第168話 立場を捨てて
普段なら、放課後になった途端に、あちこちから弾んだ声が聞こえてきているはずだ。
しかし、今の教室内は重苦しい空気で満たされていた。
「「……」」
気まずそうに顔を顰める者、ひそひそと小さく話す者など様々な人が居るが、ほぼ全ての人の視線が愛しい恋人へと向けられている。
その視線の種類もこれまでと違っており、興味や生温い視線ではなく、どこか怯えるような、様子を窺うような視線だ。例外は蓮や哲也、紬くらいだろう。
しかし本人はどこ吹く風とばかりに、美しい無表情で視線を無視して帰り支度をしている。
「……取り敢えず、俺も帰る準備をするか」
この場に美羽が居ても、良い方向には進まない。
何が起こったのかはおおよそ察しているが、美羽の口から聞くべきだ。
悠斗もいそいそと帰り支度をしていると、一人の男子生徒が逃げるように教室の扉へと向かってくる。
そして、扉の前の席に座っている悠斗と目が合い、顔を青くした。
(多分、原因はこいつなんだろうなぁ……)
二年生になって一ヶ月近くも過ごせば、クラスメイトがどういう人かは大体分かる。
そして、彼は悠斗を快く思っていない人達の一人だ。
なので、実害が無ければ構わないと関わらないでいたのだが、この様子からすると、彼が美羽を怒らせたのだろう。
せめて教室の後ろから出れば良かったものを、この場から逃げたい一心で行動したせいで、悠斗の顔を見てしまったに違いない。
同情するつもりはないが、かといって無視する訳にもいかず、小さく口を動かす。
「じゃあな」
「……っ」
彼は悠斗の言葉に応えず、泣きそうな顔で出て行った。
新学期早々、教室に居場所がなくなるのは辛いだろうが、残念ながら悠斗は彼に手を差し伸べる程優しくはない。
気持ちを切り替えて帰り支度を終えると、張り付けたような笑みの美羽が近付いてきた。
「帰ろう、悠くん」
「おう。それじゃあな」
「またな、悠」
「また明日、悠斗」
周囲の空気に呆れているような表情の蓮や哲也と軽く挨拶する。
背を向けようと思ったのだが、紬が視線だけで挨拶してきた。
同じく視線だけで返事をし、教室を出る。
「……」
美羽は教室を出るまで笑顔を浮かべていたが、教室を出た瞬間から感情を抑えているような無表情へと変わった。
普段であれば悠斗に甘えたり愚痴を溢したりするのだが、今日はそんな気分でもないらしい。
無言を貫き、張り詰めた空気のまま学校を出て、ゆっくりと駅へ向かう。
おそらく、悠斗達の様子を見た人は喧嘩でもしたのかと思うはずだ。
もちろんそんな事はなく、悠斗と美羽の指はしっかりと絡まっている。
「家に帰ってからの方がいいよな?」
「……うん。ゆっくり話したいから、それでお願いしたいな」
念の為に確認を取れば、美羽が淡い微笑を浮かべて頷いた。
いつもなら澄んでいるはずのはしばみ色の瞳が、怒りや悲しみに染まっている。
今すぐにでも尋ねたいのだが、美羽の意志を汲み取って頷いた。
「分かった。それじゃあ後でな」
少しでも美羽の心を穏やかにしたくて笑顔を浮かべれば、美羽が形の良い眉をへにゃりと歪ませた。
「……ありがとう、悠くん」
「それを言うなら、俺の方がありがとうだっての」
ぽんぽんと小さな頭を軽く叩くと、美羽が顔を俯ける。
少し重い空気の中、美羽と共に家に帰るのだった。
「それで、何があったんだ?」
家に着き、一息ついてから美羽へと尋ねた。
帰るまでにある程度感情が落ち着いたのか、美羽がゆっくりと口を開く。
とはいえ美羽の目は笑っておらず、表情は不満に彩られているのだが。
「悠くんには申し訳ないけど、私はあの立場を辞める。もう付き合ってられない」
「……俺が馬鹿にされたんだろ?」
いきなり本題を口にした美羽に苦笑を落として、理由を尋ねる。
美羽がこうして
そして、今回は教室の雰囲気だけであっさりと察せた。
美羽が絶対に譲らないという意志を瞳に宿して、大きく頷く。
「うん。どうして休み時間は一緒に居ないのとか、覗き魔とどうして付き合ってるのかって言われたの」
「なるほどな。分かったよ」
明らかに美羽の地雷を踏み抜いた発言をされて、我慢出来なかったのだろう。
クラスメイト全員と仲良く出来ないのは分かっているし、悠斗を嫌う人が居るのも分かっているつもりだ。
それでも、こんなにも怒ってくれた美羽を労いたくて、小さな頭に手を伸ばす。
「ん……」
「頑張らせてごめんな、美羽」
元々、美羽は人気者の立場に固執していなかった。
しかし、悠斗がその立場を捨てないで欲しいと言ったせいで、ここまで頑張らせてしまったに違いない。
意見の押し付けをした後悔でズキリと胸が痛み、美羽を癒しつつも謝罪をした。
しかし、美羽は力無く首を振る。
「悠くんのせいじゃないよ。悠くんは私の立場と皆の事を考えてくれたもん」
「そうは言うけど、美羽が嫌がる事をやらせたんだ。……情けない彼氏だな」
「そんな事言わないで。本当に、悠くんのせいじゃないんだから」
美羽が悠斗の手を掴み、白磁の頬へと持って行った。
すりすりと手に頬擦りし、気持ち良さそうに目を細める。
まだ謝りたいのだが、こんな表情をされては頭を下げられない。
口を
「……お願いがあるの」
「何でも言ってくれ」
美羽が許していても、悠斗は無理強いさせたと思っている。
そのお詫びとして、どんな無茶な要求でも応えるつもりだ。
一瞬の迷いもなく返答すれば、美羽が瞳を潤ませて悠斗を見上げる。
「私が一人になっても、皆に怒った私でも、一緒に居てくれる?」
「もちろんだ。俺は元々蓮くらいしか友達が居なかったんだぞ? 美羽がクラスメイトと一緒に居なくても、何の問題もないっての。それに、俺は美羽が怒ってくれて嬉しかったよ」
いくら今の立場を捨てる覚悟をしていても、やはり一人になるのは不安なのだろう。
悠斗は別に人気者になりたい訳ではないし、クラスメイト全員と美羽なら迷いなく美羽を選ぶ。
そして、悠斗の為に怒ってくれた恋人を一人にする訳がない。
美羽の不安を無くす為に華奢な肩を抱き締めると、腕の中で美羽が力を抜いた。
「……我儘でごめんね」
「こんなの我儘でも何でもない。美羽の力になるのが俺のやりたい事なんだからな」
「悠くんは優し過ぎるよ」
「美羽程じゃないっての」
悠斗の優しさなど、美羽の足元にも及ばない。恋人の力になるのは当たり前だ。
それに、こういう時の美羽がどんな態度を取るか、悠斗にはよく分かっている。
「ほんの少しでも嫌な事があったら言うんだぞ。抱え込むのは無しだからな」
例え虐められても自分のせいだと思い、悠斗にすら告げずに一人で背負い込むかもしれない。
事前に釘を刺すと、美羽の顔が泣き笑いへと変わる。
「……うん。分かった」
「それに蓮や哲也、椎葉も一緒に居てくれるだろうしな」
蓮は周囲の反応など気にせず、普段通り美羽に接するだろう。
そうでなければ、窓際に居た悠斗と友人になどなれなかったはずだ。
そして哲也とはこの約一ヶ月間の付き合いで、非常に仲を深められた。
おそらく、悠斗と美羽の味方をしてくれる。
そして紬だが、表立って美羽の味方をするとは考えにくいものの、決して美羽を突き放したりしないと思う。
もう美羽が一人になる事などないと笑みを向ければ、端正な顔がくしゃりと歪んだ。
「……そうだね」
「心配すんな。皆一緒だし、俺は絶対に美羽の味方だ」
「なら、何があっても大丈夫だよ」
とんとんと背中を叩いて励ますと、美羽の顔からようやく負の感情が抜けた。
ただ、流石に注意すべき事があると、淡く微笑む美羽を真剣な表情で見下ろす。
「でも、あんまりくっつきすぎるのは駄目だからな。学校の中なんだし、程々にだ」
いくら悠斗と美羽が恋人でも、風紀を乱し過ぎてしまえば注意される。
ガチガチに基準を守る優等生ではないが、学校とは勉強の為に来ている場所なのだから。
しかし美羽は不満のようで、頬をぷくっと膨らませた。
「えー」
「えー、じゃない。多少はいいけど、やり過ぎ注意だ」
「じゃあ程々にするね!」
「……絶対程々じゃないだろうが」
ただでさえ悠斗と美羽は普段距離が近いのだ。
満面の笑みで応えられても、悠斗の胸には不安しか沸き上がらない。
がっくりと肩を落とし、明日から怒られない事を祈るのだった。
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