第181話 体育祭

「起きて、悠くん」

「ん……」


 体育祭まであっという間に日が経ち、当日となった。

 優しくて穏やかな心地良い声に目を開け、体を起こす。


「おはよう、美羽」

「おはよう、悠くん」


 とろりと蕩けた笑顔で美羽が挨拶を返し、僅かに身を寄せてきた。

 僅かに赤くなった頬と期待に染まった瞳に応える為に、滑らかな頬に触れる。

 ゆっくりと唇を近付けると、吸い込まれそうな程に綺麗な瞳が長い睫毛に覆われた。


「ん……」


 寝起きの挨拶としてキスが完全に定着しているが、未だに心臓の鼓動が落ち着かない。

 とはいえ行為自体にはある程度慣れており、息継ぎも問題なく出来るようになった。

 ただ、美羽がぐいぐいと唇を押し付けて来るので、触れ合っている時間は長い。


「はぁ……。起こしてくれてありがとな」


 瑞々しい唇との距離をゆっくりと離して感謝を告げれば、美羽が僅かに不満の色を出しつつも微笑を浮かべた。


「どういたしまして。それじゃあ、私は先に降りてるね。二度寝は駄目だよ?」

「分かってる」


 物足りないという気持ちは分かるが、あえて応えずに頷く。

 以前、一度美羽のおねだりに応えた結果、遅刻しそうになったので、美羽も言葉にする事はない。

 代わりに、家に送り届けたり悠斗の部屋で寝る際は、何度もキスをせがまれているのだが。


(嵌ってくれるのはいいけど、我慢出来なくなりそうだな)


 悠斗とて思春期の高校生なのだ。毎日何度も唇を求められたら、その先もしてしまいそうになる。

 ただ、キスと同じくそういうのは大切にしたい。

 頭を悩ませる問題が目の前にありつつも、思考にふける暇はないとベッドから抜け出した。


「とりあえず、今日を乗り切らないとな」


 悠斗が出場する種目など、共通の徒競走と綱引きだけだ。

 それ以外はテントで座っているだけとはいえ、体育祭が憂鬱なのは変わらない。

 気合を入れなおし、美羽が準備してくれた服を手に取るのだった。





『ただいまより昼休憩とします。午後の開始は――』


 放送がグラウンドに鳴り響き、テントの中の空気が穏やかになる。

 興味のない人も多いが、それでも目の前で競技をされると熱が入るらしい。

 とはいえ、悠斗は興味のない部類だ。

 はあと溜息をついてテントを後にし、昇降口で別テントの美羽と待ち合わせする。


「テントの中に居るだけでも熱かったねぇ……」

「ホントにな。まだ春なのに、夏みたいだ」


 暦的には春なのだが、五月末の真昼間の空気は夏のように熱い。

 こんな状況で長袖など着ていられず、二人して半袖だ。

 悪態をつきつつ、美羽と共に一度教室へ戻る。

 お目当ての物を持ち、学校の隅の日の当たらない場所に向かった。


「さてと。それじゃあ、お待ちかねのお弁当だよ」


 美羽が悠斗の持ってきた鞄からブルーシートを取り出し、勢いよく敷く。

 二人で整えて上に乗ると、美羽が再び鞄の中に手を突っ込んだ。


「はい、どうぞ!」


 美羽が天真爛漫な笑顔で取り出したのは、三段重ねになっている重箱だ。

 頑張り過ぎるなと釘を刺したつもりだったが、悠斗が朝起きると殆ど準備が完了していた。

 たった二人で食べるには明らかに豪華過ぎる弁当に、大きな溜息をつく。


「……ホント、気合入り過ぎだろ」

「折角お弁当を作るんだよ? なら張り切らなきゃ!」

「俺は『美羽が大変にならないならいい』って言わなかったか?」

「全然大変じゃなかったもん!」


 美羽が心外だという風に頬を膨らませた。

 重箱の弁当を作るのは絶対に大変だと思うのだが、美羽は頑なに認めようとしない。

 このまま続けると話が平行線になりそうなので、頭をがしがしと掻きつつ肩を竦める。


「分かったよ。全く、頑張り屋さんめ。ありがとな」

「んー。きもちいい……」


 お礼を口にしつつ小さな頭を撫でれば、美羽が幸せそうに目を細めた。

 もっと美羽の努力を労いたいのだが、昼前の徒競走だけしかしていないにも関わらず、腹は空腹を訴えてくる。

 食欲には勝てず、食事の準備を再開した。


「「いただきます」」


 美羽への感謝を込めて手を合わせ、重箱を広げる。

 重箱の中身は、一段目はおにぎり、それ以外の二段はおかずで埋め尽くされていた。

 肉団子やソーセージ等もあるが、唐揚げや玉子焼き等、明らかに手作りのものもある。もちろんブロッコリー等の野菜も完璧だ。

 どう見ても簡単な調理とは思えないおかずの量に、じとりとした目で美羽を見つめた。


「……これ、本当に手間暇掛けてないんだよな?」

「うん。ちょーっと早起きしただけだから」

「ああもう。どうして無理するかなぁ。こいつめ」

「あう」


 美羽の言い方からすると、絶対に少しの早起きではない。

 あるいは前日から準備していた事で少しの早起きで済んだのかもしれないが、苦労したのは結局同じだ。

 淡い栗色の髪に隠れた額を軽く突くと、美羽が眉を顰めつつも嬉しそうに破顔する。


「えへへ、怒られちゃった」

「喜んでどうするんだか……。ほら、食べようぜ」

「ああ、待って待って。折角こういう風なお弁当を作ったんだし、悠くんに食べさせたいなー」


 口角をくいっと上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべて美羽が懇願してきた。

 デザート等の甘いものの食べさせ合いはやった事があるが、弁当はない。

 学校の隅なので多くはないものの、周囲には悠斗達のように弁当を食べている人がいる。

 少しだけ恥ずかしいが、今日くらいはいいはずだと頷いた。


「分かった。でも、一回で交代だぞ?」


 美羽の事なので、悠斗にばかり食べさせる可能性がある。

 しかし、これならば美羽もきちんと食べられるはずだ。

 昼休みはたっぷりと時間があるので、食べ終えるのが遅くなっても構わない。


「うん! もちろんだよ! それじゃあ、まずは私からだね!」


 美羽が上機嫌そうに唇をたわませ、唐揚げを箸で摘まむ。

 鮮やかなきつね色に揚げられた鶏肉は見るだけで美味しそうで、ごくりと喉が鳴った。


「はい、あーん」

「あーん。…………ん、今日も美味い」


 しっかりと咀嚼してから感想を述べると、美羽の顔が甘く蕩ける。


「やったぁ。それじゃあ、次は私が食べる番だよ」

「ああ。ほら、あーん」

「あーん」


 美羽が餌を待つ雛鳥のように口を開けた。

 艶やかな唇と小さな舌が見え、悠斗の心臓が僅かに鼓動を早める。

 おかずをゆっくりと美羽の口に入れれば、はしばみ色の瞳が嬉しそうに細まった。


「んー。悠くんに食べさせてもらうと、美味しくなるね」

「気持ちは分かるけど、美羽の料理はいつでも美味いからな」


 恋人に食べさせてもらえるのは確かに心が弾む。

 しかし、美羽の味に慣らされた悠斗にとって、美羽の料理はどれもご馳走なのだ。

 事実を口にすると、美羽の頬がふにゃりと緩む。


「悠くんはいつも褒めてくれるねぇ」

「当然だ。美羽への感謝を忘れた事なんてないっての」

「ありがとぉ、悠くん。今度は私が食べさせる番だね、あーん」

「あーん」


 歓喜が溢れんばかりに顔に現れている美羽と、何度も食べさせ合う。

 周囲の視線を集めているのを理解していても、どちらも手を止める事はなかった。

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