第180話 機嫌の悪い恋人

 美羽が人気者の立場を辞めて、もう少しで一ヶ月が経つ。

 ここまで時間が経てば、美羽の態度にある程度クラスメイトが慣れるらしい。

 あるいは、美羽の立場目当てだった人が美羽を見限ったのかもしれない。

 最初の頃の重苦しい空気と違って、今は少し気まずさが残りつつも穏やかな休み時間だ。

 何にせよ、既に美羽は普通の女子生徒という枠組みに入っており、同時に悠斗への陰口も完全に消えている。

 ただ、最近になって、教室の雰囲気が更に変わった。


「あの、美羽……」

 

 悠斗の席に向かおうとする美羽を、以前美羽の近くに居た女子が引き留めた。

 休み時間の度にではないし、声を掛ける人は一人ではないものの決まっている。表情が曇っている事から察するに、彼女達は謝罪をしたいのだろう。


「何?」


 しかし、美羽は心底興味を持てないようで、無感情に首を傾げた。

 別段怒っている訳ではないのだが、素っ気ない態度の美羽に、彼女達は毎回尻込みしてしまう。


「えっと、その…………」

「ごめん、悠くんの所に行くから」

「あ……」


 言い出すまで待っていられないと、拒絶するような微笑を浮かべて美羽がクラスメイトを突き放した。

 曲がりなりにもきちんと謝られているからか、美羽に声を掛ける女子達が引き下がる事はない。

 細い腕が力なく垂れ下がる姿に、罪悪感という棘が悠斗の胸を刺す。


(……駄目だ。俺に出来る事なんて無い)


 ただでさえ、悠斗は美羽に以前の立場を無理強いしたのだ。

 ここで美羽に「あいつらが話をしたそうだったぞ」と言う事など出来ない。

 例え誰から恨まれようとも、美羽が心から笑ってくれるのが一番なのだから。

 頭を振って項垂れるクラスメイトから視線を外すと、美羽が悠斗の後ろに回り込んで抱き着いてきた。


「えいっ」

「……いや、何やってんだよ」


 ミルクのような甘い匂いと、僅かな膨らみの感触に心臓が跳ねたが、表情を取り繕って恋人の行動を咎める。

 以前蓮と哲也に呆れられてからは、流石に美羽も過度な接触を自重していた。

 しかし、今は以前の出来事を忘れたかのような態度だ。

 少し強い声で言えば離れるかと思ったが、悠斗を抱き締める力が強まる。


「だってー、今日の最後の授業は体育なんだよ? どうせ体育祭に向けての練習だろうし、今のうちに栄養を補給するの」

「気持ちは分かるがな。皆呆れてるぞ」


 体育の前は着替えなければならないので、このタイミングでしか悠斗とゆっくり話せないのは分かる。

 しかし、唐突な悠斗達の接触に蓮や哲也、紬までもがじっとりとした目をしていた。


「まあ、東雲からすると、この時期の体育は一番やりたくないだろうけどな。それでも迷いが無かったな……」

「こんなに堂々とされると、嫉妬する気すら起きないね」

「……これぞバカップルって感じだよ」


 最近では紬も悠斗の傍に来る事が多く、当たり前のようにこの場に馴染んでいる。

 ただ、集まるなら別の場所でもいいのではないか。

 そう思って以前尋ねたのだが、「東雲が行きたいのはお前の所なんだぞ」と蓮にたしなめられたのだ。

 確かにその通りなので否定出来ず、これまでと同じく悠斗の周りに皆が集まる事になっている。

 それはそれとして、未だに美羽が悠斗から離れないので体を揺さぶった。


「こーら。離れろ、美羽」

「やぁだ。今はこういう気分なのー」


 悠斗がどれだけ体を動かそうとも、美羽が離れる事はない。

 それどころか、より強く抱き着かれた。

 こういう場合の美羽は意地でも自分の意思を曲げないので、溜息を落として振り解くのを止める。


「ああもう、勝手にしろ。今だけだぞ」

「わーい! 勝手にするね! ありがとう!」

「……うわぁ。悠斗達の力関係が見えたよ」


 哲也が顔を引き攣らせ、ぽつりと呟いた。

 何も否定出来ないと、苦笑を向ける。


「まあ、そういう事だ。悪いな」


 美羽が悠斗に尽くそうとするので、他の人からすると悠斗の方が立場が上のように思えるかもしれない。

 しかし、悠斗は美羽の我儘なら大半の事を喜んで受け入れる。

 結果として、美羽が本気で駄々を捏ねた場合、その願いが通ってしまうのだ。

 とはいえ、何も無条件で許している訳ではない。

 今回は体育が控えているという事と、蓮達が呆れつつも許しているので特別だ。

 他のクラスメイトが驚きに目を見開いているが、構っていられないので無視した。

 軽く謝罪をすれば、全員が生温い笑みで美羽を見つめる。


「いいさ。こんなに幸せそうなのを止められねえよ」

「後で苦しい思いをするのが確定してるからね。仕方ないさ」

「それはそうと、抱き着かれてるのに芦原くんは普通だね?」


 心臓の鼓動が僅かに早まっているのだが、動揺を表に出さなかったからか、不思議そうに紬が首を傾げた。

 偶に美羽の腕の中で寝ているからある程度平静を保てるのだ、とは言えないので、どうするべきかと頭を悩ませる。


「ずっと一緒に居るからな」

「……それって、普段は何も感じなくなったって事?」


 紬に玉虫色の返答をすると、頭上から悲しみが込められた声が降ってきた。

 美羽の変わりように思いきり動揺し、先程とは別の意味で心臓の鼓動が激しくなる。


「いや、隠してるだけで、これでもドキドキしてるんだぞ?」

「ほんとう?」

「もちろんだ」

「……でも、胸が大きかったらもっと動揺してるよね?」

「「……」」


 おそらく、体育の授業があまりに嫌で虫の居所が悪いのだろう。

 切れ味の鋭過ぎる言葉に、美羽以外の四人が驚愕に目を開いて絶句した。

 一応美羽も気を遣って小声で話してくれたが、どう考えても教室で話すような話題ではない。

 三人に目線だけで助けを求めたものの、全員が悠斗から気まずそうに目を逸らす。

 気付けば、一人きりで地雷原に足を踏み入れる事になっていた。


「……美羽さん。こういうのは、ここでする話じゃないと思うんですよ」

「誤魔化さないで答えて欲しいなぁ……」

「ひぅっ!?」


 悠斗の首へ回された細い腕に、僅かに力がこもる。

 いくら美羽の力があまり無いとはいえ、このまま行けば悠斗の息が止まるはずだ。

 冷ややかな声と華奢なはずの腕に恐怖を感じ、引き攣った声が喉から漏れた。

 誤魔化すべきか、正直に伝えるべきか。固まりそうな思考を必死に回転させる。


「………………まあ、胸の大きさで動揺が抑えられてるってのは、あります」


 以前胸の話で誤魔化すと怒られたので、今回は正直に答えた。

 ストレートな言葉ではないのは、悠斗のせめてもの抵抗だ。

 全員が固唾かたずを飲んで見守る中、ゆっくりと美羽の腕が解かれていく。

 どうやら正解だったかと、胸を撫で下ろそうとした瞬間――


「ふんす!」

「ぐえっ! み、みう゛……。くび、が……」


 綺麗に騙され、油断した喉に美羽の腕が強く巻き付いた。

 腕を必死にタップすると、僅かに拘束が緩む。

 代わりに、悠斗の頭を美羽の顎がぐりぐりと抉ってきた。


「正直に答えたのは褒めてあげる。でも、おしおき」

「……因みに、嘘をついてたら?」

「その時は帰ってからおしおきだったね」

「どっちでも駄目だったのかよ……」


 どのみち、悠斗は詰んでいたらしい。

 あまりにも理不尽な行いだが、こういう所も愛しいと思う。

 がっくりと肩を落とし、されるがままになる悠斗を、六つの目が呆れた風に見つめていた。


「……俺達は何を見せられてるんだ?」

「バカップルの中のバカップル、その一部始終、かな?」

「私、胃もたれしそうだよぉ……」

「……いや、マジですまん」


 三人の呟きに申し訳なさが沸き上がり、美羽に抱き着かれながらも謝る。

 これからは、理由があっても学校で密着するのは避けようと思うのだった。

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