少しだよー!」

「頑張って! 東雲さーん!」


 最後の人に惰性で応援するというのなら、まだ分かる。

 しかし、クラスメイトの女子――最近になって、声を掛けてくれるようになった人達――が声を張り上げて応援してくれた。

 八つ当たりのように怒った美羽を、腫れ物扱いしているのにも関わらずだ。

 困惑が頭の中を占め、次に美羽の体に力がみなぎった。

 

(……なら、頑張らないと!)


 クラスメイトの声援を受け、最後の力を振り絞る。

 息も絶え絶えにゴールすると、応援してくれた女子達に囲まれた。


「お疲れ様、美羽!」

「かっこよかったよ!」


 彼女達に次々と賞賛の言葉を送られる。

 しかし、走り終えた美羽の頭は疑問で一杯だ。


「……どうして、応援してくれたの?」


 息を整えて尋ねると、彼女達の顔が気まずそうに曇る。


「あれから、ちゃんと考えたの。本当はずっと前から謝りたかったんだけど、言い出せなくて……」

「ごめんね。私達、美羽の事を見てなかった」

「芦原と一緒に過ごしたいのに、私達が居たから芦原の所に行かなかったんだよね」

「それは……」


 そのせいで、休憩時間の美羽の行動が縛られていたのは間違いない。

 しかし一度怒ってはいても、恩着せがましく言うつもりはなかった。

 言葉が途切れた美羽に、彼女達は頭を下げる。


「それにホワイトデーの件、覗いてごめんね」

「誰だって覗かれたら嫌だよね。気付かなくて、ごめん」

「……」


 美羽は彼女達を許すどころか、既に謝られるのを諦めていたのだ。

 急に大勢の人から謝罪されると、何を言っていいか分からなくなる。

 戸惑って視線をさ迷わせている美羽へ、柔らかい笑顔が向けられた。


「改めて、友達になりたいな。もちろん、もう美羽を振り回すつもりはないよ」

「そうそう。放課後とかに遊びたくなかったら、遠慮せずに言ってね」


 単なる友人の一人として美羽に接するという宣言に、胸が暖かくなる。

 切り捨てたはずの人達だが、ようやく普通の友人になれる気がした。


「うん。これから、よろしくね。……それと、何も言わずに溜め込んでごめん」

「いいんだよ! そうさせたのは私達なんだから!」

「そうそう、美羽に甘え過ぎちゃってたからね」

「……それは、そうかも」

「あー! 言ったなー!」


 彼女達と笑顔で会話しつつ、囲まれながらテントへと戻る。

 友人や恋人は居ないが、少しだけテントの中が過ごしやすくなったのだった。





「仲直り出来て良かったな」


 体育祭を無事終えて悠斗と一緒に帰っていると、柔らかな声が聞こえてきた。

 澄んだ茶色の瞳は、優し気に細められている。


「喧嘩してた訳じゃないんだけどね。でも、あんなに応援されるとは思わなかったよ」


 美羽ならば絶対に応援しない所で、彼女達は応援してくれた。

 とっくにわだかまりは無くなっており、清々しい気持ちで呟けば、隣からくすりと軽い笑みが耳に届く。


「それだけ美羽は人気者だったって事だ。美羽としては、嫌だっただろうけどな」

「……そうだね」


 美羽が望む望まないに関わらず、あの立場はクラスメイトとの関係を持ってしまう。

 それは美羽が怒って離れたとしても、とっくに切れないものになっていたらしい。

 きちんと友達になれた嬉しさや、八つ当たりのように怒った申し訳なさで心がぐちゃぐちゃになり、なぜだか泣きたくなってしまう。

 ぽつりと呟くと、骨ばった手が美羽の頭を撫でた。


「何も気にする事はないんだ。今まで通り、美羽がやりたいようにやればいい」


 今の美羽は授業中以外、ほぼ悠斗の傍に居る。

 しかし、彼女達と再び一緒に居るようになれば、元の状態に戻ってしまう。

 彼氏を優先出来ない心苦しさに、眉を下げて尋ねる。


「それで、悠くんとの時間が減ったとしても?」

「……正直、そうなるとちょっと寂しい。でも、美羽が楽しめるならそれでいいさ」


 嘘をつけなかったようで、悠斗の顔が曇った。

 謝ろうとしたのだが、愛しい彼氏の顔が穏やかな笑みへと変わって、声が出せなくなる。


「それに、美羽が離れないってのは分かってるよ」

「当然だよ。私の一番の居場所は、悠くんの傍なんだから」


 あくまでもクラスメイトとの時間を多少作るだけで、悠斗の優先順位が美羽の中で一番なのは変わらない。

 それに、美羽が帰る場所は悠斗の隣なのだ。誰にも譲らないし、離れるなど更に有り得ない。

 軽くなった心のままに告げると、悠斗の瞳が嬉しそうに細まった。


「ありがとな」

「ううん。私の方こそありがとう。あの立場を捨てないでっていう意味が、ようやく分かったよ」

「俺は特別な理由があって言った訳じゃない。……あの立場は美羽の努力の成果だったんだ。単に、それを失くすのは惜しいって思っただけだよ」

「それでも、悠くんが私を気遣ってくれた事は忘れないよ」

「……そっか」


 この人が彼氏で良かったと改めて思う。

 恋人という関係だけでなく、美羽の立場も気にするなど普通はしないはずだ。

 言葉だけでは感謝を伝えるには足りないので、悠斗へ満面の笑みを向ける。


「多分、少しだけ時間が取れなくなるから、その代わり家ではいっぱい甘やかすね」

「結局、そうなるのか……」


 これからは周囲と少しだけ関わりを深めるつもりだが、それで悠斗を蔑ろになど絶対にしない。

 今よりも悠斗を溺れさせるという宣言に、悠斗が呆れ交じりの苦笑を浮かべた。

 

「そうなるんです。覚悟してね、最高の彼氏さん」


 悠斗の腕に抱き着き、思いきり頬ずりする。

 憂鬱なはずの体育祭だったが、良い思い出として美羽の心に刻まれたのだった。

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